玉石同砕:下

早朝から梅津の車が盤星教本部の入口が遠目に見える場所に停まっている。助手席に座る苗字は眠気に耐えながら、本部に出入りする人間を観察していた。呪詛師が出没すれば戦闘になる可能性もあったが、なんとも平和なことに今のところ見かけたのは老いた一般信者だけだった。安心した彼女は危うく首を傾けそうになり慌てて頭を振った。自分と違って一晩中起きていた五条は大丈夫だろうかと心配になる。
特に異変もないまま数時間が経ち、腕時計の針が13時を回ったので梅津は苗字に声をかけた。

「そろそろ交代の時間ですね。高専に戻りましょうか」
「意外とアッサリ終わりましたね」
「同化は夕方ですから、まだ気は抜けませんよ。苗字さんは夕方に備えて休んでください。寝不足なんでしょう?」
「あ、バレました? 結構元気なつもりでしたけど」
「いつものアナタはもっと元気ですよ」

梅津は軽やかに笑って車を発進させた。無事に張り込みを終えた苗字は緊張の糸が切れ、ゆっくりと眠りに落ちていった。

高専に着いた彼女は真っ先に食堂に向かって昼食を済ませた。報告書を仕上げて、高専で待機している呪術師達と午後の打ち合わせをする。五条達は無事に東京の空港に着いたそうで、15時には高専に戻ってくるらしい。賞金が解除されたことで不安要素は取り除かれ、待機組の間にはどことなく緩みが生じた。

五条達が到着する予定の時刻を少し過ぎた頃、緩んだ雰囲気を引き裂くかのように校舎内でアラートがけたたましく鳴り響いた。夏油と五条が喧嘩をすると鳴ることもあるが、今回のは明らかに異常事態だと誰もが思った。

「なんだなんだ」
「誤作動...なわけねーか。夏油の呪霊か?」
「先生! 外に大量の蠅頭が!」
「何だと」

外にいた先輩術師が慌てて屋内に報告に来た。今は繁盛期とはいえ、高専内で蠅頭が大量発生するのは考えられない。
___五条と夏油に何かあったのか...!?
周囲が蠅頭を祓うために外に駆け出す中、苗字は真っ先に薨星宮に向かった。

薨星宮に続く扉の前には血だらけの五条が立っていた。彼の白い髪には乾いて鮮やかさを失った赤がこびりついている。苗字は気が動転し、思わず駆け寄った。

「五条!! 大丈夫か!?」
「侵入者にやられた。俺よりも傑が重体だから硝子呼んで来い」
「わ、分かった」

外見とは裏腹に五条は妙に上擦った声で指示を出した。強敵に遭遇して興奮状態なのだろうか。口ぶりからして彼も夏油も侵入者にやられたのだろう。ならば天内は___。
苗字はその先の最悪な状況を想像するのはやめた。今は指示通り家入を呼びに行くのが優先だ。来た道を引き返そうとすると五条に呼び止められた。

「あー、待て。その前に盤星教本部の場所を教えろ」
「今から行くつもりか?」
「当たり前だ。あの野郎、絶対ぶっ殺してやる」
「...本部の場所は、」

苗字が答えると五条はそのまま背を向けた。今から侵入者を追って本部に行くのだろう。彼女は家入を呼ぶために校舎へ急いだ。

家入を筆頭とした救護班と共に薨星宮へ降りると使用人らしい女性が横たわっていた。担架にのせようとする術師達の表情や、放られたままの四肢の様子から既に息を引き取っていることが分かった。苗字は胸中に渦巻く嫌な予感を押さえつけ、そのまま奥を目指した。数秒と経たずに倒れている夏油が視界に入る。彼女が駆け寄って呼吸を確認しているとうっすら目が開かれた。

「夏油、起きてるか?」
「名前か...アイツは、どこだ...?」
「アイツ? 侵入者か?」
「そう、だ...、天与...呪縛で、口元...傷、」

夏油は言いかけた途中で意識を手放してしまった。幸い呼吸は止まっていないが相当ダメージが深いのだろう。しかし苗字にとって最大の問題は侵入者の件だった。
その場で固まった彼女の後ろから家入の声がかかった。

「気絶したか。早めに治療するよ」
「...ごめん硝子。あとは任せた。私行かないと」

そう言い残して苗字は全速力で駆け出した。ただならぬ雰囲気を察した家入は、止めることはせず静かに夏油の治療に取り掛かった。
一方地上に出た苗字は今なら梅津も高専内にいるはずだと携帯電話を握りしめた。侵入者の正体が分かってしまった以上、追いかけずにはいられない。急いで本部に向かい、五条か彼のどちらかを止めなければ。使命感が彼女を突き動かす。

___梅津に頼んで最速で現場に着くことが出来た彼女は強大な残穢を追って本部の敷地内をひたすら走った。抉れたコンクリートからは慣れ親しんだ呪力を感じる。五条の攻撃に違いない。
無我夢中で残穢を追っていけば、辿り着いた先には案の定甚爾と五条の姿が見えた。彼女の足音に気づいた五条が振り返る。甚爾は時が止まったかのように微動だにしなかった。

「嘘だろ...甚爾、さ...」

彼の左半身が失われているのを見て苗字は言葉を失った。覚束無い足取りで遺体に歩み寄る。既に肉塊に成り果てた彼は当然反応を示すことはない。傍で様子を伺っていた五条が沈黙を破った。

「俺は今から天内の回収に行くから、オマエはここで待っとけ。話は後で聞かせてもらう。...変な真似はすんなよ」
「......出来るわけないだろ」

恩師とも呼べる人物の死への悲嘆、友人が無事でいた安堵、何も知らずに過ごしていたことに対する自責の想い。
苗字の中では様々な感情が洪水のように溢れていて、その一言絞り出すだけで精一杯だった。甚爾の所業が高専にとって悪であることも十分理解できている。彼女は泣くわけでも怒りを露わにするわけでもなく、ただただ静かに遺体を見つめていた。
五条の足音が遠のいていくと苗字はその場に座りこんだ。

「今回の甚爾さんの仕事って...星漿体狙いだったんですか...。五条と夏油を追い込んで、天内さんに懸賞金をかけたのも...全部...」

語りかけても返事はない。独り言は静かな空気に溶けてしまった。
甚爾と繋がりがあったことが高専側の人間に知られるのは時間の問題だ。彼に高専の内情は勿論、天内の護衛任務についても話したことは一切なかったとはいえ、それを証明するのは安易ではない。自分は甚爾の協力者として疑われることになるだろうと予測した。となると同級生や担任、後輩など今回の件に関わった者達の信用を失ってしまうかもしれない。苗字は彼らとどのような顔で会えば良いのか分からなくなり途方に暮れた。

「...まさかアナタが高専の敵に回るとか、思うわけ、ないじゃないですか。短い間だったけど...結構楽しかったのにな...」

彼女の呟きはまたしても虚空に溶けていった。

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