落花枝に帰らず:上

 先刻から名前は壁の時計をじっと見つめている。ダイニングには1人分の昼食がラップをかけた状態で置かれたまま。彼女はとうの昔に食べ終わっていて、配膳しているのは父親の洋介の分だ。
 昨夜は名前が非番で洋介だけが診察を担当する日だった。苗字診療所が開いているのは午前0時までだが、突然の急患や手術で時間が伸びること自体は珍しくない。寝泊まりすることも多々ある。しかし、連絡も無しに翌日の昼までに戻らないとなると話は別だ。洋介は名前からの電話にも出ない。立て続けの急患か、もっと大きなトラブルがあったのだろうか。不安に思った彼女は診療所へ向かった。

 診療所は自宅からほど近い雑居ビルの一角にひっそりと存在している。名前は関係者専用の裏口から鍵を開けて診療所に入った。室内は静まり返っていて、診察室の明かりはついていない。急患というわけではなさそうだ。他に考えられる洋介の居場所はスタッフルームだけ。物音ひとつしない扉を開けると、信じられない光景が目に飛び込んできた。床の上で動かない洋介の身体、落ちた灰皿、割れた酒瓶とグラス、他にも皿やゴミ箱が転がっている。ガラスの破片と酒らしき液体、吐瀉物が床にぶちまけられ、悪臭が鼻を刺す。すぐさま脈を確認したが、当然動かなかった。死後硬直は下肢にまで及んでいる。額に乾いた血がこびりついていて、表情は恐ろしいほど強ばっていた。
 普段から裏口は必ず鍵を閉めるようにしていた。名前が来た時も施錠されたままだった。では玄関は。彼女はハッとして受付の方に向かう。玄関の鍵は閉まっていた。厳重に保管している鍵や現金、薬、銃などは盗まれた形跡はない。脳裏に自殺という言葉が頭をよぎったが、洋介に限ってそんなことをするはずがなかった。たとえ紛い物でもこの診療所は誰かにとって必要だと名前に教えを説いたのは彼だ。仕事に生き甲斐を感じる人間が突然責任を放棄するような真似はしないはず。
 名前が必死に頭を働かせ、導いた結論は他殺だった。しかし、彼女の心に引っかかる点がある。明らかに殺すメリットよりもデメリットの方が大きいのだ。ここを訪れる患者の殆どが通常の病院では診てもらえない事情を抱えている。貴重な医者を殺した犯人の名が広まれば、その筋の者達によって闇に葬られるのは目に見えている。それを踏まえて何も盗らずにただ殺しに来たとは、一体何が目的なのだろうか。拭えない不快感が身体にまとわりついているようだ。
 なんとか事態を解決しようと考えた結果、旧友を頼ることにした。鞄から携帯電話を取り出して発信すればすぐに相手に繋がった。

「もしもし、吾代君?」
「名前! 久しぶりだな。元気してたか?」
「まあ普通かな。そっちは? 新しい職場には馴染めてる?」
「おう、今は副社長やってんだぜ」
「本当? 大出世したね」

 友人との会話で心に少し余裕が生まれて名前は口元を綻ばせる。どうやって本題に入ろうかと悩んだが、察した吾代から尋ねてきた。

「んで、俺に連絡寄越すって事は何かあったんだろ。どうしたんだ」
「早乙女社長の事件を解決してくれた人を紹介してくれない?」
「ああ、探偵か。別にいいけどよ、事件でもあったのか?」
「実は今朝、父さんがうちの病院で亡くなったの」
「親父さんが!?」
「うん。自殺ではなさそうだから調べてもらいたくて」
「分かった。俺が探偵に話を通しとくわ」
「ありがとう。本当に助かるよ」

 通話を一旦終了し、今度は世話になっている葬儀屋に遺体の引き取りを依頼した。名前は葬儀屋と探偵が来る前に現場の写真を隅々まで撮った。液体やガラス片などは片付け、その他には触れないように気をつける。しばらく作業をしていると吾代からのメールが入った。彼が診療所まで探偵を連れてきてくれるらしい。確か女子高生のはずだが学校はいいのだろうか、と考えられる程には名前の頭は冴えていた。

▽▽▽


 吾代と探偵達はすぐにやってきた。名前は診療所に迎え入れて丁寧に頭を下げる。

「今日は来てくださってありがとうございます。依頼をした苗字名前です」
「はじめまして、私は桂ぎぐへァっ!?!?」
「僕は助手の脳噛ネウロと申します! 早速ですがお話を聞かせていただけないでしょうか」
「はい。それじゃあ奥の部屋へどうぞ」

 助手であるはずのネウロが弥子の頭を掴んで紹介を遮ったが名前はそういうコミュニケーションだと解釈して冷静に対応した。
 待合室、診療所の横を通り抜け、スタッフルームへと案内する。

「今朝、ここで父の遺体を発見しました。遺体はすでに葬儀場まで運んでもらっていますが、他の物は触れずにそのままにしています。写真にも残しているので必要でしたら使ってください」
「ご丁寧にありがとうございます!」

 ネウロにカメラを手渡せば食い入るように確認を始めた。名前は遺体を発見した時の状況をできるだけ詳しく説明した。自殺の心当たりはないということも。話の区切りがついたところで弥子が名前に尋ねた。

