不穏な影

 名前が葛西と飲みに行った翌日。彼女が目覚めたのは自室のベッドではなくソファの上だった。ブランケットを退けて凝り固まった体を解すために伸びをする。欠伸をしながらぼんやりとした頭で昨夜の記憶を辿っていくうちに眠気が飛んでいった。慌てて携帯電話を開いて葛西の名前を押す。

『おはよう姉ちゃん。今お目覚めかい?』
「はい、おはようございます。昨日は本当にすみませんでした...!」
『あれくらい誰でも一度はあるさ。ま、飲み過ぎには気をつけろよ』
「肝に銘じておきます。食事とタクシー代は次回お会いした時に必ず返します」
『俺の奢りだから気にするな』
「そんな...! 申し訳ないです」

 自分から誘ったのに酔い潰れて自宅まで送り届けてもらったのだ。支払いを全額負担してもらうのは如何なものか、と名前は困り果てる。葛西は彼女の胸中を察してひとつ提案をした。

『じゃあまた飲みに付き合ってくれ。それでチャラな』
「葛西さんが割に合わないのでは」
『まさか。姉ちゃんと飲めるならお釣りがくるくらいだ』
「そうやってすぐ揶揄って...!」
火火火(ヒヒヒ)ッ』
 電話越しに葛西の笑い声が聞こえてくる。彼にとっては本気の誘いでもあるのだが、名前は真面目に取り合おうとはしない。このまま軟派な社交辞令と思われるのも嫌だったので、葛西は改めて誘い文句を口にした。

『まあ次の休診日にでも連絡してくれや』
「分かりました」
『それと、チョコレート美味かったぜ。ありがとうな』
「お口に合ったみたいで良かったです」

 名前の声が柔らかなものになった。今までバレンタインにはあまり関心がなかったが、こうして喜んでもらえると選びがいがあったというものだ。通話が終わってすぐに彼女は弥子に感謝のメールを送った。

▽▽▽


 ある日、名前は出勤前に何気なくテレビを見ていた。テレビ画面に大きく映し出されたのは都内にある野球場の映像。しかし試合が行われているわけではない。緑で覆われた地面の上を炎が線を描くように滑らかに這う。数秒と経たないうちに浮かび上がったのは巨大な数字だった。

「また『6』...」

 ひとりきりの部屋で名前は思わず呟いた。先日のセレブヒルズの騒動も同じ数字だったと記憶している。余程『6』を世間に印象漬けたいらしい。案の定、番組はニュースに切り替わり混乱する民衆が映った。一回目の『6』が現れて数日後に大洪水テロが起こった事を考えれば当然の反応だ。

「葛西さんの目的は一体...」

 名前の言葉は虚空に消えた。おそらく本人に尋ねても答えてはくれないだろう。事件の規模からして葛西は単独で動いているわけではなさそうなので、テロ組織に身を置いているということか。しかし不思議と恐怖心は湧き上がってこなかった。いつか自分もテロに巻き込まれる可能性もあるというのに。ここ最近で葛西と親しくなったせいかもしれない。彼も自分もこの先無事だと良いのだけれど、などと思いながら名前はテレビを消して出勤の支度を始めた。

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 例の宣戦布告が放映されて間もなく、湾岸地帯のタワーマンションの崩壊、高級ホテル内の大量毒殺と立て続けに事件が起こった。名前に直接被害が及ぶことはなかったが、患者の中には巻き込まれた者もいると聞いて複雑な心境に陥った。
 そんな中、名前の元に一通のメールが送られてきた。差出人は弥子で内容は吾代が大怪我で入院したとの事だ。彼女は早速見舞いにいくという旨をメールに打ち込んだ。

 翌日、名前は紙袋を携えて吾代が入院している病院を訪れた。広々として明るい院内は苗字診療所と真反対で落ち着かない。廊下を急ぎ足で通り抜け目当ての部屋の扉をスライドした。入院着姿の吾代は起き上がってテレビを見ているところだった。

「吾代君、お見舞いに来たよ」
「おう、名前。忙しいのに悪ぃな」
「全然大丈夫。雑誌とお菓子を買ってきたからここに置いておくね」
「サンキュ」

 吾代が歯を見せて笑った。ベッド横にある棚には大量の差し入れがあり、吾代の人望の厚さが窺える。名前の想像より彼が元気そうだったので冗談混じりに聞いてみた。

「ところで、何をしたら銃創以外で身体に風穴が空くのよ」
「うっせーな、尖った木で刺されたんだよ。咄嗟に急所を外したから褒めてもらいたいくらいだぜ」
「...勿論、ただの喧嘩ってわけじゃないでしょう?」
「まあな。うちの探偵と助手が厄介事を引っ張ってきやがってさ、俺も巻き添え食らった」
「桂木さんと脳噛さんが...? あの2人は大丈夫なの?」
「あいつらなりに反撃の手立ては打ってるみたいだ」

 吾代の言葉に名前は眉を顰めた。探偵の仕事で何か事件を追っているのだろうか。吾代がこれほどの怪我を負う事態に発展したとは並の事件ではないはずだ。名前の脳内でパズルのピースが組合わさるようにひとつの仮説が出来上がった。彼女は神妙な面持ちで尋ねる。

「もしかして、連続テロの犯人を追ってるの?」
「...! おまえ、何か知ってんのか?」
「...吾代君を刺した人って長身で黒い帽子を被ってた?」
「いや、ニット帽のガキだ。...でも確か、そいつの仲間に似たようなのがいた。まさか知り合いなのか?」
「...違うとも、言いきれない」
「念の為に聞いておくけど、おまえはテロに加担してないんだな?」
「うん。それは断言する」
「ならいい。追い詰められたような顔すんな」

 平静を装っていたつもりの名前だったが、吾代は顔が強ばっているのを見抜いたらしい。しかし深入りはせずに彼女を気遣った。

「テロだの何だのって、物騒な世の中になっちまったからな。名前も気をつけろよ」
「...そうね。吾代君こそ今後も気をつけて。それじゃあ、お大事に」
「ん。またな」

 名前は病室を後にした。吾代の怪我は確実に葛西の仲間によるものだろう。名前がテロに加担していないのは事実だが、心苦しくなるものがあった。今までの一連のテロを遠くの出来事として見ていた節があったが、ここまで身近に感じることになるとは。彼女の心は戸惑いと不安、そして罪悪感が渦巻いていた。

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