標的2



「……朝かな」


 むくりと身を起こしながら蓮華は枕元に置いてある時計に手を伸ばす。時計が示しているのは五時ちょうどで、起床には少々はやい時間だ。蓮華は眼をこすりながらぼうっとする。
 早く起きたとして、彼女にはしなければならないことは無いのだが、これは蓮華の十三年間生きてきた中での癖のようなもので、治そうとして治る類いのものではないことは事実に違いない。ともあれ誰かに迷惑をかけるわけでもないこのくせを治す気は蓮華には毛頭無いといってもいい。

 しいて早く起きることの理由をあげるとしたら。

 蓮華の家は並盛中学校からは『少々』遠い位置にあるため、通うのに多少の時間がかかるからということをあげるが、蓮華がそれを理由にあげることはない。なぜならそのためだけに起きているのだったら、今のこのぼうっとしている時間を寝ている時間に回せば済む話だからだ。
 時計に目をやると、今は五時半。そろそろのんびり準備でも始めようかと蓮華はベットから足をおろして、室内にある水道の蛇口をひねった。力を入れすぎたせいで勢いがよく流れ出る水の量を調節して、両手で水をすくう。ザバザバと両手で水と顔を行き来して顔を洗うと、横においてあるタオルで水気を拭った。

 支度をしているうちに六時になるだろうとカーテンの方に目をやると、夏に近づいてきているこの時期の朝はまだ薄暗くカーテンを開いていないため余計にそう見えた。それは蓮華の心を明るくしてくれるには暗すぎる薄暗さだった。

 蓮華はさっと視線をそらすと、制服をかけてあるハンガーを手に取った。そして着々と準備を進めていく。寝間着をぬぎ、制服のスカートを来たところでトントンと控えめにドアをたたく音がする。時計をみると六時ジャストで、ノックの音に続いて遠慮気味に男の声が聞こえてきた。これまた毎朝おなじみの声なので、彼の態度を律儀に思いつつ、意識せずに口から「入っていいよ」と声がでた。


「おはようございます、蓮華さま」

「おはよう不知火。それと『さま』っていうのは付けないでくれると嬉しいな」


 制服のリボンを手に取り、苦笑しながら蓮華は男――不知火香月(しらぬい かづき)に苦笑する。蓮華がこう言うのも毎度のことなので、シャッとカーテンを開きながらでも不知火は何食わぬ顔だ。いきなりまぶしくなった部屋に蓮華は目を細める。だが、その瞬間の表情だけは、どこかお互いに楽しそうだった。
 自分の家の『特殊』さを理解している蓮華としては毎日毎日起こしにきたり、蓮華の身の回りの世話をしたりおつかれさまなことで、というのが正直な感想だったが。この『イエ』が嫌いな蓮華にしては奇態なことに、彼女は不知火のことを身内として好いていた。

 不知火は先ほどまで出していた笑顔をさっとひっこめて、リボンをつけ終わった蓮華に向けて淡泊に告げた。


「朝食の準備が出来ましたので――みなさまがお待ちです」

「――そう。じゃあ、今からいくから、先に行ってて」


 彼女は何かを言いたげに顔を歪めた後に、不知火に倣ったようにすっと表情をひっこめた。どうせ何かを言ったとしても同じなのだから。
 ひらひらと手を振りながら、通学鞄の中身を確認する蓮華。今や蓮華の表情も冷めたもので、その表情は学校での蓮華を知っている者が見たとしたら驚くだろうことは確かだった。彼女としてはその表情をこの家のモノ以外の他人に見せることなど一生ないというのが心にあるため、その他人が見るという機会は未来永劫くることのないものであろうというのが気持ちにあったが。


 ――空柩蓮華としての朝はこうして始まる。









 食事を終えた蓮華は足早に車へ乗り込んだ。この時間だったらいつも通り余裕で学校に間に合うだろう。運転席には不知火香月が座っていて、助手席では無く後ろの席へと腰をかける。


「それじゃあおねがいします!」

「かしこまりました」


 蓮華を見つめる不知火の目は、どこか悲しそうだったが蓮華の声ではっとして意識を切り替える。後部座席に座る行為が、知らぬ間に不知火と距離をつくっていて。それが家に関わるものから出来るだけ遠ざかりたいという心の現れだということに、蓮華は気づいていなかった。かといって気づいている不知火が、どうこうしてそれを指摘するようなことも無かった。

