52. 月は満ちた

 青道はその後も順当に勝ち進んでいった。その様子を見ていると、選手たちは試合ごとに成長して逞しくなっているような気がする。これもひとえに片岡監督の指導の賜物だろう。
 そして、青道はついに準決勝で仙泉を下し、いよいよ明日決勝を迎える。対戦するのは、去年準決勝で涙を飲んだ因縁の相手、稲実だ。
 昼間、野球部の練習を見に行った時、去年の雪辱を晴らすため、さぞ気合の入った様子なのだろうと思っていたけれど、意外にもみんな程よく力が抜けリラックスしていたのが印象的だった。きっともうやれるだけのことはやったと、静かに明日を待っているのだろう。

 決勝前日の夜、部活が終わり家路につくと、哲ちゃんはまだ帰ってきていなかった。将司に訊いても、「さぁ?」と首を振るだけ。おそらくまだ学校で自主練に励んでいるんだろう。待っていれば帰ってくるにもかかわらず、私は先ほどからずっとそわそわして落ち着かなかった。昼間練習を見たのにもかかわらず、だ。

「あー……、もうっ」

 チラチラと何度も時計に目をやり、携帯を睨む。哲ちゃんのことだけじゃない。ずっと練習を見てきたみんなのことが気になって仕方なかった。
 もしかするとこれで最後かも――そんな縁起でもない想像を、必死に振り払う。
 青道は、明日絶対に勝って甲子園に行く。そう固く信じて、私は将司に断ってから家を飛び出し、自転車を漕ぎだした。

 近くの土手に自転車を停め、私が寮の様子を窺っていると、

「……なまえちゃん?」

 突然背後から声をかけられて、肩がびくりと跳ねる。おそるおそる振り返るとそこに、小湊さんが立っていた。

「あ、なんだ……小湊さんか。びっくりするじゃないですか」
「こっちこそびっくりしたよ。不審者かと思った」
「不審者って……」

 小湊さんは小さく口の端を上げ、

「純が心配になって来たの? あいかわらずだね」
「なっ、違います! 純さんが心配っていうか……みんなのことが気になるっていうか」

「みんな?」小湊さんが訊くと、私ははいと頷いた。

「部員みんなですけど、特に小湊さんたち三年生が……」
「ふぅん。なまえちゃんは俺たちの夏が明日で終わると思ってるわけだ?」
「思ってませんよ! 思ってません……けど……今まで以上に壁は高いわけで」
「そうだね」
「なので明日はぜひ力を出し切ってほしいと……」
「そのつもりだよ」

 その三日月のような目からは、静かな、でも燃えるような闘志が揺らめいていた。私はそれに圧倒されながらも居ずまいを正し、その目をまっすぐ見据える。

「あの、それと今まで言いそびれちゃってて、こんな時に言うことでもないんですけど……」
「なに?」
「……小湊さん。今まで純さんのことで色々相談に乗ってもらってありがとうございました。私、いつもすごく励まされました」

 小湊さんはふっと表情を止めた。

「お陰で純さんと付き合えることになって、小湊さんには本当に本当に感謝してます」
「……まったく。二人とも鈍いにも程があるよ。まぁ、見てる方としてはおもしろかったけど」
「へ?」
「気づいてなかったの? 純の気持ち」
「はい……。告白するまで、ちっとも。小湊さんは知ってたんですか?」

 小湊さんはこれに返事せず、

「ほんと似た者同士だよね」

 と呆れたようにため息をついたけれど、その口元にはまたいつもの笑みが浮かんでいた。

「――さてと。さっきから覗き見してる趣味の悪い輩もいることだし、もう行くよ」
「え?」

 小湊さんがちらりと視線を送った先――建物の陰に、何者かがいた。じっくり目を凝らしてみると、

「純さん?!」

 そこに、バットを持った純さんが立っていた。舌打ちしたあと、どこかばつが悪そうにこちらへ近づいて来る。隣を見ると、小湊さんはいつの間にか歩き出していたので、私はその背中に向かって一礼した。
 純さんはバットを小脇に挟み、ジャージのポケットに手を突っ込んで気まずそうに、よぉ、と言った。

