惜玉憐香

 名前は寝室のテレビで深夜ドラマを見ていた。広々としたベッドの中央で布団を抱えてあぐらをかいている。リビングでは悟が高専からの資料と睨み合いをしていたので、気を使ってこちらの部屋にやってきたのだ。たまの休日だというのに特級ともなるとやはり忙しいらしい。彼は明日から出張だと聞いている。きっとその準備もあるのだろう。

 番組の終盤で寝室のドアがやっと開いた。悟は欠伸をしながら名前の隣に腰を下ろした。名前はぼんやりと次回予告を眺めていたが、終わった途端にテレビを消した。

「悟」
「んー?」
「明日から出張だよな」

 名前は確認と言いたげに隣を見上げた。狭い視界が悟だけを切り取って映し出す。彼は澄んだ青い目を少し細めると揶揄うような声で尋ねた。

「僕がいないと寂しい?」
「... ...少しだけ」
「今日はやけに素直だね」
「別に」

 形だけの否定を投げてふいと顔を逸らした。名前の珍しい反応を見て悟は思わず頬に手を伸ばした。察した彼女が目を閉じたので、遠慮なく唇を重ねる。隙間から舌を入れると一瞬名前の肩が跳ねたが、それでも小さな舌で必死に応じる姿に悟は愛しさを募らせた。胸元にしがみつく彼女の身体を抱え込む。
 頃合いを見て唇を離すと呼吸を乱した名前の頬は上気していた。悟の色白の肌にも赤みがさしているが彼女の比ではない。余裕ありげの笑みを浮かべる。

「顔真っ赤じゃん。かーわい」
「うるさい」

 名前がじとりと睨んだものの効果はあまりないようで、悟は宥めるように頭を優しく撫でた。

「名前も明日は任務だろ。そろそろ寝ようか」
「...そうだな。おやすみ」
「おやすみー」

 乱れた布団を整えて2人はそれぞれの定位置につく。悟がリモコンで照明を消して部屋は静まりかえった。
 しかし、名前は眠る気にはなれなかった。今の感覚は不完全燃焼という表現が近い。素直になれない自分にも非があるのは分かっているが、悟は決して一線を超えようとしないのだ。世間一般の恋人はもう少し踏み込んだ行為に及ぶのではないだろうか。まさか子供扱いされているのではないか。などと少ない知識から生成された不安が脳裏に浮かぶ。悟に直接尋ねるわけにもいかず、彼女は悩みの種を胸の奥にしまいこんで無理矢理目を閉じた。




___所変わって、街角にある小洒落たカフェの一席。夕方に差し掛かる時刻のため客足もまばらだ。名前の向かいでは泣きぼくろが特徴的な女性がコーヒーを啜っている。高専時代から付き合いのある家入硝子だ。彼女はカップをソーサーに置いて話を切り出した。

「五条との同棲生活は上手くいってる?」
「ちょっ、硝子! どうせいて...!」
「何を今更恥ずかしがるんだ。同じベッドで寝てるっていうのに」
「揶揄ってるだろ」
「拗ねないでよ。どうせ相談って、五条関連だろう? 」

 硝子の言う通り、今日は名前の方から相談があると呼び出したのだ。彼女は神妙な面持ちで最近の悩みを打ち明けた。

「...悟が手を出してこない」
「ははっ、何事かと思えば」
「ああーもう。笑うなよ」

 名前は居心地の悪さを感じ、口をへの字に曲げた。内容が内容だが彼女も真面目に悩んでいるのだ。揶揄うのもほどほどにして硝子が話の続きを促す。

「全く何も無いの?」
「... ...キスだけ時々する、みたいな」
「高専の時からお互いの部屋に入り浸ってたのに?」
「おい、言い方。部屋にはよく行ってたけどゲームとかテレビ見てばっかりだったし」
「五条の奴、本当に何もしてないんだな」
「悟から何か聞いてるのか?」

 彼女の感心するような口ぶりに名前は首を傾げる。すると返ってきたのは意外な言葉だった。

「結構前に、少しだけな。アイツはあれでも御三家の当主だから結婚や子供に関する事には神経使ってるみたいだよ」
「悟が...」

 一般家庭出身の名前は御三家というものを特別意識することは少なかった。ましてや同級生の悟ともなると、普段悪ふざけした言動ばかりの印象で一族の頂点に立つ人間とはかけ離れている気もする。しかしそんな彼が自分より随分先を見据えていたと知り、名前は驚くと同時に考えが至らなかったことに反省をする。彼女が俯きがちになったので硝子は冗談交じりに言った。

「まあ、そんなに重く考える必要はないんじゃないか。とりあえず実家に挨拶に行く時は気をつけなよ。親戚中から品定めされるぞ」
「け、結婚とか決まってないって!」
「でもどうなるか分からないだろ」

 硝子のもっともな意見に言い返せない名前。硝子は目を細めると艶やかな唇に弧を描いた。

「要するに、手を出さないのは五条なりに考えがあってのことだ。名前の事を大切に思ってるのは間違いないから心配しなくていい」
「...そうか」

 名前は赤い顔を誤魔化すようにコーヒーに口をつける。近頃彼女の胸に渦巻いていた不安は綺麗に消え去ったのであった。

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