 足早になるのも、家から離れたいとの気持ちから。朝のうちの蓮華の気分が鬱々としたものを感じさせるのも。全て。――彼女が、『イエ』というものを嫌うからであった。

 流れていく景色を蓮華は頬杖をつきながらみていた。景色に対してどうこうという感情はまるで湧いてこなかったが、ただ前の座席をみているよりは退屈しないだろうと。いつもと同じで変わらない景色だが、けれども車で移動しているために動いている景色をただただ眺めるようにして。
 初めにも説明したとおりに蓮華の家は並盛中に通うには遠い位置にあった。普通なら並盛中学校じゃなくて、別の中学に通うという選択肢を取るところ。しかし、蓮華にはそこまで通うための足があった。出来るだけ遠くで、だけど家のモノに反対されない程度には近く。並盛中学校はそんな蓮華には丁度いい場所にあった。しかし彼女も通学の全てを送ってもらうわけではなく、校区外ギリギリの場所までしか送ってもらわないというのがほとんどであった。それは学校には自分の家の面倒な事情を出来るだけもらすまいとする蓮華の気持ちから。そこから学校までは少々遠い。ゆっくり道草をしながら学校まで歩いたとして軽く一時間、彼女にしてみれば歩いていけないこともない距離。出来れば車も何も学校の人間に見てほしくない蓮華としては、その程度何の問題にもならない。


「……もうここでいいよ、ありがとう。わざわざごめんね、不知火」

「いえ。これが自分の仕事ですから。もう少し先じゃなくて大丈夫ですか?」

「うん、ここでだいじょうぶだよ。後は歩くから」


 彼女のためにドアを引き開けながら、男は優しく微笑んだ。
 ぴょんっと反動をつけてかわいらしく車から降りる蓮華の顔は楽しげだった。


 いってきます、と笑う蓮華が楽しく感じることのできる場があるなら不知火はそれを見守るだけだ。


「あっ、そうだ」

「どうしました、なにか忘れ物でも?」


 スカートを翻して、くるりと不知火の方を向く蓮華。


「不知火はさ。香月は――あの家のこと、好き?」

「――ッ!!」


 唐突に、何の脈絡もなく呟かれたその言葉に不知火は背筋がぞっと冷えるのを感じる。たらりと冷や汗を流している不知火に対し、蓮華は満面に笑顔を浮かべている。蓮華のまとう雰囲気は異質で、それでいて異様だった。

 どうして、こんなことを、というよりも、どう答えれば『正解』だろうかという思いの方が強かった。彼女が口を開くより先に自分が口を開かなければという強い思いにとらわれて。


 何かを、喋らなければ。
 何か、何かを。


 頭の中の深層にまで潜って、潜って……答えを探して捜してとする不知火であったが。喋ろうとすればするほど、口を開こうとすればするほど、何か一動しようとするたびにその動作に重い枷をはめられたように動かすことが出来なくなった。背筋を冷たいものが滑る。そんな不知火の挙動を知ってか知らずか、焦る不知火とは対照的に蓮華はいたっておちついていた。
 問いをかけた時と同じようにとうとつに、蓮華はまた終わりを告げる。口を開いたのは彼女の方が、はやかった。


「へんなことを聞いてごめんね。別に不知火のことをいじめたいわけじゃあなかったんだけど、ふっと疑問に思ってさ」

「……すみません、蓮華さま」

「謝らなくってもいいよ。ただ、聞いてみたかっただけだから。結果的に不知火をいじめただけみたいになっちゃったけど」


 じゃあ、今度は本当に行ってきますとひらひらと手を振り、走っていく蓮華。その様子には先ほどまでの異質さは欠片も感じられなかった。それをみて不知火はやっぱり蓮華はあの家の子どもなのだという思いを強くした。
 あの、異様さは父親ゆずり。兄弟の誰よりも色濃く特徴が出ている証だと、不知火は哀しくなった。

 嫌っているからこそ、それに近づいていく彼女にどうかひとときでもシアワセを。

 


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