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夏の大会は終わったが、休む間もなくすぐに秋大のブロック予選、国体、秋大の本選と怒涛のようなスケジュールは、チームをめまぐるしく動かしていた。
新キャプテンは満場一致で福井さんに決定した。レギュラー陣しか興味を示さない雑誌記者たちは「誰?」と眉をひそめる者もいたらしいが、チーム内に不満を抱いている奴は一人もいない。レギュラー陣は個々の能力は高いものの、キャプテンに向いている人がいないのだから仕方ない。
まだ三年生は引退していないが、事実上俺は稲実の正捕手だ。ずっと憧れだったポジション。今、俺はそこにいる。気合を入れても入れすぎて空回りしないように――と心がけてはいるものの、早く鳴さんのところまで登りたいと、今はただがむしゃらに練習に明け暮れていた。
「いい感じです! 球、走ってますよ!」
一昨日から鳴さんのピッチング練習が解禁された。現在、俺はブルペンで久しぶりに鳴さんの球を受けている。
ああ、懐かしいな。この感じ。
すんとブルペンの匂いを嗅ぎ、静かに余韻に浸っていると、鳴さんに怪訝な顔をされた。
鳴さんの甲子園での疲労が心配されていたが、数日休養を取ったためか全く疲れを感じさせず調子は良さそうだ。だが――
「ナイスボール!」
「はぁ?! 今のがナイスボール? 本来の俺の実力ならもっとナイスだけど?!」
「はいはい、なら次はもっとナイスなやつください! 今度は低めで!」
そう声をかけてすぐさま返球。
全く、ピッチャーって人種は――特に鳴さんは、つくづくめんどくさいと思う。気持ち良く投げてほしいと優しく声をかければ調子に乗り、厳しくするとヘソを曲げる。うまく手綱を握らなければ、すぐにどこかへ行ってしまう奔放な暴れ馬だ。
鳴さんは球をキャッチすると、しばらくマウンドの土を蹴っていたが、すぐに短く息を吐いた。色素の薄い瞳に、強い光が宿る。
次の瞬間、鳴さんから放たれたストレートは、光のような速さでミットに収まった。バシッと気持ち良い音が響く。手元は、全く動かしていない。
「どーだ! 見たか!」
小さな子供が自慢するように、鳴さんは大きく胸を張った。
「……ナイスボール、です」
「でしょ?」
にんまりと笑みを浮かべる鳴さん。
ごくたまに、ぞわりと肌が粟立つような、そんなとんでもない球に出会う瞬間がある。この人はそれを、たくさんたくさん内に秘めている。暴れ馬であることに違いはないが、それは途方もなくプライドの高い、高潔な白馬だ。
一通り投げ込みをしたあと、汗を拭き水分補給をしていると、近くで声がかかった。
「成宮くん。タオル忘れてるよ」
なまえさんが、タオルを手にブルペンにひょっこり顔を出す。
「あ、サンキュ。どこいったのかと思ってた」
「食堂に忘れてたよ」
「よかったー。危うく樹のくっさいタオル借りるとこだった」
「くっさいとはなんですか! そりゃあんだけ投げ込まれたら汗だってかきますよ!」
「え? あんだけでへばったの?」
「へばってません! むしろ余裕です!!」
そんな俺たちのやりとりを見てなまえさんはクスクス笑い、すぐにグラウンドの方へ戻って行った。
「……可愛いよなぁ、なまえさん」
声の方へ目をやると、先ほどまで隣で練習していた二年生バッテリーのキャッチャーの先輩が、ほぅとため息をついた。
