憩いのひととき

 全国指名手配中にもかかわらず、葛西は昼間の大通り沿いで平然と通話をしている。それどころか電話口で大きな声を上げた。

「なんだァ!? またアジト変えやがったのかよ!?」
『またほどなく変えます。蛭の通信が傍受される恐れがあるので』
「相変わらず異常なまでに用心深い...」

 あまりの徹底ぶりに葛西は舌を巻いた。電話口の向こうにいる彼女の名前はアイ。容姿端麗、冷静沈着という言葉をそのまま具現化したような女性だ。知り合いの闇医者もどことなく似た雰囲気を纏っていることを思い出す。彼は少しばかりの出来心で軟派な言葉を投げかけた。

「てゆーかつれねーなーアイ。これじゃ滅多におまえに会えねーじゃねーか」
『...。ご冗談を、葛西。切ります』

 アイは全く相手にせず、無情にも通話は終了した。ここまでの対応をされるといっそ清々しいまである。似ていると言っても例の闇医者の方が愛想が良いらしい、と葛西は胸の内で愚痴を零した。しかし、彼の本来の目的はアイを口説き落とすことではない。

「ったく、面倒臭ぇ。あのお方に何て報告しろってんだ」

 葛西の脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。悪意の定向進化を遂げた、人と似て非なる存在。同じ空間にいるだけで吐き気がこみあげてくるのに離れられない『悪』のカリスマ。その人物にアイのアジトの情報を告げなくてはいけないのだが、毎度上手く躱されているのが現状だ。

「気分転換にでも行くか」

 葛西は小さくため息をついて歩き出した。

▽▽▽


 その頃、苗字診療所では急患の手術が行われていた。何やら他の組のいざこざに巻き込まれたのだとか。腕にある鋭利な刃物で切られた傷が痛々しい。刺青に被らなくて幸運だった、と患者は言った。
 手術は数針縫ってすぐに終了した。白衣姿の名前がマスクと手袋を外しながら患者に声をかける。

「お疲れ様でした。来週もまた来てください」
「助かったよ名前ちゃん」

 患者は支払いを済ませて意気揚々と出ていった。受付から出口を見送る。次回は抜糸をしなくては、と名前は紙面上にペンを走らせた。
 ひと段落して今夜の開院準備でもしようと思い立ったところでタイミング良く扉が開いた。また急患かと名前が顔を上げたが、診療所に入ってきたのは黒い帽子の男だった。

「こんな真っ昼間からいるのかい」
「葛西さんじゃないですか。どうされましたか?」
「姉ちゃんの顔が見たくてな」
「ご冗談を」

 名前がくすくすと笑った。それを見た葛西はやっぱり愛想が良いのはこっちだな、などと勝手に比較した。気を良くした彼はおどけた口調で言う。

「近くに寄ったから冷やかしに来ただけだ。仕事の邪魔して悪かったよ」
「いえいえ。健康体が一番ですから、冷やかしでも歓迎ですよ」
火火(ヒヒ)ッそりゃ良かった」
「コーヒーを用意してきます。適当に掛けておいてください」
「おー、ありがとな」

 葛西は待合室のソファに腰を下ろした。名前は奥の部屋から小さなテーブルを持ってきて、その上に2人分のグラスを置いた。診療時間外なのでゆったりとこの場所を独占できる。名前が思い出したように口を開いた。

「そういえば、葛西さんのカルテがまだ残っていましたよ」
「あれまだ置いてあんのか。かなり古いだろ?」
「はい。最後の来院は10年くらい前でしたね」
「俺がまだまだ若い時じゃねーか」

 葛西がそうやって自虐的に笑いにしてみせたので名前は素直に思ったことを言った。

「先日も言いましたが、あなたは十分お若いですよ」
「姉ちゃんの目にそう写ってるなら嬉しいね」
「何ですかそれ」

 名前が小さく笑った。やはり彼は少々軟派な所があるらしい。しかし決して嫌なわけではない。鋭い目付きの奥には確かに狂気が燻っているのだが、彼は隠すのが上手かった。元来世渡り上手な気質なのだろう。裏社会の人間にしては随分と常識人のように見える。そういう所を名前は密かに尊敬していた。
 一方葛西は猫でも手なずけているような感覚を抱いていた。名前が段々と心を開いていくのが分かり、表情の変化に魅せられている。タバコ以外でストレスが和らぐとは思ってもみなかったことだ。

 彼らはそれぞれの形で相手に思いを抱いていたが勿論口に出すことは無かった。奇妙で居心地の良い空間で細々と雑談を楽しみながらコーヒーを啜るのであった。

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