明日知らぬ世

 開院前の明るい時間帯。名前が診療所の片付けをしていると着信音が響いた。画面上の葛西という文字が目に入り、少しだけ胸がはずむ。名前にとって患者以外と交流を持つのは珍しいことで、彼は数少ない友人のひとりだ。今日の用事は何だろうかと思いながら通話ボタンを押した。

「もしもし」
『今から診療所に行ってもいいか?』
「はい、大丈夫ですよ。治療ですか?」
『違う違う。ちょっくら海外に行ってたんでね。姉ちゃんに土産を渡そうと思って』
「お気遣いありがとうございます」
『気にすんな。そんじゃあ今からそっちに向かうわ』

 葛西の声はどことなく楽しそうだ。通話を切って名前はスタッフルームの掃除に向かった。先日は突然の来訪で大したもてなしができなかったと少し申し訳なさが残っているため、今日は茶菓子なども出そうかと考えるのであった。

▽▽▽


 それから30分と経たないうちに葛西が診療所にやってきた。いつもの黒い帽子と赤いシャツ姿で手には縦長の紙袋を持っている。名前が出迎えると早速手渡された。重みのある紙袋を覗くと深緑のボトルがあった。

「ありがとうございます。お酒ですか」
「ああ。現地で飲んでみたら美味かったんで、思わず買っちまった」
「まだお昼ですけど、飲んでいきませんか?」
「姉ちゃんは今日も仕事だろ。良いのか?」
「夜には抜けているでしょうから」
「じゃあお言葉に甘えて」

 名前からの誘いに葛西は口端を釣り上げた。土産を渡すだけのつもりだったが、願ってもない申し出だ。
 彼らは奥のスタッフルームに移動した。客人である葛西にはソファに座ってもらい、名前は用意していた茶菓子とは別でつまみになりそうなものを適当に皿に盛ってテーブルに置いた。その横にワイングラスを2つ並べ、酒瓶から深紅の液体を注げば上品な香りがほのかに漂う。彼女はグラスを片方葛西に渡して向かいのソファに腰を下ろした。味わいながら少しずつ喉に通していく。

「これ、すごく美味しいですね」
「前の居酒屋でも思ったけど、姉ちゃん酒飲みなんだろ」
「父の影響でそこそこ飲めるだけですよ」

 名前が小さく笑って再びグラスに口をつけた。葛西の土産を気に入ってくれたらしい。2人でつまみをつついていると、葛西が思い出したように尋ねた。

「ところで、セレブヒルズに新しいショッピングモールができたの知ってるか?」
「いえ、初めて聞きました。あまり人が多いところには行かないので」
「そうかい。まあ明日の夜、そこの中継があるからテレビをつけときな。面白いものが見れるぜ」
「まさか電子ドラッグだなんて言いませんよね」
()ャハハッ! 俺はそんなハイテクな事できねえよ」

 名前も葛西もアルコールのおかげでテンションが高くなっている。悪い冗談を笑い飛ばして酒の席は暫く続いた。

▽▽▽


 翌日、名前は家を出る前にテレビをつけて確認した。多少酔ってはいたものの葛西の言葉は忘れていない。番組表からセレブヒルズという名前を探して表示を切り替える。
 テレビに映し出されたのは所謂セレブと呼ばれる人々の列。一般市民に向かって唾を吐いているようだが、葛西が言っていた面白いものとはこれなのだろうか。彼女は首を傾げた。しかし数秒後、突如燃え盛る自動車がビルに突っ込んだ。炎がビルの側面駆け巡り、周囲はパニック状態だ。中継のレポーターは大慌てで状況を伝える。

『華やかなイベントの中に炎上した車が乱入!! 上がった炎は...何か数字のようにも見えます!!』
「『6』...?」

 名前は直感で葛西の仕業だと悟った。炎が描いた数字の意味も意図も不明だが何かメッセージを含んでいるのだろう。それにしても目立ちすぎではないか。などと彼女は画面の炎を見つめて思考を巡らせた。番組が別のニュースに変わったのでテレビを消し、葛西にメールを一通送信した。それからはいつものように診療所に向かうのであった。

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 大雨の中、葛西は車を運転していた。先程まで助手席に仲間を乗せていたのだが、彼は単独で魔人との戦いへ赴いた。近場で待機出来そうな場所を探して適当に車を停める。最悪の場合は仲間の尻拭いに向かわなくてはならないからだ。葛西は面倒臭いとぼやいてタバコを吸った。すると丁度、携帯電話が短く鳴った。メールを確認すると名前の名前が。

『テレビで中継を見ました。派手なことをしているようですが、捕まっても知りませんよ。』
火火(ヒヒ)ッ、怒られちまうとは」

 名前は目立つことをあまり好まないようだ。それでも律儀に報告をくれるところが彼女らしいと笑ってしまう。
 これから魔人と「新しい血族」の戦いは激化していくだろう。決着次第で世界の行く末は大きく変わる。その時に名前が勝者側に残っているのかどうか、葛西は見当もつかなかった。

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