「雑踏に咲いた一輪の花! 掃き溜めに鶴だよ!」
「まさになぁ……」
ピッチャーの先輩もうんうんと頷く。
「そうかなぁ」
だが鳴さんだけは、唇を尖らせ異論を唱えた。
「聞きづてならねぇな……鳴」
「ん?」
「お前はよりどりみどりでいいよなぁ! そら選び放題だよ! 手紙もらいまくったうえにブラバンの可愛いコから告られたんだよなぁ!!」
「そーだそーだ! 俺たちのマドンナにケチつけんな!」
「いや、別にそんなんじゃ」
「はー……、なんでお前ばっかモテんだよ。世の中うまくいかねぇよなぁ……」
「ほんとほんと」
鳴さんは反論する気が失せたのか、ふんと鼻を鳴らしておとなしくタオルをかぶり黙り込んだ。
俺は少し迷ってから、隣の二人に聞こえないように、そっと鳴さんへと距離を詰めて座る。
「なに、樹。暑苦しいんだけど」
「鳴さん。たとえば、なまえさんのどんなところが気に入らないんですか?」
「別に気に入らないなんて言ってないじゃん。真面目だし、有能だし、優しいし、いい奴だと思うよ」
「え、じゃあなんなんですか。可愛い系より美人系がタイプってことですか?」
ちゃかしたつもりだったが、鳴さんは意外にも真面目な面持ちになった。
「んー、なんていうか……腹の底が見えないっていうか……。まぁ、カンみたいなもんだけど」
「へぇ……」
その時、俺の心の中ですとんと何かが腑に落ちた。それはまさに、あの夜コンビニで出会ったなまえさんの印象そのものだったからだ。それにしても、一見単純そうに見える鳴さんだけど、実は意外に洞察力が鋭いのかもしれない。
『アイスの好みは合うと思いますよ』
その言葉はなぜか喉の奥に引っかかり、ついに外へ出すことは叶わなかった。
「んまーい」
その夜。風呂から上がり部屋に戻ると、そこになぜかアイスのカップを持った鳴さんが転がっていた。
「なにしてんすか」
「ん? 樹の部屋でアイス堪能中」
「だーかーらっ! なんで俺の部屋なんですかっ!」
「だってみんな俺の部屋で勉強会はじめちゃうんだもん。もう今更焦ったって仕方ないのにさー」
木のスプーンをこちらにひらひらさせ、悪びれもせずこんなことを言う。
だいたい、鳴さんだって課題できてないんじゃないか。
「もう! 他の部屋行ってくださいよー」
俺は怒りを表すべく、わざとドカドカと音をたてながら部屋に入った。
「あー!!」
鳴さんのそばに広げられていた写真集。これは、俺の大事な大事な心のオアシス――まゆゆ。
慌てて拾おうとしたところを、すかさず鳴さんが奪い取る。
「ふーん、樹こんなコがタイプなんだー。まゆゆねー」
「ちょっ、返してくださいよ。紙が折れるっ」
「正統派がタイプって、樹も予想を裏切らないよねー」
「正統派の何がいけないんですか。王道でしょ」
「なに真顔で反論してんの? お前のアイドル論なんて聞いてないから」
鳴さんが写真集をパラパラめくると、眩しく輝くまゆゆの笑顔とあられもない水着姿が次々と飛び出し、俺は恥ずかしさでワナワナ震えた。
「もうっ! 返してくださいっ!」
やっとのことでまゆゆを魔の手から救い出し、机の一番下の引き出しにしまいこむ。ぜーはーと、肩で息をしてから振り向くと、鳴さんは何事もなかったようにアイスを味わっていた。
全くこの人は……ってあれ?
