暗香疎影

補助監督に手渡された書類を見て、苗字は目眩がした。どうやら元々通っていた高校の生徒が呪霊に関わってしまったようだ。とは言ってもほんの僅かな期間しかその高校に在籍していなかったので、彼女と面識がある可能性は極めて低いのだが。部活仲間ではありませんように、と念を込めて彼女は後部座席に乗り込んだ。

「男女二名ずつの高校生グループが夜の公園に遊びに行ったきり、家に帰っていないようです」

若い男性の補助監督が車を運転しながら説明すると、助手席に座っている五条が鼻で笑った。

「それ単なる家出じゃねえの。どっかで寝泊まりしてんだろ」
「いえ、昨日現場を見に行った窓が準一級相当の呪霊を確認しました。引き寄せられた低級呪霊の数も多いので、お二人が派遣されることになりました」
「じゃあチビ助はまた掃除役ってことか。せいぜい俺の邪魔すんなよ」
「しねーよ。むしろ公園破壊しそうな白髪の方が邪魔だ」
「オマエ後で覚えとけよ」

後ろを振り返って睨む五条に対し、苗字は舌を出した。
しばらくして件の公園に到着した。奥の方に見える大きな池からは呪力が感じられる。全員車から降りると、補助監督は学生二人に言った。

「もし四名の生存が確認できたら保護してください」
「...死んでたら、どうするんですか」
「ご遺体があれば任務終了後にこちらで回収してご遺族に連絡します」
「分かりました」
「お二人とも、どうかお気をつけて。帳を下ろします」

オレンジと紫を混ぜたような空が真っ黒に染まった。この暗闇の中で高校生たちはどうしているのだろうか。苗字が池の方角を見つめて考えていると、事情を知らない五条が隣で笑った。

「チビ助、怖いなら今のうちに帰れよ」
「怖くねーよ」
「泣いても知らねえからな」
「泣かないっつーの。舐めんな」

二人は呪力の発生源と思われる池を目指した。
池の前にたどり着くと、水の中から白いワンピースを着た黒髪の女が現れた。その影響で低級呪霊達も引き寄せられてきた。女は立ったまま手招きを繰り返している。

「ア、あ、ああぁ、ううウウぅぅ」
「早速出たな」
「私は周りのやっとくから。五条はアイツに集中しといて」
「おー助かるぜ、掃除役」

苗字は抜刀して周囲の呪霊を斬りつけた。呪霊が飛び回るので彼女は追いかけながら斬撃を飛ばす。五条と離れてしまうが、問題はないだろう。
その場に残った五条は手招きをやめない女の呪霊を睨んでいた。

「アタし、ア...たシ、ヲを、みミミいてテテててええ」
「うっせーな。だったら出てこいよ」
「イヤア"ぁああァァァあぁぉぉお"ぉぉ」

女の叫びと同時に、湧き上がった池の水が高い壁となって五条を襲う。しかし彼が片手を振りかざせばたちまち水は女の方へ収束し、弾けた。広い池が大きく波打つ。
その音は離れた場所にいる苗字の元まで聞こえてきた。彼女は音のする方を見上げながら呟いた。

「あっちは派手にやってんなあ」
「ねえね...エえネ...こワイぃ?、こわイヨ?」
「喋んな」

木陰からこちらを見つめる二足歩行の呪霊。歪な頭部には大きな口が二つあり、それぞれが別の動きをしている。その呪霊は彼女が刀を向けても怯むことなく喋り続けた。

「コッチこおちこッち」
「コココココっち、コッちにおイで」
「あー! 逃げるなッ」

苗字は走り出した呪霊を追いかける。斬撃を飛ばそうとしたが、遊具の間をすり抜けていくので放つのは躊躇われた。呪霊は橋がある所まで急に立ち止まり、何かを持ち上げた。

「あそ?ア、ソボあア、アそォぼ?」
「それ...!」

呪霊はケタケタ笑いながらその物体を見せつけた。目を凝らすとそれは人間だった。片腕が欠損しており、足はありえない方向に曲がっている。見せつけて満足したのか、動かないので興味を失ったのか、呪霊はすぐに手を離した。死体が重力にしたがってどちゃりと落ちる。瞬間、彼女は地面を蹴って呪霊に斬りかかった。

