Howling
雨。
プールの中の水をひっくり返したようだ。と、バカなことを考えてしまうのは、この雨のせいだ。
朝は降っていなかった雨は、夜も深まれば途端に顔色を変えた空によってもたらされた。
打ち付けるような、窓の外の世界の景色すら閉ざし、鬱陶しいじめじめとした空気を運び込んだそれは、ただでさえ鬱々とした気持ちをかきたてた。
何度目かの溜息を零す。今度は、長く重たいものだった。かれこれ小一時間は車の中に閉じ込められているから無理もない。唯一の交通手段と雖もいよいよ我慢の限界である。
しかし、一瞬でそれを打ち壊すものを視界の端にとらえた。
「止めろ」
「え、は、はいっ!」
車が路肩に止められる。
停車と同時に車から飛び降りた。
この雨の中車から降りてくるだけでなく、傘を持っているのにささない俺に不審な視線が向けられる。ともすれば、なんの撮影かと思われているのだろう。
どこだ。どこにいる。まるで祈るような気持ちで探した。
それは、すぐに見つかった。当然だ。雨で視界が閉ざされた中でも見つけられたのだから。一際異質な存在だった。
地を蹴った。
心は息せき切って、早く、早く、と訴えかけていた。息が荒くなり、鼓動が高鳴り早まる。待ち望んでいるからか、久々に全力疾走しているからか。そんなことはどうでもよかった。
だが、俺の意志に反して神は味方しなかったらしい。
突如目の前に現れた壁が俺の前途を塞ぎ、回避する間もなく俺はぶつかった。
「いってえなぁ……。おい、兄ちゃん、どこ見て歩いてんだ。あぁ?」
「……悪かった」
「ごめんですめばサツはいらねえよ。あーどうすんの、骨が折れちまったじゃねえか?」
「悪かった」
「だからそれですまねえって言ってんだよ!慰謝料払えや、ゴルァア!」
当たり屋か、と息つく。まったく厄介なものに出会った。こちらは急いでいるというのに。
けれど、ぶつかったのは紛れもない事実である。
俺は、男にメモを渡す。
「そこに連絡しろ。希望の額を払ってやる」
「な……っ」
男は絶句した。
ここで面倒に構っている暇はない。そう判断してのことだった。
「テメエ、なめてんじゃねえぞクソガキャァアッ!!」
が、一刹那の後、我に返った男は掴みかかってきた。逆上した男は、拳を振り上げ、俺は身動き出来なかった。
仕方ない。これで済むのなら。と、身構えながら思った。
衝撃は、なかった。いつまでたっても襲い掛からない。
どうしたことか、と目を開ける。
「……っ、」
俺は、閉じていた目を今度は大きく瞠ることとなった。
キラキラと、そこだけが光り輝いていた。
「暴力は、だめだよね」
まるで、天に愛されているかのように。
見物客ですら色めき立ち、その纏うものと容貌に引き寄せられている。
かくいう俺もその一人だった。
「警察呼ぶよ」
「ちっ」
当たり屋ですらも息をのみ、見惚れていた。警察の言葉に慌てて逃げたけれど。
「さて、大丈夫だった?」
ソイツは、逃げ去った男にやれやれと肩を竦めると、俺に微笑みかけた。たったそれだけで世界の色が輝き、変わる。
世界の変わる音が、聞こえていた。
ソイツは、俺に手を差し伸べる。
俺は、
「俺の前で見苦しい姿を見せるな、この一般ド庶民が!」
その手を払った。










そうして、傘を叩き付けたのがきっかり一週間前のこと。
それから、一週間。
「迎えに来たよ、俺の花嫁」
ソイツは、また俺の目の前に現れた。―――正確に述べるならば、一週間日を空けることなくバカなセリフを吐きにわざわざこの山奥にまで来ている。
この学園は、山奥にあって俗世と隔離されているようなつくりである。山自体が学園の所有であるため、学園外部の人間がこの山の中に住んでいることもない。
加えて、交通手段はない。唯一出来ることは、車か徒歩。バスなどの公共交通機関は一切ない。
それなのに、毎日この山奥にある学園の、しかも学園の中でも更に奥にある学生寮まで通い詰めるなんてバカ以外の何者でもない。呆れるどころかドン引いて二の句も継ぎたくない。
そんなこちらの心情など知る由もなく、ソイツは相も変わらずうすら寒い笑顔を浮かべて手を差し伸べてくる。
「花嫁、これは君に」
「っ、いらん!」
恒例となったバラの花束を、俺も変わらずはねのけた。何が悲しくて男から花束なぞ貰わなくてはならないのだ。
しかし、男は表情ひとつ変えることなく、俺の前に跪いた。
「愛しの花嫁、生涯あなたに愛を囁く権利をくれ」
「バカバカしい……さっさと帰れ」
これも、いつものことだった。何をとち狂ったか、ソイツは俺に愛を囁く。まるで、愛の奴隷とやらに成り下がったかの如く。
俺は、それをいつも蹴っていた。否、耳も貸さなかった。ソイツはそうすると時間だからといつも帰っていく。
しかし、今日は違った。
「今日は帰るわけにはいかない」
「は……?」
ソイツは、立ち上がり、俺の上からじっと見つめる。
手が伸び、俺の手に触れる。
引かれる、手。近付く、距離。
気付けば、俺はソイツの腕の中に、目の前にソイツの意外にも厚い胸板があって。
「な、っ……!何、を……っ!!」
ソイツは、うっそりと笑う。
「つかまえた」
キラキラ、キラキラ、と。
光り輝いているのに、なぜかどろりとしたものを感じた。この状況がそうさせているのだろうか。
「もう、逃がさない」
「は、……?」
「一週間あげたよ」
一週間。ソイツが口説きに来た期間。それがなんだというのだろうか。
俺は、迫り来る得体の知れないものと予測できない事態に言葉を紡ぐことすら叶わない。圧倒的なオーラが俺の口を塞ぐ。
「君が自ら俺の花嫁になる期間。けれど、もう、ダメだ」
ダメ。
何が。
ソイツの手がすると俺の顎から頬に伝う。
「俺の花嫁―――いや、真嗣。愛しているよ」
「〜〜〜〜ッ!!」
唇に、同じものが滑らされた。
「お、おま……っ」
「愛しているよ」
俺は唐突に理解した。今までのものは前哨戦でしかなかったのだと。花嫁だ花束だとかいうものは、来る本番の俺への手慣らしでしかなかったのだ。
「真嗣、俺の愛を拒んでも、逃げなかったね。俺にずっと愛を囁かせたね。だから、俺は決めたよ」
掌にじっとりと汗が滲んだ。
俺でさえ気付いていなかった真実にか、それとも予測不可能な恐怖へか。かと言って、手を振り払うことも出来ず、ただただのまれるだけだった。
「愛しているよ、真嗣」
再び紡がれた睦言に、俺は諦観した。
そっと閉じた視界からは、あの日と同じ水滴が頬を伝った。
     
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