望みの根底

 見知らぬ車の助手席はそわそわする。私は気づかれないよう、シートの上で何度か座り直した。
 運転する伊藤くんはよく知っている人なのに、闇の中に浮かぶその横顔はまるで知らない人のようで、私はさっきから落ち着かなかった。車内のカーステレオは停止していて、ただ息苦しい沈黙だけが充満している。
 この重い空気も耐えがたかったけれど、それ以上に私の心を支配していたのは、純くんのことだった。もう少しであの夏を、あの想いを取り戻せるかもしれないと思ったのに。純くんは、私と伊藤くんとの間に流れる空気に、何かを感じ取ってしまっただろうか。

「……家」

 伊藤くんは唐突に言った。

「え?」

 窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めていたせいで、急に声をかけられはっと我に返る。

「こっちの方向でよかったよね」
「……うん、そう」

 伊藤くんは頷き、淀みない動作でハンドルを切った。
 大丈夫、大丈夫だ。
 駅で促されるまま車に乗ってしまったけれど、次第に言いようのない不安が胸に込み上げていた。でもちゃんと家の方向に向かっているし、考えすぎた。私は先ほどから気になっていた疑問を口にした。

「ねぇ、なんで私があの駅使うこと知ってたの?」

 伊藤くんは目線だけちらりとこちらにやり、

「田中さんから聞いたんだ。みょうじが青道の食堂でバイトしてるって。車が修理中ってことも言ってたから、もしかしたら駅使うかもって思った」
「……そう。電話くれてもよかったのに」
「ごめん、それだと会ってくれないと思ったから」
「そんなことないよ。別に私、気にしてないから」

 田中さんとは私の友達のこと。伊藤くんに勝手に教えたこと、あとでとっちめてやらないと。
 それにしても伊藤くんは、自分から振っておいて今更何の用だろう。ただ、別れたくないと執着しなかった私も同罪と言えば同罪だ。二人のそれぞれの対する温度は、結局のところ同程度だっただけのこと。
 伊藤くんは平坦な声で続けた。

「バイト慣れた?」
「まぁまぁかな」
「男所帯でむさ苦しいんじゃない?」
「別に。マネージャーやってたからそれはもう慣れっこ」

 気まずい空気を埋めるように、とりとめのない会話がぽつぽつと続く。
 しかし、本当に気になっていた疑問の方は怖くて聞くことができず、それを素通りするように意味のない会話が二人の間を滑っていった。
 私は窓の外へ目をやり、まだ家に到着しないのかと気が急いていた。
 しばらくすると、ぎこちない会話のキャッチボールはやがてふつりと途切れ、車は徐々に減速していった。そして、人通りの少ない道の路肩で車がゆっくりと停車した時、先ほどから込み上げていた不安はよりいっそう大きくなり私を襲った。
 それでも息をゆっくり吐き出し、気持ちを落ち着かせてから、純くんの顔を思い浮かべると、不思議と力が湧いてくる。
 私は――本当にダメな奴だ。みんなにいい顔したい八方美人で、そのくせ自分に自信がなくて優柔不断で、確固たる自信が持てない。こんな私でも大丈夫だろうか。今からでも、遅くはないだろうか。つかの間逡巡していたけれど、やがて心は決まった。
 やっぱり、後悔だけはしたくないから。
 伊藤くんはギアをパーキング入れ、ハンドルから腕を下ろしてこちらを向いた。

「……みょうじ」
「なに?」
「あのさ、俺たちもう一度――」
「やり直さないよ」

 私は言葉を遮ってきっぱりと言った。

「……やり直すって言うよりさ、元々何も始まってなかったんだよ、私たち。だから無理。……ごめん」

 伊藤くんはゆっくり天井を仰いだあと息をついた。

「そう……だよな。そう言うと思った」
「…………」
「……いや。俺も悪かった」

 その言葉に首を振って、私はもう一度「ごめん」と重ねた。

「送ってくよ」
「ここでいいよ。あとは歩いて帰る」

 断ってからドアを開け、勢い良く外へ飛び出す。
 少し歩いたところで振り返ると、車はのろのろと走り去るところだった。そちらに向けて口の中で小さく「さよなら」と呟いてから、背を向けて大股で歩き出す。
 次第に闇が深まりゆく空を見上げ、夏の夜の空気を吸い込むと、去年のーー高校生の自分に戻ったような、まだ青道の夏が終わる前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。生温い風が全身にまとわりつき、夏はまだまだこれからなのだと教えてくれる。
 ふいにバッグの中で携帯が震えた。見ると貴子からのメールだ。途端ふっと口元が緩み、メールを開きかけて、けれどやめた。
 ――そうだ。私はもう、高校生でもマネージャーでもない。
 私たちの夏は一年前にすでに終わってしまっているのに。そんな当たり前のことを失念してしまうほどに、嫌になるくらいこの夏の空気は、去年のそれと何ひとつ変わらない。
 負けは負け。去年、甲子園に行けなかった事実は現実のものだ。一度決定されたものは今更覆らないというのに、未だにそれを夢見て、希望の残骸に打ちひしがれて。この先、夏が巡るたびに、この甘やかな幻想に何度絡めとられることだろう。
 私は携帯をバッグを放り込み、地面を蹴った。夏の空気なんか感じなくなるほどがむしゃらに走って、それからはもう、二度と振り返らなかった。