「洋介さんってどんな方でしたか?」
「穏やかで腕も良いので人望が厚い人でした。酒好きで甘党だと患者さんの間でも有名だったので、手術のお礼に酒瓶や菓子折りを持ってきてくださる方もいたんです」
「だからこの部屋にもお菓子がたくさんあるんですね」
「はい。そうだ、未開封の物も多いので良かったら食べませんか。私はあまり甘い物は得意ではないので」
「えっ!? 良いんですか!?」
「父の好みなので和菓子ばかりですけどね」
「むしろ歓迎です!」
「じゃあお茶もいれますね。少しお待ちください」

 名前は慣れた手つきで3人分の緑茶を用意してテーブルに置いた。戸棚から菓子折りの箱を開けて隣に並べる。中身は最中(もなか)だった。弥子が目を輝かせて手を伸ばした時、部屋の外から大きく野太い声が聞こえた。

「おい!! おやっさんか名前ちゃんいねーか!? 相棒の足に風穴空いちまった!」
「はい! 今行きます! すみません、私患者さんの元にいかないと...。吾代君、ちょっと手伝って!」
「お、おう」
「部屋は自由に調べていただいて大丈夫ですので」

 名前はそう言い残して部屋を出た。扉の向こうでドタバタと音が聞こえてくる。足に風穴が空いたそうだが、弥子はその原因を考えようとしてやめた。探れば探るほど黒いものが出てきそうだ。彼女は吾代が口をつけずに出ていった茶と最中を胃に収めた。ネウロも湯呑みに全く手をつけないので、それも彼女の胃の中へ。

「運良く邪魔がいなくなったな」
「いだだだだだた! ぁあっつ!?」

 ネウロが無理やり弥子の口に湯呑みを突っ込んだせいで火傷をしたようだ。しかしネウロは気にもとめずに唐突な質問を投げかけた。

「ところでヤコよ。貴様以外の人間も花を喰うことがあるのか」
「食うわ! なんなら実際に食用の花とかあるくらいだよ。物によっちゃ種も食べれるし。そういえば小学校の花壇からヒマワリの種を回収したっけなあ。小腹が空いた時に丁度良いんだよね...」
「ほう。魔界のヒマワリは猛毒だったぞ。種を食べた魔界ハムスターが幻覚のせいで見境なく暴れるのがこれまた傑作でな」
「何そのバイオレンスハム太郎!?」

 こぼれた茶を拭きながら弥子は盛大なツッコミをいれた。ネウロが魔界話を一旦止め、まじまじと花瓶を眺めているので弥子は首を傾げる。花瓶には白い花を中心に挿してあって目を引く華やかさだが、ネウロが花に関心があるとは思えない。

「花がどうかしたの? 言っとくけど、その花瓶の花は食用じゃないからね」
「食用の花はそのまま喰うのか?」
「いや、調理するよ。生でも全然美味しいけど」
「ウジ虫の舌を基準に聞いているわけではない。世間一般でどう調理されるのかを言え」
「調理っていうか、彩りで添えられてることが多いかな。他には...あ、桜餅とか? 桜の塩漬けがあまじょっぱくてぐぇえッ!?」
「...それだ。あとはあの医者に心当たりを聞くだけだ」

 ネウロは床に転がったままの皿に視線を落とす。写真を見た限り、酒瓶の中身は床にこぼれていたのに対しこの皿には何も乗っていなかった。テーブルの角や灰皿に血痕が残っているが、大きさから見て致命傷ではなさそうだ。ネウロは脳内で洋介が絶命するまでの間に何が起こったのか、順序を整理していく。
 それからしばらくして吾代と名前がスタッフルームに戻ってきた。彼女は申し訳なさそうにしてネウロと弥子に頭を下げる。

「すみません、突然抜けてしまって。病院の性質上よくある事でして...」
「いえいえ大丈夫ですよ。ところで、ひとつお聞きしたいのですが、この花はどちらで購入されました?」
「それはよく来院される方からいただいたんです。花屋の店長なんですよ」
「なるほど。その方のカルテか名簿を見せてもらえると助かります」
「すぐ取ってきますね」

 名前が再び部屋を出る。受付に向かったのだろう。やりとりを聞いていた弥子はきょとんとした顔で呟く。

「花屋さんがここに...?」
「探偵の察しの通り、ただの花屋じゃねえだろうな。大方、筋者御用達の店だろ」
「あ、そういう...」

 吾代の言葉で弥子の顔が引きつった。やはりこの診療所は探らない方が良さげだ。
 名前がファイルとクリップボードをかかえて部屋に戻ってきた。それらを早速ネウロに手渡す。

「この土井さんという方です」
「会って直接お話を伺いたいのですが」
「営業時間中なので花屋に行けば会えるとは思いますけど...まさか犯人って」
「まだ確定ではありません。しかし、花屋に行って確認したいことがあります」
「...分かりました。今から行きましょうか」

 ネウロが謎の気配に舌なめずりをした。もう犯人が分かったのだろうか、と吾代と弥子は顔を見合わせる。4人はそのまま花屋へ向かうことになった。

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