いつだって今だって

 去年の夏の悔しさは、消そうとしても消えないまだ新鮮な傷として、俺の胸に深く刻まれている。グラウンドの上に広がる、澄みきった青空と、鮮やかすぎる夏の太陽。沈んだ心ですら、等しく照らし出す強い光。
 敗北は、審判から試合終了の合図を告げられた時よりも、東さんが悔しさで泣き崩れた時の方が、確かな実感として俺を襲った。東さんは少々乱暴で口は悪いが、人一倍仲間思いで、ここぞという時に絶対的に頼りになる存在だった。そんな先輩が泣き崩れているところがどこか信じられず、この人も泣くんだ、と当たり前のことを頭の隅に残る冷静な心で思った。それからすぐに、焼けるように猛烈な悔しさが内側からふつふつとこみ上げてきた。目頭がカッと熱を持ち始めたが、しかし周りの先輩を見た瞬間、思いとどまった。
 俺が、俺たちが、ここで泣くべきじゃない。俺たち二年生には、まだ来年がある。先輩らとは、重みが違う。
 そして帰りのバスへ移動する時、ふとなまえさんの姿が目に入った。こんな沈鬱な雰囲気の中でもなまえさんは気丈に振る舞い、落ち込む選手の背中を優しくさすっていた。
 ああ、やっぱすげぇや。
 なまえさんは強い人だと、まだ混乱する意識のなかぼんやり思った。先輩たちのすすり泣きや嗚咽が溢れるバスの車内。俺はそれに耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、我慢して、ずっと機械的に流れてゆく車窓の風景を睨んでいた。

 みんなの悲しみを乗せたバスは、静かに寮へと帰り着いた。あの日勝てば、食堂ではお祝いになるはずだったごちそうたちが、誰にも手をつけられることなく冷えていく。先輩たちがそれらをやっと口に運んでも、いつしかまた涙が溢れ、まともな食事どころではなかった。その後、悔しさや悲しみを抱えた部員たちがそれぞれの部屋に戻ったが、俺は部屋の空気に耐えられなくなり、外へと出た。
 まだ夏も本番を迎える前の、虫の音しか聞こえない静かな夜。これからまだまだ暑くなるというのに、俺たちの夏は終わってしまった。
 いつもの寮内は、どこかで必ず部員たちの練習している音が聞こえてくる。けど今日は、重い静寂に包まれていた。俺は寮内をあてどなくさまよっていた。適当につっかけたサンダルが段差につまづきそうになっても、かまわず歩き続けた。
 その時ふと、聞こえたのだ――あの声が。
 声に導かれるように辺りを見ると、洗濯室の扉が開いていた。電気をつけていないせいで、扉からは細く闇が伸びている。そしてそこから漏れる弱々しい声は、闇に溶けるように響いていた。
 ああ、ここにも。
 部屋を出てもなお出会ってしまった悲しみに、俺は足早に通り過ぎようとした。でも、できなかった。
 響く声の細さに、その持ち主は女子だと気づいてしまったからだ。まさか――そう思った。
 電気をつけることははばかられたため、細く開いた扉からそっと室内を覗きこんだ。薄暗さに目が慣れてくると、並んだ洗濯機の一つにもたれかかるようにしゃがみこむ小さな人影を見つけた。
 なまえさんだ。
 直感的にそう思った。
 なまえさんはまるで子供のように、声をあげて泣いていた。暗いうえ、顔を伏せていたから表情はわからなかったが、細い肩が大きく震えていた。
 そして、その時になって俺はようやく、理解した。
 俺は何もわかっちゃいなかった。なまえさんの強さも、弱さも。青道が負けて、悲しくないはずないのに。
 強い人だと思っていた。いや、俺はそうやって、なまえさんに理想を押し付けていただけかもしれない。
 なまえさんに幻滅したとか、けっしてそういうわけじゃない。むしろ俺が、その本当の姿を見抜けなかったことに、ショックを受けていた。何が「憧れ」だ。何が「好き」だ。笑わせる。まるでガキだ。そんな風に押し付けて、俺は――
 鼓動が激しく胸を打ち、頬がカッと熱を持ちはじめる。弱い自分から目を背けるように、俺は暗闇のなか慟哭するなまえさんを残し、部屋へと戻った。
 それ以来俺は、なまえさんを意図的に避けるようになった。


「……なまえさん」

 俺は食堂から出てきたなまえさんを呼び止めた。なまえさんはきょとんとした顔で、

「ス……じゃなくて、純くん」
「呼び慣れなかったらいいッスよ、別に」
「いや、せっかくだもん。純くん! 純くん!」

 なまえさんがムキになって俺の名前を連呼すると、むしろこっちが恥ずかしくなってくる。

「あの……あんま大声で言われっと……」
「ごめん、他の人に聞かれるもんね。ああ、でも聞かれて困ることないか。ん? 困る?」
「困ります」

 亮介たちに聞かれたら、さんざんいじられるのがオチだ。
 なまえさんはすでにバッグを持っていたから、今から帰宅するところだろう。

「もう帰るんですか?」
「うん」
「じゃあ駐車場まででいいんで、ちょっと話聞いてもらっていいッスか?」
「話?」
「……ちょっと、ここでは」

 なまえさんは小さく目を瞬かせたあと、頷いて歩き出した。
 空はまだ色の浅い夏の夜の闇に包まれていて、二人の間を、若干の蒸し暑さの残る風が通り抜けていく。
 俺が駐車場の方へ歩きかけると、なまえさんは慌てた様子で「待って」と止めた。

