夢幻泡影

※グロ注意



新たな年度を迎えて早数ヶ月。苗字は着々と実力を身につけていた。そして繁盛期真っ只中のある日、彼女の元に昇級審査の話が舞い込んだ。

___東京から車で約2時間。苗字は補助監督を務める梅津の運転で関東某所の湖を訪れていた。普段は観光地として賑わっているそうだが、現在は周囲の道路を含め工事中と称して封鎖し、一般人が立ち入らないようにしている。おかげで広い駐車場には梅津の車がぽつりとあるだけだ。他に客はいないとはいえ、梅津は白線に従い丁寧に駐車した。
シートベルトを外した彼は助手席の苗字に真剣な眼差しを向ける。

「今回は非常に危険な任務です。私はここで待機していますから、何かあればすぐに帳を解いて連絡してください。場合によっては手が空いている1級以上の術師を緊急要請します」
「了解です。送ってくださってありがとうございました」
「それではお気をつけて。健闘を祈ります」

苗字はしっかり頷いて車を降りた。梅津の言う通り、今回の任務は危険度が高いと知らされている。窓の報告によれば1級相当の呪霊が潜んでいるらしい。

駐車場を出て数分歩くと湖が見えてきた。そういえば1年生の頃に五条が池に現れた呪霊を祓っていたな、とぼんやり思い出す。水辺は事故も絶えないのもあって呪いが湧きやすい場所なのだろうか。苗字が周囲を警戒しながら帳を下ろす。呪霊の気配が色濃くなったので、試しに湖の前に立つと底から呪霊が這い出てきた。

「ヒひひッ、ケひヒヒヒッ」

呪霊がしゃがれた笑い声を上げて地面に足を下ろす。人型に近いシルエットで二足歩行だが、身体の至る所に鱗が生えている。大きな口が二つも縦向きで並んでいるのに対し、左右の眼球は無く眼窩が真っ暗だ。苗字は気持ち悪いと率直な感想を抱いた。

「っしゃ、さっさと祓うか」

抜刀してまずは斬撃を飛ばす。目眩し代わりだが避けられるのは想定内なので、横に逸れて距離を詰める。呪霊は好戦的にも向かってきた。刀と呪霊の拳がぶつかり合い、キンッと高い音が響く。どうやら鱗は見かけよりも硬いらしく、なかなか傷をつけることができない。

「ヒャアああッ、はアァっケヒひッ」
「なかなかやるじゃん、半魚人野郎」

苗字は刀に込める呪力量を増やした。呪霊の腕に刃を滑らせ、表面の鱗を削ぎ落とせば気味の悪い色の液体が吹き出る。続けて素早く同じ箇所を斬りつければ呪霊の肉が綺麗に裂けた。

「オォッああぁッっ!!!」

呪霊は雄叫びを上げ、ボタボタと液体が滴る腕を突き出した。苗字は瞬時に刀で受けたが、液体に触れた刃先が異臭と共に溶けだした。術式かは分からないが触れない方が良さそうだ。
使い物にならなくなった刀を無理やり相手の腕に突き刺し、別の刀を構築する。そのまま身を翻して一気に畳み掛けた。

ひたすら呪霊の鱗を剥いで皮下の肉を斬るのを繰り返す。呪霊は応戦しながら傷を再生しているが、完全に塞ぐことはせずに液体を撒き散らしながら拳を奮ってくる。知能が高くて厄介だ。刀は代わりを作れるが肉体だけは替えがきかない。苗字は液体を浴びないように細心の注意を払った。

数分間の激しい攻防で苗字の肺は悲鳴をあげていた。液体を浴びて溶けてしまった制服の隙間からは爛れた皮膚が見える。対する呪霊も再生速度は格段に落ち、彼女の刀がいくつか体に突き刺さっている。
あと少しだと自分を奮い立たせ、斬りかかった。躍起になった呪霊は傷を厭わずに飛びかかり、苗字に覆い被さる。彼女は咄嗟の判断で呪霊の眼窩に刀を思い切り突き刺した。

「ヒひッッひあああああぁぁぁぁッッ!!