 それから青道高校は順調に勝ち進み、準決勝、決勝へと駒を進めた。そして明日はいよいよ、積年のライバルである稲城実業との試合だ。
 今日は一段とギャラリーが多く、差入れを持って来るOBや保護者が後を絶たなかったけれど、一番のトピックスといえば東くんが激励に来たことだろう。今は最高学年である三年生も、彼の突然の出現にはさぞ縮み上がったに違いない。
 仕事を終えた私は、学校の駐車場に向かっていた。車はもうすっかり元通りになった。
 午後八時近くになっても、夏の夜の闇はまだ浅く、月の周りはほんのり銀色に滲んでいた。夜のため駐車場の車はまばらで、周囲はしんと静まり返っていた。
 あれから純くんとは、顔を合わせていない。誤解を解いた方がいいのかもしれないけれど、それは私の都合であって、今の純くんにはもう関係ないのかもしれない。所詮、ただの自惚れ――そう考えてしまう。
 どちらにせよ、野球に関係ないことで、この大切な時期に彼の心をかき乱すような真似はしたくない。それでも――。
 わずかに涼しくなった風を肌に感じながら、ある決意を胸にゆっくりと深呼吸をする。
 いつになっても構わないから、私の気持ちをきちんと伝える。
 三年間、純くんと共に過ごし、彼を知り、どうしようもなく惹かれた。けれど、去年の私はまだ幼すぎて、気持ちを持て余し、彼に甘えてしまった。彼から伝えてくれるはずだと。
 同じ時間を共有し、共に戦い、笑い合った彼が好きだ。けれど今年再会して、更に逞しくなった彼にもっともっと惹かれていく自分がいた。同じ時間を過ごせなくても、気持ちが一時的に移ろってしまっても、やっぱり心のどこかに彼の存在があった。
 だからもう、素直になればいい。
 ぼんやり目の前の車を眺めていたその時、寮の方角から人影が見えた。それが純くんだと認めた瞬間、心臓がきゅっと掴まれた心地がした。

「お疲れさんっス」

 Tシャツに短パン、首にタオルを巻いたいかにも自主練中といった姿で、軽く会釈をする。その表情はやや固い。

「……お疲れさま。自主練はいいの?」
「はい。今日はもう終わりっス。疲れも溜まってるし、明日の試合でへばってもしゃーねぇからって監督が」

 そう、と呟いて私は目を伏せる。
 今の純くんに余計なことを言いたくないのに、彼を前にすると自分の気持ちを洗いざらい話してしまいそうで、うまく笑うこともできない。
 すると、純くんはニッと歯を見せた。

「やっぱ東さん最高でしたね!」
「……太ってたけどね」
「……ハラ、ぷよぷよでしたね」
「プロテクターからお腹はみ出るようじゃねぇ……」
「しかも沢村のヤツ、そこにピンポイントで当てやがるし」
「ははっ、コントロールいいのか悪いのか」

 先ほどまでぎこちなかったのに、思わず笑ってしまい、自重するように手で頬を軽く押さえた。
 純くんが空いた駐車場の縁石の上に腰を下ろすと、私も少しためらってからその隣の縁石に座った。ジーンズ越しのお尻に、縁石の冷たさがひんやり伝わる。
 隣をそっと盗み見ると、ちょうど純くんと目が合ってしまい、慌てて逸らした。

「明日、悔いのないようにね。がんばってる人にこれ以上がんばれなんて言えないけど、今までやってきたことを信じて」
「……はい。もう全力出し切るだけっスから」

 また沈黙が訪れるのが怖くて、私は慌ててまくし立てた。

「今日ね、純くんたちが監督のノック受けてるとこ見て、なんか今までのこと思い出しちゃった」
「今までのこと?」
「そう、入学してきた時から今日まで……って言っても、私が引退してからはそんな頻繁に見てたわけじゃないんだけど。んで、やっぱりすごいなぁって。こんなにも努力できる子たちが集まって、仲間もそれに触発されて更に強くなる。……監督も嬉しかったと思う」
「それは俺も感謝してます。アイツらと一緒に戦えて、本当よかったって。で、それは監督やマネージャーやOB、それに親も。支えあってこそっつーか」

 私は力強く頷いた。今日の練習の姿が脳裏に浮かんで、ふいに目頭が熱を持ち、鼻の奥がツンと痛くなる。

「ちょっ、どうしたんスか」
「なにが?」
「あー、その……」

 その時、頬を伝う熱い感触で、自分が泣いていることにやっと気づいた。

「ご、ごめん、最近なんか涙脆くなってゃって。もう歳かなー」
「一歳しか違わねぇだろ……ったく」

 乱暴に手の甲で涙を拭おうとすると、目の前にすっと白いタオルが差し出された。
 純くんはやや眉を寄せて照れ臭そうに、

「ちょっと汗臭ぇかもしんねーけど、こっちの端なら大丈夫だと思う」
「ありがと」

 礼を言って受け取り、タオルをちょんちょんと目頭に押し当てる。かすかに洗剤の良い香りがした。
 涙を拭って落ち着いてきたところでタオルを返すと、純くんはさっきとは打って変わり、身体ごとこちらに向けて真剣な面持ちをしていた。そして、何か言いにくそうに顔を歪めたあと、

「なまえさん!」

 突然、声を上げた。
 私の肩がびくりと跳ね、勢いで思わず、はい、と返事をする。

「今更もう遅いかもしんねーけど……この大会が終わったら、去年のリベンジさせてくれませんか?」

 純くんの耳は真っ赤だったけれど、その表情はきりりと引き締まり、目を逸らせないほどの意思の強さがあった。

「……私も」

 情けないことに蚊の鳴くような声しか出ず、それから私はすっと息を吸い込み、純くんの目を見据えた。

「私もリベンジしたいの」

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