紫煙が誘う

 苗字洋介の死は診療所の関係者を大いに驚かせた。診療所には馴染みの患者達から香典や供物が毎日のように届き、名前に心配の声をかける者も多かった。風の噂で犯人の土井が某組員に締め上げられたと耳にしたが、名前にとっては特に興味のない事だった。もう診療所に関わらないでくれたらそれでいい。
 名前は今後の診療所の経営に不安を覚えていたが、今のところは特に問題はなく回っている。

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 ネウロと弥子が苗字診療所の事件を解決してから数日後。名前は高校の授業が終わる頃合を見計らって探偵事務所を訪れた。謎の気配が無いと分かると、ネウロは椅子を回して窓の外へ向いてしまった。
 その後方で名前と弥子はテーブルを挟んでソファに腰を下ろしている。名前は両脇に抱えていた紙袋を差し出した。

「今日はお裾分けに来ました。探偵事務所の皆様で召し上がってください」
「これ全部貰っても良いんですか!?」
「はい。毎日色々な方からいただくのですが、お供えする分より多く取ってもこんなに余るくらいなんです」
「あ、ありがとうございますっ!!」

 受け取った弥子は顔を輝かせながら中身を覗いている。どれも有名店の菓子ばかりだ。ネウロやあかねは食べないので実質弥子の独り占めとなる。そして吾代の分を残しておけるほど彼女の胃袋は優しくない。名前は弥子が喜んでいる姿を見て柔らかい笑みを浮かべた。

「またお菓子が増えたら桂木さんにお届けしますね」
「いやいや、むしろ私が取りに行きますって! あ、良かったら連絡先を交換しませんか?」
「ぜひお願いします」

 弥子と名前は携帯電話を取り出して互いの電話帳に登録した。ネウロは会話を聞きながら利用出来る駒が増えたとほくそ笑んでいたが、気づいていたのはあかねだけだった。

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 探偵事務所を後にした名前は診療所の近くにある喫煙所に立ち寄った。喫煙所と言っても、数個のベンチと赤い吸殻スタンドが無造作に置かれているだけの場所だ。彼女の祖父と父は仕事の前後にここへ訪れていた。昔から存在しているが、一体誰が作ったのだろうか。役所の人間に撤去されないのはここが人目につかない裏通りだからなのか、怪しげな風貌の人間が集まる場所だからなのか。両方かもしれない。
 名前は喫煙者ではなかったが、洋介は昔から愛煙家だった。彼は好きな銘柄を自宅の冷凍庫で大量に保存していた。普通のタバコよりも長く、巻紙は焦げ茶色で匂いも特徴的だった。それらは事件以来誰にも吸われないまま放置されていたのだが、名前は出かける前に試しに1箱持ち出してきた。買えば高い嗜好品をただ捨てるのは勿体ないので、もし自分が気に入れば残りも吸って消費しようと考えたのだ。ベンチに座ってタバコを取り出し、安物のライターで適当に火をつけた。

「っ、ゴホッゲホッ」

 吸い込む加減が分からずに噎せてしまった。タバコの味を理解するのは容易ではないらしい。ひとまず新鮮な空気を肺に送る。
 夕方の中途半端な時間帯なので他に人はいないと思っていたが、不意に声がかかった。

「姉ちゃん、無理すんなよ。吸い慣れてねえだろ」

 振り返ると黒い帽子を目深に被った男が立っていた。柄シャツを纏った体躯は鍛え上げられているとひと目で分かる。名前は警戒したが、男は間隔を空けてベンチの端に腰を下ろした。

「初心者にしちゃ、随分珍しいタバコ吸ってんな」
「...父が好きだった銘柄なんです」
「へえ、親父さんとは気が合いそうだ。絶版になって、さぞ悔しいだろうな」
「絶版なんですか?」
「知らなかったのか。もう何年も前から売ってねえよ。こんなに美味いってのに、残念だ」

 男は胸ポケットから名前が持っているものと同じ箱を取り出してタバコを咥えた。こだわりがあるのか、マッチで火を付けた。彼は噎せることなくゆっくりと吸い込んだ。紫煙を燻らす姿は様になっている。名前は持っていた箱を戸惑いがちに差し出した。

「あの...ご迷惑でなければ貰っていただけませんか。私がただの灰にするより、価値が分かる人が吸うべきですよ」
「俺としちゃ嬉しいけど、本当に良いのか? 親父さんに怒られるぜ」
「...父は先日亡くなりました。家にまだ何箱も残っているのですが、処分しきれてなくて」
「...そうか、悪いな。有難く吸わせてもらうわ」

 男は一瞬驚いたようだが、状況を飲みこんで箱を受け取った。そして名前に助言をする。

「処分するにしても、一箱くらいは大事にとっておきな。レア物だぜ」
「そうしますね。知らずに捨ててしまうところでした。ありがとうございます」
「気にするな。俺もタバコ貰ったし」
 
 男は片手をひらひらと振って口角を上げる。名前の直感がこの人物は堅気ではないと告げているが、はじめに抱いた警戒心はすっかり消えていた。
 名前が右手に持っていたタバコは彼らが話し込んでいる間に短くなっていた。結局1回しか口に運ぶことは無かった。吸殻缶にタバコを落として立ち上がる。

「では、私はお先に失礼します」
「じゃあまたな。この恩は忘れねえよ」
「大袈裟な人ですね」

 冗談めかした男の発言に名前はくすりと笑った。タバコの味は分からなかったが、偶然の交流は悪くない。名前はほんの少し軽い足取りで診療所に向かった。

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