無自覚な恋

 鳴り止め、鳴り止め心臓。
バクバクと激しく音を立てる胸に、拳をぎゅっと押し当てる。右手はハンドルを握ったまま。
 道路はしばらく直線が続いていた。ちょうど目の前の信号が赤に変わったので、ブレーキを踏んで大きく嘆息する。
 先ほどのスピッツくんとの会話の中で、初めて名前を呼んでしまった。でも呼んでしまったものの、スピッツくんは若干戸惑っているようで、本当は呼んじゃいけなかったのかもしれない。もしかしたら引かれたかもしれない。隣を一切見なかったから、彼の気持ちがわからない。馴れ馴れしく「純くん」だなんて、勘違い女だと思われただろうか。
 なんでもないふりをして逃げるように車に乗り込んでしまったけれど、本当はちゃんと話を聞くべきだった。でも、もう遅い。信号が青に変わる。スピードを上げた車は、無情にもスピッツくんを置き去りにして遠ざかる。
 視界の端を、街の灯りが糸を引くように駆け抜けた。夜の車道は昼間とは別の顔をしていていて、どこか非現実的な雰囲気が漂っている。このまま走り続けたら別の世界へ繋がってしまうような、そんな妄執に囚われながら、私は二年前の春を思い返していた。

 まだ校庭の桜は蕾で、寒さの残る三月下旬。一つ学年が上がったのだから気を引き締めろと言わんばかりに、ぴんと冷たい空気の張りつめた朝だった。
 新入部員の最初のあいさつ。強面の片岡監督を前に、ハキハキと自己紹介をする部員、緊張で声が上擦る部員、気弱そうに口ごもる部員、十人十色のあいさつの中で、それは一際目立った。

『好きな投手は野茂英雄、一塁手は落合博満、二塁手は――』

 それを聞いた周囲が一気にざわついた。威勢のいい奴だと笑うコーチや先輩たち。「毎年、こういう口だけの奴はいくらでもいる」と、皆そう思ったに違いない。しかし私には、本人は至って真面目に、闘志を燃やしているように見えた。
 私が思わず吹き出すと、先輩マネージャーにたしなめられたっけ。でも、先輩だって笑いを堪えるのに必死だったけれど。
 ――変な子。
 それがスピッツくんの第一印象だった。
 スピッツくんはよく投げてよく走ってよく吠えた。広いグラウンドにいてもすぐにわかる存在だった。
 ある時、ギャラリーのおじさんの一人が「スピッツ」と呼び出して、吠える姿がまさにピッタリだって思った。
 あの頃は、部全体がひどくピリピリしていた。青道は野球の強豪校だから、学校側としても実力のある選手は喉から手が出るほど欲しい。しかしあの年の新入生は不作だと言われ、そういった雰囲気は伝わるもので、一年生も自然、やる気を削がれていく。そんななかでも、スピッツくんはへこたれることなく厳しい練習に耐えていた。
 私がスピッツくんに積極的に話しかけたのは、別に下心があったわけじゃなく、単純に彼という人間に興味を惹かれたからだ。

 ――夏。先輩の代が準々決勝で敗北した。落ち込む間もなく、すぐに新チームが結成され、めきめきと頭角を現しはじめたスピッツくん。外野手へのコンバートを乗り越え、彼の印象は「変な子」から「骨のある奴」に変わる。身長も少し伸び、中学上がりたての幼さの残る顔立ちは、精悍なそれへ。思春期の成長は目覚しいと言うけれど、それをまざまざと見せつけられた思いだった。
 ノックを受ける姿を、バッティングをする姿を、おにぎりを美味しそうに頬張る姿を、気づけば目で追うようになった。あの元気な声を、いつのまにか追っていた。
 すぐムキになるのがおもろしくて、私がからかうと、彼は拗ねたように吠えた。視界の端に、いつでも彼が存在することが幸せだった。
 そんな私を、スピッツくんがどう思っていたのかはわからない。口うるさい先輩と思っていただろうか。いじわるな先輩と思っていただろうか。
 だけど、「好き」と自覚するには、仲間としての意識が強すぎた。きっと知らず知らずのうちに、気持ちをセーブしていたのだと思う。

 その時窓の外に、鬱蒼とした緑が見えた。ここはうちの近所の大きな公園で、犬の散歩や、子供の遊び場、カップルの憩いの場として人気がある。土地の半分の面積を占めるくらいの巨大な池があり、そこには貸し出し用の手漕ぎボートが浮かんでいた。私は小さな頃から、恋人ができたら一緒にこれに乗りたいと密かに願っていた。手漕ぎボートなんて、いつの時代の少女マンガだよって突っ込まれそうで、今まで人に話したことはないけれど。
 彼は好きだろうか、こういうの。少女マンガは読むみたいだから、もしかしたらなんて。そんな自分の淡い期待に思わず自嘲する。
 公園を通り過ぎて、交差点に差し掛かり信号が赤になった。毒々しい赤は、あの日の真夏の太陽に変わる。
 去年、夏大が始まる前に彼から言われたあの言葉。

『話があるので、大会が終わったら聞いてください』

 交際経験の乏しかった私だが、そこまで鈍感じゃない。その言葉の意味を、ちゃんと理解しているつもりだった。しかし、その約束はついに果たされないまま、もうすぐ一年が経とうとしている。
 あの言葉は一体何だったのだろう。こちらから進んで、問いただすべきなのか。出口のない迷路のように、結局答えは出ないまま、私はゆっくりアクセルを踏み込んだ。


 翌日の夜。食堂には、夕食を終えた部員たちがまだまばらに残っていた。くつろいでいる者、スコアブックを囲んで戦略を交わしている者、さまざまだ。私は翌日の仕込みを終え、帰り支度をしていた。

