子犬の視線
『お前、キャンキャン吠えまくるスピッツみてぇだな』
確かギャラリーのオヤジの一人が言いだしたんだっけか。今ではもう、よく覚えていない。とにかく、ブルペンでも打席でもよく吠える俺は、そんなふざけた名で揶揄された。同名のアーティストもいるが、そんな爽やかなものではなく、もちろんかつて昭和の時代に一世を風靡した小型犬の方だ。
『かわいいあだ名だね』
それを聞いたなまえさんはうれしそうに『スピッツ、スピッツちゃん、スピッツくん』とぶつぶつつぶやいていた。スピッツ五段活用かってんだ。
あれ以来、俺はなぜかなまえさんから「スピッツくん」と呼ばれている。
俺たちが青道に入学して一ヶ月が経った頃、部の空気があきらかに変わりはじめた。春休みに練習に合流した時から、なんとなく感じていたそれが、確かな形になって浮上したと言えるだろう。
――不作の年
言われなくとも、以前からなんとなしに肌で感じていた。俺たちの代は、クリスを除いて、突出した能力を持つ選手がいないことを。
最初の頃はよかった。今は蕾だか、大事に育てれば大輪の花を咲かせる選手だって大勢いる。指導者はそれをじっくり育てればいいのだ。だが、俺たちはまだ、その芽さえ出ていなかった。
先輩の中には、あからさまにバカにしてくる人もいた。――が、何も言い返せなかった。後輩だからじゃない。俺たちが弱ぇからだ。
そんなある日のこと――
「伊佐敷くん」
なまえさんがにこにこしながら俺に近づいてきた。
「スピッツくん」と呼ばれる前、俺はなまえさんから普通に名字で呼ばれていた。
「何すか?」
ややぶっきらぼうに応えた。
なまえさんとは当時まだ、二言三言言葉を交わしただけだ。年上の可愛らしい先輩に、まだ中学を上がりたてだった俺はひどく緊張していた。
「ちょっといい?」
なまえさんが用具倉庫の裏にそっと目線を送る。おおっぴらには言えない内容だと勘付いた俺は、おとなしくなまえさんの後ろへついていった。
五月の風は、どこまでも爽やかに俺たちの間を吹き抜ける。なまえさんの髪がふわっと揺れるのを俺はぼんやり眺めていた。
なまえさんは俺が気おくれしないように配慮したのか、親しげに話しかけてきた。
「部には慣れた? 野球楽しい?」
「はぁ、まぁそれなりに……」
「同室の先輩にいびられてない?」
「……マッサージは強要されるッスけど、特には」
そう、となまえさんは満足気にうなずいた。
「ドリンク薄くない?」
「大丈夫ッス」
「好きなジュースは?」
「ファンタグレープッスかね」
「おにぎりの具の好みある?」
「チーズかな」
「好きなマンガは?」
「ガラスの――」
なんとなく乗せられて応えていたが、はっと我に返った。
「なんスかその質問! 応える意味あるんですか?!」
「うーん、はっきり言ってちゃんとした意味はない! ないけど――」
「けど?」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、にんまりと口の端を上げた。
「そう、コミュニケーションだよ! コミュニケーション大事だよ」
「こ、こみゅにけーしょん……?」
「ほら、今ちょっと部内がギスギスしてるじゃない? 大会もあるししょうがないんだけど。でもやっぱ楽しい方がいいよね」
なまえさんが同意を求めるように俺の目をのぞき込む。でも俺は三秒ともたなくて、すぐに目をそらした。
「――何か不満とかある?」
「いや、別に」
「大丈夫だよ。監督にチクったりなんかしないんだから」
「そんな心配はしてねぇッスけど」
口ごもる俺を横目に、なまえさんはふっと真剣な表情になった。例えばね、そう切り出して。
「道具がいつもよりキレイだとか、おにぎりに好きな具が入ってたとか。人ってそんな些細なことでも元気になれると思うわけ」
「そりゃまぁ、そうッスね」
「私はあくまでマネージャーだから、それ以上のことはできないんだけど、じゃあできることをやってやろうって思ったの」
「できること……」
「そう」
――刹那、俺のなかで風が吹き抜けた気がした。
ピッチングはあいかわらず、本能のままに投げればノーコンと怒鳴られ、コントロールを意識すると棒球だと笑われる。使える変化球も増えてない。バットを振れば大振りの末の三振。成長したとこなんか一コもねぇ。俺はこの一ヶ月、高校野球の厳しさをひしひしと感じていた。
しかし、あの時。俺はなまえさんの言葉にちょっとだけ背中を押されたような、そんな気がした。
やってやる。食らいついてやる。
そう、固く決心して。
なまえさんは不思議な人だった。仕事ぶりはそつなく――とは言いがたかったが、いつもまっすぐ真剣に取り組んでいた。俺より年上なのにいつもどこか抜けていて、なんとなく目が離せない。なまえさんを中心にして、周りに笑顔が伝染していくようだった。
俺はそんなあの人に、憧れた。
▽
ちらり、と食堂の方へ目をやった。奥へ引っ込んでいるのか、なまえさんの姿は見えない。どうやら夕方からのシフトが多いらしく、俺は夕飯時にその姿を探すことが多くなった。
飯を食いながらも、心ここにあらずの俺を、哲が不思議そうに見やる。
「純、なまえさんを探しているのか?」
「なっ?! ちげーよ!」
「隠さなくていいよ。バレバレだから」
「うが」
近くにいた亮介や増子は、どこか呆れた面持ちだった。
「ちげーって言ってんだろ!」
「ごはん粒飛んでる」
亮介の言葉に、思わず口をつぐんだ。
ムキになりすぎだろ、俺。試合も近いのに何やってんだよ。
