悪獣もなおその類を思う

『患者さんから良いお酒をいただきました。明日の夜、私の家で飲みませんか?』

 葛西は携帯電話に表示されたメールを見つめた。差出人は名前だ。いつもならば直ぐに賛成して返信するところだが、今回ばかりは手を止めた。つい先程「シックス」から来日すると電話で告げられていたからだ。彼にとっては名前は根絶やしするべき対象の一員でしかない。そんな彼女と接触していると知られたら。更には葛西が少なからず好意を抱いていると知られたら。「シックス」の嗜虐性から考えて名前に被害が及ぶことは安易に想像出来る。

「...今回で最後にするか」

 葛西は文章を打ち込んで送信ボタンを押した。

▽▽▽


 翌日。約束通り葛西は名前の家を訪れた。早速リビングに案内されソファに腰を下ろす。目の前のテーブルにはワインボトルといくつもの料理が並べられている。名前が腕によりをかけて作ったのだ。ワインを注いだグラスを合わせるとカランと小気味よい音が響いた。名前が酒を喉に流し込む様子を見て葛西が揶揄う。

「今日は家だから飲み潰れても安心だな」
「もう忘れてください...! というか私の家に呼んだのは葛西さんの為でもあるんですよ」
「俺の?」
「あなた、外だと帽子を取らないじゃないですか。いつも周りを警戒しているんでしょう。ここなら気を緩めてお酒を飲めると思ったんです」
火火(ヒヒ)ッ、ありがてえ気遣いだ。俺はこの通り、傷跡が目立っちまうんでね」

 葛西は口元を歪めて帽子を取った。隠れていた額から痛々しい傷跡が顕になる。道理で頑なに帽子を取らなかったわけだ、と名前は納得した。特徴的な傷跡なので確かに街中では目立ってしまうだろう。そして今まで多くの怪我の症状を見てきた彼女には何の傷であるのか直ぐに見当がついた。

「火傷跡...ですか。時間は経っているようですが、その大きさなら手術で隠せますよ」
「それは親父さんにも言われたけど、断った」
「何故ですか?」
「...まあ、色々事情があんだよ。強いて言うなら戒めってとこだな」

 葛西はこれ以上語るつもりはないらしく、卓上の料理に手を伸ばした。名前は少し引っかかりが残るものの、詮索はやめておいた。
 しかし名前はまだ他にも聞きたいことがあるのだった。料理が減ってきた頃合を見計らって神妙な面持ちで話を切り出した。

「先日、私の友人が入院したんです。心臓を狙われて刺されたみたいで」
「そりゃ物騒だな」
「相手は子供だったそうですが...その子の仲間に黒い帽子の男がいたのだとか」
「... ...」
「彼はとある探偵事務所と繋がりがあって、最近のテロ事件の犯人を追うのを手伝っていました」

 名前が一旦そこで話を区切った。しかし葛西は無言でグラスを呷る。何かを考え込んでいるようにも見えた。彼女は静かに交わった視線を肯定と解釈して言葉を繋いだ。

「葛西さんを責めるつもりはありません。そもそも私は人の犯罪をとやかく言える立場ではないですから。ただ、あなたの目的が知りたいのです」
「目的ねェ...。俺は、長生きがしたいだけさ」
「長生き...」
「まだ若い姉ちゃんには理解できねーかもしれねーな」
「そんなことはないです」
「ムキになんなよ」

 葛西がくつくつと笑った。名前も名前でこうしてからかわれるのにすっかり慣れてしまった。言い返しても躱されると分かっているので話を続けることにする。

「...例の宣戦布告は警察だけに向けたわけではないですよね。それも長生きする為って言うんですか」
火火火(ヒヒヒ)、中々鋭いな。だがそれに関して俺の口から言えることは何もねーよ。うっかり口を滑らせちまったら、俺どころか姉ちゃんも死んじまう」

 葛西は物騒な内容とは裏腹に態とらしく口角を上げる。眉間にしわを寄せた名前が続きの言葉を待っているが、彼はグラスをテーブルに置いて徐に立ち上がった。

「というわけで、俺はもう姉ちゃんとは会えねえ」
「えっ...」
「へえ、そんな寂しそうな顔してくれるのか」
「...あなたと飲むのは楽しかったので」
「俺だってそうさ」