「今日は車じゃないんだ。この間、バンパーこすっちゃって、今は修理中」
「あー、やっちゃったんスね」
「そうなの。駐車の時、ちょっとボーッとしてたらガリガリって。せっかくお金貯めるためにバイトしてんのに、これで消えちゃ意味ないよね」

 なまえさんは肩を落としてため息をついた。

「じゃあ今日は電車で?」
「そう。高校の時みたく徒歩と電車」
「……んじゃあ駅まで送ります。危ないんで」
「え、いいよ。大会中なのに、そんなことしてるヒマあったらちょっとでも自主練した方がいい。マネージャーしてた時も、いつも一人で帰ってたんだし」
「いや、送りますって。遠慮しないでください」
「いいって」
「送ります!」
「いいって!」

 しばらく押し問答をしていたら、ふいに目が合い、どちらともなく吹き出した。折れたのは結局、なまえさんの方だった。

「じゃあ、番犬スピッツくんにお願いしようかな。変質者が襲ってきたらキャンキャンよろしく。そんで帰りは自主練としてランニングね」
「……ッス」

 うーわ、本当に変な奴出たらどうするよ、俺。
 顔が怖いと言われているだけで、実際に殴り合いのケンカなんかほとんどしたことがない。そういう意味では倉持なんかの方がよっぽど適任だろう。まぁ、いざという時はこのいかつい顔で睨んでハッタリきかせるか、などと思っていると、ふとなまえさんの足元が視界に入った。瞬間、ヤベェと思い、俺は歩く速度を緩める。

「すいません! 歩くの速かったッスね」
「ううん、大丈夫。こっちこそ気遣わせちゃってごめん」

 男女の歩幅の違いで女子が苦労するなんて、少女マンガのデートの鉄則じゃねぇか。なんで気づかなかったんだ。
 自らの致命的なミスに心をえぐられる。
 気まずくなってしきりに地面を見たり、逆に夜空を見上げたりした。空には餅みたいなまん丸い月が出ていて、それを背景にしたなまえさんは、やっぱりきれいになったと改めて思った。
 そして、なまえさんは唐突に「ねぇ」と切り出した。

「純くん、すごいかっこよくなった」
「……は?」
「堂々とプレイしてて、でもそうなるまでに死ぬほど努力したんだろうって、よくわかる。副キャプテンぶりも板についてるし、後輩からも慕われてる。……なんか、眩しいな」

 はにかみながらそう言うと、ぱっと顔を伏せる。
 これでもかというほど褒めちぎられた俺はしばらく返事ができず、なまえさんの顔をじっと見ていた。ぽーっと熱を持ちはじめる自分の頬。褒められるのは、どうも苦手だ。

「な、急になに言ってんスか。ベタ褒めじゃないですか。そんなこと言われたら俺……」
「俺?」
「……いや」

 期待しちまう。

「なまえさんこそ……きれいになったと、思います。女って変わるもんだなって」
「ちょっとそれ、メイクの力ってすごいって意味かな?」
「いやいやいや! そうじゃなくて!」
「はは、冗談だよ。ありがとう。自分でも女としてちょっとはマシになったんだなぁって安心する」

 なまえさんは柔らかく微笑んで夜空を仰いだ。
 今のところを少しだけ訂正したかった。確かに卒業してきれいになったが、俺は出会った頃のなまえさんも十分きれいだと思っている。だがこれを言うとかなりクサい気がして、少女マンガでもないのにこんなこと俺が言えるはずもない。

「――率直に、聞くね。純くんは去年の夏、好きな人いた?」

 急に心臓を鷲掴みされたようだった。俺ははやる心で、でも軽くなりすぎないように言う。

「……いました」
「同じ部活で」
「はい」
「……年上、で?」

 心配するようになまえさんが上目づかいでこちらを見るので、今度は心臓がぎゅっと跳ねる。

「はい」

 俺が力強く応えると、なまえさんは安堵したように深く息をついた。
 ああ、ほんとに。
 自分がどうしようもなく情けなくて、弱くて、子供で、すげぇ嫌になる。気持ちを確かめるのが怖くて、相手にそれをさせて俺は応えるだけか。いや、違うだろ。
 そろそろ駅が近づいてきた。ロータリーに吸い寄せられるように、車が何台も俺たちの横を通り過ぎていく。
 今言わなければ、きっと去年の二の舞になる。俺はきつく拳を握り込み、立ち止まった。それに気づいたなまえさんも足を止め、俺の顔を覗き込む。

「……純くん?」
「俺……俺は……」

 その時だった。出し抜けにクラクションが鳴り、俺ははっと顔を上げた。すると目の前に停車していた黒のセダンから、大学生くらいの男が出てくる。その男は、俺たちの様子をじっと窺っているようだった。

「……伊藤くん」

 ふいをつかれ、俺はなまえさんの方を向いた。
 なまえさんは顔をこわばらせて俺に視線をやったあと、「ごめん」と頭を下げた。

「送ってくれてありがとう。もうここでいいよ。ちゃんと走って帰るんだよ」

 俺の顔を見ながらも、なまえさんは心ここにあらずといった様子で、あの伊藤と呼んだ男が気になっている風だった。
 去っていくなまえさんを無言で見送りながら、俺は、滝のように激しく心を打ちつける後悔に、ただうちひしがれていた。帰りの俺がベースラン並みに飛ばしたのは、言うまでもない。

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