「なかなか板についてきたんじゃない?」

 同じく仕事仲間のおばちゃんがポンと私の肩を叩いた。

「いや、またまだですよ。でもありがとうございます」

 うれしくて礼を言うと、おばちゃんは「お疲れ様」と笑って食堂をあとにした。
 今までは仕事を覚えるので精いっぱいで、きちんと周りが見えていなかったけれど、最近ようやく意識を向けられるようになった。
 そんな中で、嫌でも耳にする野球部の現状。去年のクリスくんの怪我もそうだったが、今年は同じタイミングで丹波くんが怪我をし、チームを離れているらしい。最近の心配事はもっぱらそれだった。
 その時、食堂の扉が開き貴子が顔を出した。

「お疲れ様です」
「あ、貴子。お疲れ様」
「なまえ先輩、今あがったとこですか?」

 私が、うん、と返事をすると、貴子はあらたまったように近くの椅子にかけた。

「毎日遅くまでたいへんだね。疲れてない?」
「ありがとうございます。この通り、平気です」

 いつものように笑った貴子だったけれど、その様子が少し気になった。私を上目づかいに見上げ、何か言いたそうな様子を見せるもすぐに視線を逸らしてしまう。

「どうしたの?」
「あ、いや……」
「珍しいね。貴子がそんな風に言い淀むの。……なに? なんでも話してよ」

 貴子はまだ迷っている風だったけれど、やがて小さく息をつき、ぐっと顔を上げた。

「私はこのチームが好きです。もっとみんなと一緒に戦ってたいし、一つでも多く勝ちたい。私は選手じゃないけど、常にそういう気持ちでいます」

 はきはきとした言葉に淀みはなく、その一点の曇りもない瞳が、まっすぐに私を見据える。私はゆっくりうなずいて先を促した。
 すると、貴子はつらそうに顔を伏せて、

「でも、一年前のクリスくんのことと今回の丹波くんの怪我で、みんなが辛い思いをしてるのに何もできなくて……。何かできるって思うのもおこがましいっていうのはわかってるんですけど……」
「――そっか。貴子も戦ってるんだよね」

 きっと後輩マネージャーの手前、ずっと気丈に振る舞っていたんだろう。
 私はわずかに震える貴子の手に、自身の手を重ね、その澄んだ瞳を覗き込んだ。

「わかるよ。実際は何もできないかもしれないけど、何かやれたんじゃないかって気持ち。……私だって後悔だらけだよ」
「……なまえ先輩も?」
「うん。東くんをあんなに天狗にしちゃったこととか、食事制限させなかったこととかね。おかげであんな立派に育っちゃってまぁ!」

 わざとらしく大げさに言うと、貴子はぷっと吹き出して口許に手を当てた。

「しょせん、一人一人の心の中までわかるわけないんだよ。冷たい言い方かもしんないけど、そこまで負うことない。でもその分、仕事で――行動で返したらいいと思うの。まぁ、私はたくさん失敗しちゃったけど、貴子ならできるよ」

 貴子はわずかに目を潤ませたあと、大きく瞬きをしてそれを打ち消した。

「はい……!」
「それに頼もしい後輩もたくさんいるじゃん。投手なんて今年は豊作だよ。まだまだ未知数だけど、きっともっともっと成長する!」
「はい。私もそう思います」
「はは、貴子もすっかり有能マネになったかと思ったのになー。そんな弱音吐くなんて入学してきた時以来? そういえば不器用だったよね。爆弾みたいなおにぎり作って」
「もうっ! それ何回ネタにするんですか!」

 むくれる貴子が可愛くて頬をつつくと、照れたように口をむっと引き結んだ。胸の内に人一倍熱い思いを抱えているのに、それを表に出すことが苦手な我が後輩が途端に愛おしく思えた。

「戦ってよ。もっともっと。私たちの分まで、なんて言わない。みんなが自分たちらしく戦ってくれたら、卒業した私たちもうれしい」
「はい。悔いが残らないよう精いっぱいやるつもりです」

 貴子は最後に特大の笑顔を見せてくれた。私はもうここの人間ではないけれど、最大限の応援はするつもりだ。
 それから貴子はふと思い出したようにこちらを見て、

「……あ、そういえば」
「ん?」
「なまえ先輩、伊佐敷くんとはどうなったんですか?」
「えっ?!」
「隠したってダメですよ。なんかそういう雰囲気だったじゃないですか、前から」
「ああ、えっと……」
「単刀直入に言ってどうなんですか?」

 と、生真面目な調子で問いかける。

「……ね、やっぱり貴子から見てもそう感じたよね?」
「違うんですか?」
「んー、私もよくわかんない。恋愛に向いてないのかも」
「まぁ、私たちって恋愛なんてする余裕ないですからね。今は試合のことだけ考えます」
「そうそうその調子」
「でも何か進展あったら教えてくださいね?」
「わかったわかった」

 それから少し言葉を交わしたあと、私たちは別れた。
 もう彼らの夏ははじまってしまった。二度と戻らない夏を精いっぱい謳歌してほしいと、陰ながらただ願うばかりだ。この夏を最高の思い出にするのも、苦い思いで塗り潰すのも自分たち次第なのだから。けれど、本当に最高の夏にできるのは、全国でたった一校のみであり、その現実を前にするとスポーツはつくづく残酷なものだと思う。
 ふと、先ほどの貴子の澄んだ瞳を思い出した。私も一年前はあんな目をしていたんだろうか。胸に迫る寂寥の思いを沈めて、食堂を出た。
 空はすでに群青が支配する夜の世界に変わっていた。虫の音に耳を傾けながら、歩き出した時だった。

「……なまえさん」

 振り返ると彼が立っていた。ただ眩しくて、眩しくて、私の胸を焦がすもの。

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