 普段の軽薄な声音とは違い湿っぽいそれが名前の耳朶を打った。別れを察した彼女は膝の上で拳を握りしめて顔を俯かせる。ほんの数秒、部屋が静寂に包まれた。先に沈黙を破ったのは葛西だった。上半身を屈めて柔らかな低音で声をかける。

「名前、顔上げろ」

 葛西は名前の頬に手を添えると唇を奪った。一瞬にして酒とタバコの匂いに包まれるが、温もりが離れたのもまた一瞬だった。驚いて固まっている彼女とは反対に葛西は涼しげな表情を浮かべる。帽子を深く被り、短い別れを告げた。

「じゃあな」
「ずるいです」
「なんとでも言ってくれ」

 彼はそのまま背を向けて出ていった。名前は追いかける気になれず、扉から視線を外した。唇に残った感触を紛らす為にグラスを呷ったが、胸を緩く締め付ける痛みからは逃れられなかった。結局、話の核心に触れることはできないまま終わってしまったと悔いた。

 それからというもの、葛西との連絡は途絶えてしまった。入れ違いでテレビのニュースでは漢数字の『六』に見立てて燃やされるビルの数々が映るようになった。間違いなく葛西の犯行だろう。警察の方も連続放火魔を捕らえようと全力を尽くして動いているようだ。名前は顔を曇らせて映像を眺めていた。

▽▽▽


 苗字診療所の受付時間が始まってすぐ、早坂がドアを勢いよく開けた。彼の後ろには部下と思われるスーツの男達がぐったりとしたユキを支えている。

「苗字さん、今すぐにユキの治療をしてくれ!」
「こちらへどうぞ」

 いつも余裕の笑みを浮かべている早坂も今回ばかりは冷や汗をかいている。部下達を手術台に促してユキを寝かせた。見たところ酷い火傷を負っているようで、服は焼け焦げて皮膚は赤くただれている。ここへ来る前に水で冷やしたのか全身は濡れていた。名前は白衣を翻し早速治療に取り掛かった。
 壊死した皮膚の処理を行い軟膏を塗って保護をする。名前は包帯を丁寧に巻き終えてユキに声をかけた。

「今日できることは終わりました。明日も来てください」
「ああ、分かった。ありがとうな」

 ユキが掠れた声で礼を言って起き上がった。2人揃って待合室にいけば早坂がひとりで辛抱強く待っていた。部下達は先に帰らせたようだ。彼は相変わらずの笑顔を浮かべた。

「君がいてくれて助かったよ」
「こちらこそ、応急処置が適切だったので楽にできました。ありがとうございます」
「...ところで苗字さん。裏社会で顔が広い君に聞きたいことがあるんだが」
「それなりに知り合いは多い方だと思いますが...、何でしょうか」

 早坂が改まって言ったので名前は首を傾げた。彼も中々の情報通であるのに自分の知識で力になれるだろうかと不安になる。しかし彼の口から発せられた言葉を聞いて目眩がしそうになった。

「長身で黒い帽子、赤いジャケット、そしてタバコをふかしている男に心当たりはないかい? 」
「その人は...ユキさんに怪我を負わせた相手ですか?」
「ああ、そうだ。あの野郎、火薬の匂いだけで俺の暗器を見破りやがった。あれは絶対に堅気じゃねぇ」
「そういう訳なんだ。苗字さんならどこの組員か目星がつくかと思ったんだが...」
「... ... 多分、最近巷を騒がせている放火犯だと思います」

 悩んだ挙句、名前は葛西について話すことを選択した。関わりを絶ったのも同然の人物なのだ。患者に話すくらい良いだろう。彼女はそう思っていたのだが、場の温度が急激に下がったような感覚に陥った。早坂の口角が更に釣り上がる。

「ビルを燃やしてるやつのことかね」
「はい」
「それなら警察から情報を拝借するか」
「追うつもりですか」
「弟が世話になったんだ。一発返してやらないと」

 早坂とユキが不敵に笑う。彼らからすれば警察から情報を横取りするのも容易いのだろう。名前は急転する事態を前にして、とんでもない引き金を引いてしまったのかもしれないと焦りを覚えた。しかし彼女の手に負える問題でもない。仕方なく口を噤むしかなかった。

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