「鳴さん、それって――」
「ん?」と、鳴さんがアイスに視線をやる。よく見れば、マットな質感のゴールドのパッケージ。
「あげないよ」
「いりません」
「じゃあなに?」
「いや、それ好きだなーっと思って」
「ああ、これうまいけどあんま売ってないんだよね。こないだ樹が行ったコンビニに唯一置いてあったんだけど、ちょっと前しばらくなくなっててさ。諦めてたんだけど、最近になってまた並んでたから、思いきって大人買い」
満足そうに口の端を上げる鳴さんを見ていると、その時また、なまえさんの顔が浮かんだ。大人買い。子供が、三日に一回、大人買い。つくづくおかしな話だ。
一向に退出しようとしない鳴さんは、アイスをパクつきながらスマホをいじりはじめた。俺はその隣へ、自分の部屋なのに所在なく腰を下ろす。
――沈黙。微妙に気まずい。
これはテレビでもつけた方がいいのか、それとも外でバットでも振ってくるか。だがもう遅い時間だし、風呂も入り終わったあとなのでできれば汗はかきたくない。
杉たちなら一緒にいても沈黙は苦にならないが、鳴さんだとまた勝手が違う。
俺は適当に昼間の話題を振ってみた。
「そういえば、鳴さんのタイプってどんなコですか?」
「タイプ〜?」
木のスプーンをガジガジ噛みながら、眉を寄せる。
「なんでそんなん知りたいの?」
「いやぁ、バッテリーだし女の子の好みくらい把握しとこうかなーっと思って」
自分でも無茶苦茶な言い分だと思ったが、鳴さんはさして気に留めることもなく言い放った。
「そりゃブサイクより可愛いほうがいいよね」
うわっ、身もフタもねー。
「そ、そうですか。芸能人でいうと……?」
「つーかさぁ、例えば俺が『アイドルの○○ちゃんが好き!』って言ったら、どうせウンチクひけらかしてこき下ろすんでしょ。これだからドルオタはー」
「いや、そんなんしませんって!」
「まぁ、顔はさておき、やっぱ相性じゃない?」
「へー……」
意外とマトモな回答だ。
「あとねー、好みの音ならあるよ」
「音?」
「ブラバンの演奏とか」
「ブラバン?」
俺が首を捻っていると、鳴さんは食べ終わったアイスのカップをぎゅっと握り潰し、ゴミ箱へ放り込んだ。それは、きれいな放物線を描いてゴールする。
ああもう、カップ洗ってから捨ててくれよ。
俺の心の声はむろん届くはずもない。
それから鳴さんは、どこか遠い目をして口を開いた。
「前まですっげぇいいトランペットの音出す奴がいたんだけどさぁ、最近部活出てないんだよね。あいつのサウスポーよかったのに」
「音って……誰の音なんてわかるもんなんですか?」
鳴さんはふふんと頷く。
正直、ブラバンの演奏なんてただの『ブラバンの音』でしかなく、個々の音なんて考えたこともなかった。鳴さんは、聞き分けられるほど耳がいいんだろうか。
「そいつ最近、副部長になったらしいんだけど、部長と仲悪くなって気まずくなっちゃったんだってさ。理由も教えてくんないし」
「へー……、大変そうですね」
この時期、どこの部活でも新体制に切り替わるからそのいざこざかもしれない。といっても、ウチもよそのことを言えた義理じゃないけども。
「あいつのサウスポー聴けないの残念だなー……」
鳴さんは、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ぽつりと呟いた。
新学期がはじまった。今日は、夏が戻ってきたんじゃないかというくらい気温が高く、廊下の窓からは強い太陽の光が容赦なく俺の肌を射していた。
杉と談笑しながら歩いていた俺は、廊下の奥にいる二人の女子の姿に不思議と目を奪われた。
「なまえさん……」
「あ、ほんとだ」
杉も俺に倣ってそちらに目をやる。
なまえさんの隣にいる女子になんとなく見覚えがある気がしたが、思い出せなかった。
「なぁ、杉。あの人誰だっけ?」
「えっと、ブラバンの新しい副部長じゃなかったっけ? 確か小嶋先輩」
「……ああ!」
なるほど、と合点がいった。
あの人が鳴さんの好きな音を出すという小嶋先輩らしい。そういえば、よく鳴さんと一緒にいるところを見かけたことがある。ちょうど昨日話題に上ったところだったので、なんとなく気になった。なまえさんと小嶋先輩は仲がいいんだろうか。
二人は何やら神妙な面持ちで話し込んでいたが、会話はこちらまで聞こえてこなかった。
俺はその時また、あの夜の引っかかりを覚えた。