断末魔をあげた呪霊が最後の力を振り絞って彼女の右目に手かけた。肉が溶ける異様な臭いが鼻腔を刺激すると同時に、呪霊の腹部を蹴り飛ばす。地面でのたうち回る呪霊が起き上がる前に新しい刀で頭部にとどめを刺した。
しかし、苗字は祓い終わった喜びを噛み締める間もなく激しい痛みに襲われた。

「クソッ...っ!?」

右目の焼けるような感覚に思わずその場に蹲った。右目にを起点として痺れのようなものが徐々に広がっていく。本能がこのまま放っておくのはまずいと告げている。脳がやられる前に食い止めなければ。苗字は絞り出した呪力で小刀を構築すると、迷わず右目を抉った。霞む視界の中で帳を解除し、なんとか懐から携帯電話を手に取って梅津を呼び出す。

「苗字さん! どうされましたか!?」
「梅さ、ん...生き、て、ます。迎え、に...」

彼女は言い終わらないうちに意識を手放し、地面に倒れ込んだ。



___苗字は見知らぬ空間を歩いていた。浮遊感はないが地面を蹴る手応えもない。袴で歩いているのに衣擦れの音もしない。彼女は薄暗い中、文字通り何も無い更地を特に宛もなく歩き続けた。

「よう、久しぶりだな」
「な、なんで...!」

聞き覚えのある声に振り返ると、そこには甚爾が立っていた。服装は出会った日のラフなもので懐かしさが感じられる。彼は呆けた顔の苗字を見て笑った。

「間抜けたツラだな。んな驚くことでもねぇだろ」
「いやいや、そりゃ驚きますよ。こんな所で何してるんですか?」
「オマエこそ何してんだ。まだここに来るには早すぎるだろうが」
「早い...?」

苗字は一体何のことだと首を傾げる。甚爾はため息をひとつついて後頭部をガシガシ掻いた。

「寝惚けてんな」

彼は数歩前に踏み出すと苗字の右頬に手を宛がった。下瞼をなぞる親指からは体温が感じられない。彼女はその感覚が無性に悲しかった。

「甚爾さん...」
「名前。できれば次に会うのは数十年後にしろよ」

じゃあな、という声が最後に遠くで響いた。彼の手の感触は消え去り天地がぐらりと揺れる。


___急に視界が眩んだかと思うと、次の瞬間には白い天井が眼前に広がっていた。

「名前、起きた?」
「甚、...あ、え...硝子...? ...ここって」
「高専の医務室。最後に梅さんに連絡したのは思い出せる? その後梅さんが五条を呼んで、術式で飛んで連れ帰ってきたってわけ」
「そうか。悟が...」
「呪霊は祓えたみたいだけど、今回の昇級審査は見送りだってよ」
「う...マジか。まあ死にかけたしな...」

苗字は朧気な記憶を辿りながら何とか上半身を起こす。甚爾に触れられた所に恐る恐る指を這わせると、ガーゼの感触が。そこで漸く自分の頭に包帯が巻かれていることに気づいた。冷静になってみれば視界も悪い。見兼ねた家入が声を落として言う。

「最善を尽くしたけど、右目はどうする事も出来なかった。ごめん」
「硝子が謝ることじゃないって。それに、身体の傷も治療してくれたんだろ。本当にありがとう」

苗字は安心させるように笑って見せた。あの状況で生還できただけでも十分だと言いたい。僅かに瞳を潤ませた家入は五条を呼んでくると言い残して一旦退室した。
数分と経たずに医務室のドアが勢いよく開け放たれた。

「名前ッ! 大丈夫か!?」

五条は一目散に苗字のベッドに駆け寄った。彼女はなるべく刺激しないように努めて自分の容態を告げる。

「右目はもう使えないらしい。腕とか脚まで持っていかれなかったのは不幸中の幸いだな」
「本当、馬鹿じゃねーの...。俺、オマエが死ぬんじゃないかって、思って...」
「心配かけて悪かった」

苗字が謝ると、五条は腕の中に彼女を閉じ込めた。苦しそうに言葉が紡がれる。

「梅さんから連絡が来た時、心臓止まるかと思った。ふざけんなよマジで」
「ごめんて。でも悟が助けに来てくれたって聞いたよ。ありがとう」
「呪霊は祓ったくせに、血塗れで倒れてるし...目も覚まさねえし...あー、もう、勘弁してくれよ」

五条は愚痴を連ねながらも腕にきゅっと力を込めた。余程心配をかけてしまったようだと苗字は猛省する。そして彼の不安を上書きするように抱き締め返した。

術師を辞める気は毛頭無いが、彼の不安要素になるような術師でいるのは御免だ。このままではいけない。漠然とそう思った彼女は頭の片隅で今後の計画を立て始めるのであった。
___まずはあの人に連絡しよう。

◆◆◆◆

戻る
- ナノ -