幽愁暗根

苗字が呪術界に足を踏み入れて2年以上の月日が過ぎた。呪霊の相手のみならず、時には呪詛師を手にかけることもあった。最早血や死体を目にすることは珍しくない。今後も凄惨な現場を目にしても動じないのだろう。
常日頃から彼女はそう考えていたのだが。

「嘘だろ...。灰原...」

静かな部屋では苗字の掠れた声もやけに大きく聞こえた。隣に立つ夏油も息をのむ。
目の前の寝台にのせられた灰原の遺体には身体を隠すように白い布がかけられている。布の膨らみが腹部で途切れているのを見れば、彼の下半身がどのような状態なのかは想像にかたくない。昨日まで笑顔で駆け寄ってきた灰原の姿は、もうどこにもなかった。血の気の引いた顔に大きな傷跡を残した遺体がただそこにあるだけだ。

「なんてことはない2級呪霊の討伐任務のハズだったのに...!! クソッ...!! 産土神信仰...アレは土地神でした...。1級案件だ...!!」

五体満足で生還した七海は壁際の椅子に腰掛けたまま声を絞り出した。目元はタオルで隠しているが、頬には涙の跡が残っている。
夏油は寝台の側に立ち、灰原の白い布を顔まで引き上げた。

「今はとにかく休め七海。任務は悟が引き継いだ」
「... ...もう、あの人1人で良くないですか?」

七海が吐いた一言が夏油と苗字に重くのしかかった。彼らは最強と謳われる同級生の顔を思い浮かべ、言葉を詰まらせる。
不意に苗字の瞳から涙が零れ落ちた。

「...っ、 悪い。席外す」

彼女は袖口で乱暴に目を拭い、逃げるように退室した。涙を見られたくないというより、自責の念に潰されそうになったからだ。心の奥底で七海の言葉に同意した自分がいたのだ。
部屋に残った夏油は床に落ちた水滴に気づいていたが、今は追いかけて声をかけるべきではないだろうと判断した。
術師というマラソンゲームの果てにあるものは一体何なのか。夏油は仲間の屍を見下ろした。

___自室に戻った苗字は扉を閉めた途端床に座り込んだ。1人になった事で涙が余計に溢れてくる。七海の言葉が脳裏で反芻され、彼女は自己嫌悪に陥った。

「なんで、否定できなかったんだよ...」

五条1人でもいいのでは。そう思ってしまった。いくら最強と謳われる五条でも、たった1人でやっていけるはずがないだろう。冷静に考えれば分かる事だというのに。
沈黙を守っていた夏油も自分と同じことを考えたのではないか、と彼の心情を想像して更に頭が痛くなった。苗字は重い体を引きずって、ベッドに寝転んだ。天井を見上げたまま呼吸を整え、涙が止まるのを待つ。
落ち着きを取り戻した彼女はぽつりと呟いた。

「土地神討伐、か...。アイツ、大丈夫かな」

呪いとはいえ神殺し紛いのことをするのだ。もしも五条に何かあったら。そう思った苗字は懐から携帯電話を取り出し、彼に任務が終わったら連絡して欲しいとメールを送った。

そのままベッドの上で目を瞑っているといつの間にか眠っていたらしい。携帯電話の着信音によって意識が浮上した。応答ボタンを押せば、普段と変わりない五条の声が聞こえてくる。

『もしもし。さっき任務終わった』
「ん。そっか、お疲れ様」
『ていうか、オマエが任務終わりに連絡しろだなんて珍しいな。俺がいなくて寂しかったか?』

電話口で冗談交じりに笑う五条。どうやら任務は余裕だったらしい。苗字は彼の身を案じていたが、杞憂に終わったので胸を撫で下ろした。

「...無事で良かった」
『名前に心配されるほど、俺は弱くねえよ』

五条の物言いは些か強く感じられたが、声音はとても柔らかいものだった。苗字が安心するようにと彼なりの配慮なのだろう。苗字も暗い声を出さないように努め、言葉を返す。

「そうだな。...今日中に高専に帰れるのか?」
『いや、明日の朝出発することになった。そっちに着くのは午後になると思う』
「了解。帰りも気をつけて。今日はゆっくり休みなよ」
『ありがとな。じゃあ、また明日』

そうして通話は終了し、部屋は静寂に包まれる。苗字は五条の安否が確認できて良かったと思う反面、やり場の無い感情が黒い塊となって胸につかえた気がした。初めから五条が任務に行っていれば誰も死ぬことはなかったはず。一瞬、そんな考えが頭を過ぎった。
彼女は今更仮定の話をしても無意味だろと自分に言い聞かせ、これ以上は何も考えないように布団を被った。


___たとえ仲間が1人亡くなろうとも、呪いを祓う日々は変わらない。今日も今日とて苗字は任務に駆り出されることになった。灰原の一件以来、満足に眠れる時間は少なくなっていたが、呪霊が発生したのならば仕方がない。彼女は疲れた体に鞭を打って、喪服を彷彿とさせる色の道着に腕を通した。

今回の補助監督である梅津との待ち合わせ時間よりも少し早めに駐車場へ向かうと、同じく黒い制服に身を包んだ夏油の後ろ姿が見えた。

「よっす。夏油も任務か」
「ああ、お互い忙しい日が続くね」

振り返った夏油が苦笑いを浮かべる。苗字はその隣に移動すると、彼のやつれた目元を見つめて言った。

「疲れてるみたいだけど、最近ちゃんと眠れてるか?」
「...その言葉、そのままお返しするよ。君も随分顔色が悪い」
「はは、どっちもひでえ顔してんだな」

乾いた声で笑う苗字に対し、夏油はそうだねと小さく相槌を打った。双方ともに原因の探りは入れないまま、別の話題に切り替える。

「名前はどこで任務があるんだ?」
「埼玉のほう。そっちは?」
「私は地方の小さな村だよ」
「へえ、お土産よろしく」
「資料によれば山奥らしいからね。大きな駅にでも寄れたら買うよ」

取り留めのない会話をしているうちに補助監督の車が一台やって来た。フロントガラス越しに夏油の担当者と思しき人物がハンドルを握っているのが見える。苗字は彼が出発する前に声をかけた。

「じゃあな、夏油。気をつけて行ってこいよ」
「ありがとう。名前も気を抜くなよ」

答える代わりにニッと笑い、親指を立てて見せた。夏油もつられて口角を上げる。
苗字は彼が乗り込んだ車が見えなくなるまで武運を祈った。

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