二度あることは

 丑三つ時の路地は昼間の喧騒が嘘のように静まりかえっている。そこに現れた唯一の人影はタバコを咥えてマッチで火をつけた。黒い帽子を目深に被り、赤いジャケットを羽織った男の名は葛西善二郎。知る人ぞ知る伝説の犯罪者であり、全国指名手配中の放火魔だ。しかし彼は警察の目を掻い潜り悠々自適な生活を送っている。たとえ太陽の下を堂々と歩こうとも、誰一人彼の正体に気づく者はいない。
 葛西は適当な居酒屋で腹を満たし、酔い醒ましに夜風を浴びながら歩いているところだった。ふと、彼の脳裏に居酒屋で小耳に挟んだ話がよぎる。なんでも特定の映像を見た連中は『急に』暴れたくなるらしい。映像は人から人へと伝えられ、徐々に悪意の輪が広がっているのだとか。はじめは馬鹿げた話だと聞き流していたが、思い返してみれば確かに街中で騒動を目撃する回数が増えた気もする。しかし映像を見る機会さえなければ何の影響もないようだ。現に葛西は平和な夜を過ごしている。

 ゆるりと歩いているうちに、つい先日訪れた喫煙所の付近にいると気づいた。そこで出会ったのは葛西が好む銘柄を吸おうと苦戦していた女。興味本位で声をかけたが、最後にはタバコを貰う程話し込んでしまった。自分より一回りほど若く、なかなか整った顔立ちをしていたと彼は記憶している。運が良ければまたどこかで会えるだろうか、などと淡い期待を抱いたのは酔っているせいかもしれない。そう思っていた矢先、怒鳴り声が静寂を裂いた。

「いってぇな! 何すんだよ!」

 葛西が何事かと視線をやると、どこか見覚えのある横顔が目に止まった。恐らく喫煙所で出会った女だ。彼女は道の真ん中で妙な男に絡まれている。

「おまえ! 今ぶつかっただろッ!? ぶつかったよなァ!?」
「すみません。こちらの不注意でした」
「足りねぇよ!! もっと! もっと! 頭を下げろやぁあぁあ!!」
「...っ!?」

 相手の男が腕を振り上げた瞬間、女は目を瞑ったが衝撃はやってこなかった。代わりに男の口から無様な声が漏れる。

「グヘァっ!?!?」

 男は鳩尾に葛西の強烈な蹴りを受けて地面に伸びてしまった。葛西が振り返って顔を確認すると、やはり喫煙所で出会った人物に違いなかった。

「姉ちゃん、大丈夫かい?」
「あの時の...! 助けてくださってありがとうございます」
「この前の借りを返しただけさ」

 彼女も葛西のことを覚えていたらしく、安堵の色を浮かべた。それに気を良くした葛西だったが、居酒屋での話を思い出して口を開いた。

「最近妙な連中が増えてるらしいからな。深夜にこんな裏道を1人で彷徨くのはおすすめしないぜ」
「すみません、仕事帰りで仕方がなかったんです」
「そりゃあ大変だ。お疲れさん」
「ありがとうございます」

 彼女は丁寧に会釈した。この時間にこの地域で働いているとなると職業は絞られる。かといって酒やタバコの匂いがしないので接客業ではないだろう。葛西の直感が彼女は一般的な職業に就いているわけではなさそうだと告げる。落ち着いた佇まいの彼女は一体何を隠しているのだろうか。好奇心が頭を擡げ、葛西の内にあった軟派な心を揺らした。

「姉ちゃん、俺が家まで送っていこうか?」
「これ以上ご迷惑をおかけするのは...」
「気にするな。こんなに物騒な世の中じゃ、また絡まれるかもしれないぜ」
「...一駅分ほど歩きますが、お願いしてもいいですか?」
「任せとけ」

 彼女は逡巡して控えめに頼んだ。返答を聞いた葛西は口角を釣り上げた。

▽▽▽


 2人は夜道を並んで歩いた。特段会話が弾むわけではなかったが、道案内に時折混ざる細々とした言葉の往来は妙な居心地の良さがあった。互いの距離感が上手く噛み合っているのだろう。
 彼女の案内によって辿り着いた先は見るからに高級マンションだった。見上げた葛西が感心して言葉を零す。
 
「驚いたな。あんたこんなに良いとこに住んでんのか」
「少し前までは父と2人暮らしだったので」
「例のタバコ好きの親父さんか」

 葛西は以前の会話を思い出して言った。父親は亡くなっているそうだ。となると現在彼女は一人暮らし。邪な考えが芽生えそうになったが、彼女の声によって遮られた。

「あの、5分だけここで待ってもらえませんか。お礼を持ってきます」
「この前の借りでチャラだ。礼はいらねえよ」
「それはさっきの分で、送ってくださったのとは別です。少しだけ待っててください」

 彼女はエントランスの奥へ消えていった。夜道を1人で歩くとはいえ、見知らぬ男を簡単に通すほど警戒心が薄いわけではないらしい。葛西は少し残念に思った。数分経って彼女は小さい紙袋を手にして戻ってきた。

「お待たせしました。これ、よかったらどうぞ。あなたの話を聞いて、結局捨てられなかったんです」

 中を覗くと例の銘柄のロゴで埋め尽くされていた。冷凍庫から取り出してきたばかりで冷気を保っている。

「本当にいいのか?」
「まだまだ残っているので大丈夫ですよ。それに、あなたへのお礼はこれくらいしか思いつかなくて」

 彼女がほんの少し照れたように微笑む。そのかんばせは葛西の目に魅力的に映った。

火火火(ヒヒヒ)ッ参ったな。こんなに良くしてもらえるとは」
「それはこちらの台詞です。またどこかでご縁があると良いですね」
「ああ、そうだな」

 葛西は彼女に背を向けて上機嫌な足取りで帰路についた。互いの名前は知らないくせに、相手の好みのタバコか住む場所は知っている。この奇妙な関係性をこれで終わらせるには勿体ない。葛西は柄にもなく再会を祈った。

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