「ああァああぁばばばッッ」
「...っ!?!」

呪霊は咄嗟に先程の死体を盾にした。止まれなかった苗字の刀が死体を斬り裂く。赤い液体が零れ出し、刀を染めた。無傷の呪霊は挑発するようにその場で跳ねた。

「クソッ!!」

彼女は殺意を込め再度刀を振るった。呪力にあてられて湧いた低級呪霊も同時に片付けていく。感情のままにひたすら暴れた。
全てを祓った彼女は足元の肉塊を見つめて立ち尽くした。暗闇に慣れた目が捉えたのは、見覚えのある顔。彼女が所属していた部活の先輩だった。もしかしたら残り三人も、と冷や汗が伝う。奥の方も確認しなければいけない。

数分後、残穢を追ってその場に五条がやってきた。サングラスの位置を直しながら文句を言う。

「おい、探すのめんどくせーんだよ。こんな所まで来て何してやがる」
「悪い。そっちはもう終わった?」
「当たり前だろ。オマエも祓ったみたいだな」
「うん。...遺体も見つけた」

苗字が視線をやった方を見ればいくつかの肉塊。いずれも四肢のどこかがもがれており、完全な状態ではない。かろうじて制服のおかげで元の形が想像できる程度だ。

「あー...ひでえな。呪霊が玩具にしてたのか」
「それもあるけど。私が斬った」
「は?」
「呪霊が遺体を盾にしたんだ。私、止まれなかった」
「...それはオマエが悪い訳じゃねえよ」
「しかも、同じ部活だった人」
「前の学校のヤツか」

苗字が黙って頷く。期間は短かったとしても、この様子を見る限り世話になった人なのだろう。五条は彼女の腕を強く引いた。

「あとは俺らの仕事じゃない。行くぞ」

それから二人は高専に直帰した。各々自由に風呂や食事を済ませ、報告書に取り掛かっているうちにあっという間に夜が更けた。
他の学生が寝静まった頃、ゲームに飽きた五条は自販機に向かった。薄暗い廊下の先の共有スペースからは明かりが見える。先輩だったら面倒だと考えていたのだが、先客は違う人物だった。水を購入し、ソファに腰を下ろしている後ろ姿に声をかけた。

「チビ助が夜更かしなんてしたら身長伸びねーぞ」
「...っ余計な、お世話だって」

振り返った苗字の目は赤く、潤んでいた。彼女が握りしめているタオルが五条の視界に入る。

「オマエ、泣かないんじゃなかったのか」
「泣いてねえ」
「無理があるだろ」
「うっさい」
「明日ブスになんぞ」
「放っとけ」

死体とはいえ、知り合いを斬ったのだ。呪霊を祓うのとは訳が違う。まともな人間なら精神を病むに違いない。しかし、まともな人間には呪術師は務まらない。

「...呪術師、辞めれば? 今ならまだ引き返せるだろ」

二人きりの部屋に五条の冷たい声が響いた。それを聞いた苗字は顔を顰めた。

「...馬鹿かオマエは。これくらいで辞める訳ねえだろ」
「この先もっと地獄を見ることになるの分かってんのか?」
「それを乗り越えてこその呪術師だろ。私は自分で決めたことは最後までやる主義なんだよ」

強く言い放った彼女は、イカれた精神力の持ち主のようだ。五条は笑ってガシガシと苗字の頭を撫でた。

「いっちょまえに言うじゃねーか」
「わ、ちょ!」
「じゃあなチビ助。早く寝ろよ」
「白髪も寝ないとハゲるぞ」
「黙れ」

苗字の顔に笑顔が戻った。元から呪術界と関わりのある五条は感覚が鈍っていたが、初めから呪霊と戦うことに抵抗を示さなかった時点で彼女は十分イカれているのだ。余計な心配だったかもしれない、と考えながら自室に引き返した。

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