燃え杭には火がつきやすい
日が落ちて辺りが暗くなってきた。名前は開院に合わせて準備に取り掛かる。待合室の掃除をしている最中に携帯電話の着信音が鳴り響いた。早坂という表示に嫌な予感がする。とりあえず電話に出ると案の定喜ばしくはない話が耳に飛び込んできた。
『たった今、例の放火魔に1発返した所だよ。警察に囲まれて絶体絶命の状況だが、何か策を残しているようにも見える』
「...そうですか。何故私にその情報を、」
『君は自分が思っているよりも顔に出やすいと気づいた方が良い。ポーカーフェイスが下手だよ。大方、あの放火魔はただの知り合いじゃないんだろう?』
「なっ...!」
衝撃を受けた名前が言葉を詰まらせる。早坂にとって彼女の反応は予想通りだったようで、話を続けた。先日のユキの治療に対する礼のつもりらしい。
『場所を教えてあげようか。今から駆けつけても骨くらいは拾えるはずだ』
「... ...どこですか」
名前は早坂から場所を聞き出すと即座に診療所を飛び出した。
派手好きの葛西が大人しく警察に捕まるとは思えない。警察側も連続テロの犯人であり指名手配中でもある彼に一切の手加減をしないだろう。両者がぶつかり合えば死人が出てもおかしくない。万が一にでも葛西が死んでしまったら。名前の背中に嫌な汗が伝う。最悪の想像をかき消すようにして夢中で走った。
葛西はビルの瓦礫と燃え盛る炎に囲まれて寝転がり、古い記憶に思いを馳せていた。
崩れた天井から夜空が垣間見える。数メートル先のそこから落ちたせいで背中が酷く痛む。警察から受けた銃の傷も今更主張を始めてきた。脱出する体力はもう残っていない。死ぬにはちょうど良い頃合だ。最後に残ったタバコを咥える。
「見届けたかったがな。葛西様は燃料切れで途中退場だ。一服したらとりあえず死んどくか」
いつものごとくマッチで日をつけようとしたが箱がなかった。
「! ...くそ、マッチか」
可燃液も残量切れで火をつける手段がない。愛煙家にはもどかしい仕打ちだ。冗談交じりに天井に向かって声をかけた。
「おーい、誰か火ィ貸してくれよ」
当然返事をする者はいない。その代わりに嫌な音を立てて壁にヒビが入った。小さな箇所から全体へと広がっていく。
「
轟音と共に炎を纏った天井と壁が崩れ落ちた。塞がる視界と全身の痛みで彼は意識を手放した。
葛西が目を覚ますと視界には白い天井が広がっていた。どうやら自分はベッドの上にいるらしいと気づく。
「...死んだわけじゃなさそうだな」
全身の痛みを感じながら、辛うじて動く首で周囲を見渡すとデスクに突っ伏している名前に気づいた。ここは苗字診療所の手術室のようだ。
「
白衣を羽織った体が規則正しく上下している。睡眠を妨げるのは申し訳ない気もしたが、葛西は自力で動けないので彼女に起きてもらうしかなかった。
「姉ちゃん、起きてくれ。おい、姉ちゃん」
呼びかけても反応がない。掠れた喉では声量が出ないので、試しに呼び方を変えてみる。
「んだよ、つまんねーな。おい、名前。名前。あー...くそ、これもダメか」
これもまた反応がない。葛西が妙な気恥ずかしさを感じていたところで名前の肩が小さく震えているのに気がついた。
「...おまえ、起きてんだろ」
「すみません。面白くて、つい」
名前がむくりと起き上がり、茶目っ気のある笑みを浮かべた。葛西は「言うようになったな」と内心で思いつつ、わざと困った様子の台詞を口にした。
「酷ぇ医者だな。満身創痍のおじちゃんを揶揄うのは楽しいか?」
「今までの分のお返しです。というか治療したんですから、これくらいは許してください」
「そう言われちゃ勝ち目がねーじゃねーか」
葛西が苦笑いを浮かべる。一方名前はベッドの横の椅子に座りなおし、医者としての視線を向けた。
「まだ暫く安静にしていてくださいね。全身の火傷が酷いです。それに打撲や裂傷、銃創も。よく生きてましたね」
「人間は意外と頑丈にできてるもんだな」
「他人事みたいに言わないでください...。全快まで相当長い時間がかかりますよ」
「別に良いさ。姉ちゃんなら最後まで面倒見てくれるだろ?」
「...どうでしょうかね」
「おい」
名前は返事を濁して立ち上がり、医療器具を片付け始めた。よく見ると彼女も腕に包帯を巻いていることに気づいた。葛西を助ける際に彼女も火傷を負ったのだ。金属の音を聞きながら葛西が茶々を入れる。
「わざわざあの瓦礫の中から俺を引っ張ってくるなんて、姉ちゃんも物好きだな」
「救える患者は救いたいじゃないですか」
「へえ。ただの患者にそこまでしてくれるのか」
「...患者というか、友人というか」
「
葛西がいじらしさを感じて揶揄うと名前は手を止めてじろりと睨んだ。
「次、変な事言ったら口を縫いつけますよ」
「そしたら俺と酒も飲めねえし、キスできねえけどいいのか?」
「...五針でいきましょう」
「悪かったって! 針はしまえ!」
名前が真顔で針を見せつけてきたので慌てて謝った。冗談を言える仲になったとはいえ限度に気をつけなければいけない。彼女は針をしまうとクスクスと笑った。その顔を見て葛西も口元を緩める。2人は小さな診療所の一室で法から外れた者とは思えないほど暖かな表情を浮かべていた。