自嘲しながら、ハンバーグを乱暴に箸で切り分ける。
今更あがいたってどうなるわけでもないのに、何もせずにはいられなかった。昨日の呼び名の件だって、きっとなまえさんを困らせたはずだ。年下扱いしてほしくない。対等に扱ってほしい。そんなの俺のエゴだ。
喉につっかえそうなハンバーグを、俺は苦い思いと一緒にどうにか飲み下した。
夕飯が終わり、ちょうど寮の部屋へ戻るところだった。いつもは哲たちと一緒だが、今日に限って俺は食うのが遅く、皆は先に戻っていた。
「あ、スピッツくん」
「……あ」
なまえさんだった。両手に大きなゴミ袋を持っていて手がふさがっているにもかかわらず、俺に向けてそれを振っている。もう割烹着は着ておらず、私服の肩にはトートバッグがかかっていた。
「……あ、えと、暫定スピッツくんね」
「すんません。そんな深く考えなくていいッスよ」
「いいのいいの。色々考えてきたんだから」
得意げに胸を張るなまえさん。俺はその手の中のゴミ袋に手を伸ばしたが、本人はそれを離そうとしない。
「持ちます」
「大丈夫だよ。見た目ほど重くないし」
「いや持ちますって」
「いいって。お金もらってるんだし、ちゃんとしないと。これ捨てたら上がりなんだ」
と、足早にゴミ捨て場へと急ぐ。俺もなんとなくその後について行った。
あー、情けねぇ。
ちょっとでもいいとこ見せたいだとか、自分のちっぽけすぎる自尊心に、途端に恥ずかしさがこみ上げる。
俺は目の前の小さな背中を見つめながら、その時、あることに気づいた。なまえさんは在学中、電車でここまで通っていたから、当然今日も駅まで歩くはずだ。
ゴミ捨てを終えたなまえさんは、パンパンと手をはたいていた。
「あの、時間も遅いし危ねぇんじゃないんすか? 夜道」
「大丈夫だよ。車で来てるし」
「……車?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「春休みに免許取ったんだ。まぁ、最近までペーパーだったんだけどね」
「へぇ」
「ヘタクソで教官に何回もブレーキ踏まれちゃった」
あははと笑うなまえさんが、その時ひどく遠くに感じた。
引退以来、なまえさんは部にちょくちょく顔を出していたが、会話は前よりもぐっと減った。廊下ですれ違っても会釈する程度。だから免許のことは初耳だった。
もう十八なんだから免許があって当然なのに、俺はそこに越えようのない壁みたいなものを感じた。
それだけじゃない。たった数ヶ月会っていないだけなのに、なまえさんはあの頃よりずっと綺麗になっていた。髪型のせいなのか、化粧のせいなのかはよくわからない。高校の時のあどけなさは影を潜め、大人っぽくなったというか。
『女は化けるよ』
姉貴のいつかの言葉が蘇った。まったくその通りだ。きっと周りの奴がほっとくわけがない。もう彼氏だっているかもしれない。
駅まで送るなんて発想が子供じみていて、どこまでも情けなかった。
それからなまえさんはバッグをよいしょとかけ直して、こちらを見た。
「スピッツくん。せっかくだからちょっと頼まれてくれる?」
俺たちは駐車場までの道のりを歩いていた。夏特有の虫の音が耳に心地良く響く。
まだ風呂に入っていなかったから、身体の匂いが気になった。すん、と嗅いでみると汗くさかったので、なまえさんとの距離を少し空ける。あと50mほどで駐車場だ。
なまえさんは、昨日の件ね、と言って、バッグからノートを取り出して開いた。
「今から読み上げるから、いいのあったら言ってね」
「……うす」
「スピ男、スピ太郎、スピノ助……」
「だからなんでスピッツベースなんスか!」
「ごめんごめん、冗談だって」
そうやって無邪気に笑うとこ反則だろ。俺もそうやってすぐムキになって反論してしまう自分の子供っぽさが嫌になる。
だがその時だった。突然、なまえさんがすっと下を向いてノートに顔を埋めた。
「……純」
「……え……」
「……くん、で……いいかな?」
なまえさんの口から俺の名前が溢れた瞬間、心臓が何かにぎゅっと掴まれたみたいに一瞬動きが止まった――気がした。
みるみる染まっていくその柔らかそうな耳たぶを見ながら、こんなノート奪い去って今すぐその熱い頬に触れたいと思った。
げ、手汗がヤベェ。
握って、開く。俺の手はつかの間宙を漂って、惑う。
しかしすぐにピッという車の解錠音がして、俺は現実に引き戻された。
「この車ね、可愛い形でしょ」
なまえさんは何事もなかったかのように小さな軽自動車のドアの開け、そのまま身体を滑り込ませた。
「じゃあよろしく頼むね」
「あ……ウッス」
エンジン音を背に、俺は駐車場の出口に向かって歩きだす。
車はゆっくり徐行しながら俺についてきた。出口に辿り着いて車道の状況を確認すると、車の気配はなかったので俺はなまえさんに向けて腕でマルを作った。
「オッケーです!」
なまえさんがグッジョブと親指を立てる。
ここの駐車場の出入口は見通しが悪く、面した車道は交通量も多いため苦手なのだと言う。
そのまま車は右へウィンカーをきったが、当の本人はくるりと俺の方を向いた。口が、ありがとう、と動く。
「ちょっ、前! 前向けって!」
慌てて前を指して怒鳴ると、なまえさんはいたずらっ子みたいに笑った。それからすぐに車は車道へと出て、のろのろと走り去っていった。
「そりゃ狼に化けるスピッツより鉄の塊のが安全だっつの……」
去って行くテールランプの光がずっと目に焼きついていた。