恵風和暢

 高専を卒業後、名前と悟は同居生活を始めた。住まいは悟が購入した2LDKのマンションだ。名前が初めて訪れた時は綺麗で広々とした間取りにとても驚いた。悟はお金は気にしなくていいと言ったが、名前が食い下がった結果、生活費は折半で家事の担当は名前が多めということで落ち着いた。
 ちなみに寝室はどうするのかという問題でも一悶着あったのだが、悟が勝利したので2人で仲良くクイーンサイズのベッドで寝ることになった。残った空き部屋は客間として綺麗に整理されている。押し入れに2組の布団があるのだが、名前は今のところ使う場面を見ていない。
 リビングのソファでくつろいでいる時、気になったので尋ねてみた。

「悟、客間使ったことある?」
「あるよー。ていうかそろそろ紹介しようと思ってたんだよね」
「紹介?」

 キッチンの方から悟の回答が聞こえてくる。心当たりのない名前は首を傾げた。彼は両手にマグカップを持ってソファまでやってきて名前の隣に腰を下ろした。名前が礼を言ってマグカップを受け取ると、同時にさらりと重大な発言をされた。

「伏黒甚爾の息子に会ってみない?」
「え、息子? 甚爾さんに息子がいたのか?」
「そう。今埼玉に暮らしてるんだけど、僕が保護者みたいになってんだよね」
「ちょっと待て、最初から説明してくれ」
「名前がいない間に色々あってさー」

 動揺する名前を横目に悟はぺらぺらと語り出す。甚爾の遺言のこと、甚爾の息子が禪院家相伝の術式を引き継いでいたこと、将来呪術師になることを担保に高専から金銭的援助を受けているということ。初耳の情報に名前は驚きを隠せなかった。そして彼女が気になっていた客間はその息子と義姉が泊まりに来るために用意しているらしい。2組の布団の謎がようやく解けた。

「僕の任務中に何かあったら困るし名前も面倒見てくれると助かるんだよね」
「全然良いよ。むしろ会ってみたいんだけど」
「じゃあ明日にでも行こうか。連絡しよっと」

 悟は携帯を取り出して電話をかけ始めた。名前は早くも期待と懐かしさで胸がいっぱいになっている。心を落ち着かせる為にもマグカップに口をつけた。


___翌日、悟と名前は埼玉にある寂れたアパートにやってきた。悟が慣れた様子で玄関を開ければ、小学生くらいの少年少女が出迎えてくれた。悟が彼らに向かって名前を紹介する。

「この人は苗字名前。僕が忙しい時は代わりに来るから、仲良くしてね」
「はじめまして。これからよろしくなー」
「私は伏黒津美紀です。よろしくお願いします」
「...伏黒恵」

 津美紀は満面の笑みを見せてくれたが、恵は無愛想に名前だけ答えた。恵の顔を見た名前は思わず呟く。

「...父親とソックリだな」
「だろ? だから会わせるか迷ったんだよね」

 悟がケラケラと笑った。名前は懐かしい気持ちが込み上げて来たが、今は落ち着こうと努めた。昨夜聞いた悟の話によると恵は甚爾の最期を知らされていないらしい。名前は時期が来るまで甚爾の話はしないと心に決めた。
 普段なら悟はすぐ部屋に上がっていくのだが、今日は靴を脱ぐ前に津美紀に尋ねた。

「津美紀。僕達夕飯を食べて帰ろうかなって思ってるんだけど、いいかな」
「良いですよ! ね? 恵」
「どっちでもいい」
「よし決定! じゃあ皆で買い物に行こうか」

 悟の提案に津美紀は大喜びした。恵は興味がないようだったが、買い物には文句を言わずについてきた。悪い子ではないのだろう、と名前は思った。


___4人は近所のスーパーで買い物を済ませ、再び伏黒家に帰ってきた。津美紀が袋から食材を取り出してキッチンに並べていく。今日のメニューはカレーとサラダだ。名前は彼女のテキパキとした動作を見て言った。

「いつも津美紀ちゃんが夕飯作ってるの?」
「はい!」
「偉いなあ。今日は人数多いし私も手伝うよ」
「ありがとうございます」

 津美紀がにぱっと笑顔を浮かべた。名前はその可愛さにつられて口元が緩む。彼女達はすっかりと打ち解けた雰囲気の中、調理を開始した。

 一方で男子陣はリビングにいた。悟は小学校で配布された保護者向けのプリントに目を通し、サインをしたり行事の予定を確認をしていく。すぐ傍で恵は静かに洗濯物を畳んでいた。
 しばらくするとキッチンからいい匂いが漂ってきた。その上名前と津美紀の楽しげな声も聞こえてくる。恵は作業する手を止めて五条をつついた。

「...あの人も呪術師?」
「そうだよ。恵もいつか稽古つけてもらうかもね」
「強いのか?」
「勿論。小さいからってナメてると痛い目見るよ」

 悟がニヤリと笑った。恵は未だ納得いかない様子でキッチンに視線を向ける。彼にとっては「怪しい白髪男が連れてきた怪しい眼帯女」という認識なのだろう。しかし恵の不信感を拭い去るかのように明るい声が響いた。

「こうやって転がして、そうそう。剥いてみ」
「わっ、できた!」
「上手い! 茹でたらすぐ冷やすのがポイントな」
「苗字さん、今度他の料理も教えてください!」
「私で良ければいつでも教えるよ」
「あのね、今度作ってみたいのがあって...」
「お? 何だ何だ」

 津美紀と名前は料理で盛り上がっているらしい。恵の警戒心も薄れていき、津美紀が楽しそうならいいかという結論に落ち着いた。彼の中で名前は信用しても良いという立ち位置に決定した。
 悟は伏黒姉弟と名前は仲良くやっていけそうだと満足した。血縁や因縁といった複雑な糸に絡まった関係性だが、必ずしも当事者がそれを気にしているとは限らない。特に悟はこの奇妙で平和な空間を一番楽しんでいた。

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