「別に立ち聞きするつもりじゃなかったんだけどよ、素振りしてたら聞こえてきたっつーか」

 しどろもどろで弁解する純さんを前に、私も「はぁ」としか言えない。純さんはしばらく狼狽していたものの、すぐ何かに気づいて私をギンと睨みつけた。

「つーかなまえ! こんな遅くに一人で危ねぇだろーが!! 何度言ってもお前は――」

 勢い良く怒鳴りつける純さんを前に、ふと、既視感を覚えた。前にも確かこんなことがあった気がする――

「……あっ」
「なんだよ?」

 怪訝そうな顔をする純さんに、すいません、と謝ってから、

「純さんと初めてしゃべった時も、そんなこと言ってたなぁって」
「あ?」
「遅くまでここにいた私を怒ったんですよ? 危ないから早く帰れよって。……それとも、もう忘れちゃいましたか?」
「バカヤロー。忘れるわけねぇだろ、お前みてぇなヘンな奴」
「ちょっ、なんですかそれ」
「最初はストーカーかと思ったぜ。何度も練習見に来るしよ」
「もー……、その節は本当にすいませんでした!」

 私は半ばやけっぱちで謝った。だけどそのあと、不思議と笑いが込み上げてくる。

「純さんはあの時と何も変わってませんね。いつもいつも心配してくれて」
「それは、お前が危なっかしいからだろーが……」

 純さんは恥ずかしそうに頭を掻いて俯いた。
 その時、近くで部員たちが近づいてくる音がしたので、私たちはどちらからともなく土手を上り場所を変えた。土手に挟まれた細い小道に出て、並んで歩きはじめる。土地がやや高くなったせいか、先ほどより風が感じられた。湿気と、むっとする草いきれのこもる青くさい風は、夏の夜の空気を強く感じさせ、秘密めいた不思議な高揚感を掻き立てる。永遠に続きそうな長い小道の途中で、純さんは立ち止まって夜空を見上げた。

「今夜は満月だな」
「はい。まん丸くて、とってもきれいです」

 夜空には、グラウンドを見守るように明るく輝く満月が浮かんでいた。この月に、自主練中の部員たちは気づいているのか、それとも気がつかないくらい練習に没頭しているのか。いずれにせよ、ぽっかりと浮かんだ満月は見事な神々しさだ。
 無言でグラウンドを仰ぐ純さんを見ていると、その横顔に二年前の幼いそれが重なる。あの頃はまだ顎のヒゲがなく、今よりも身体の線が細かった。先程、何も変わっていないと思っていたのに、こうして見ると驚くほど時が経っていたことに気づき、自分でも呆然としてしまう。時の狭間の、どこへも行けないような錯覚に囚われて不安になっていると、私の視線を感じた純さんは、何見てんだよ、と口を尖らせてこちらを向いた。

「あっ、すいません……。なんか二年前を思い出しちゃって。初めて話した時のこと」

 純さんは口元にふっと笑みを浮かべて、

「怖かったか? あん時、俺のこと」
「いえ、顔は知ってたので別に。むしろ意外にいい人なんだなぁって思いました。こっちのこと心配してくれるなんて」
「怖いツラの割にはって?」

「はい」私が頷くと、軽く小突かれた。

「……まぁ俺の方も、あんだけ何回も通うお前がどんな奴か気になってたけどな。こいつ何が目的だー、って」
「はは。それ初めて聞きました」

 純さんは一瞬ためらったあと、こう口にした。

「でも、何であれずっと気にかけてくれてる奴がいるってのは励みになった。だから、なまえのこと気になってたのかもしんねぇな」
「……私のこと、気になってたんですか? い、いつから?」

 すると純さんの顔がたちまち赤くなり、

「……い、いつからだっていいだろ!」
「えー、教えてくださいよー」
「うっせぇ、お前はもう帰れ!」

 プンプン怒る純さんが可愛らしくて、もっと追及したくなったけれど、かわいそうだったのでやめておいた。
 ぬるい風がふわりと、私の前髪をさらっていく。

「……私は、哲ちゃんや純さんたちががんばる姿を見るのが好きだったんです。それに元気をもらってました。今じゃ考えられませんけど、あの時は不作の世代って呼ばれてましたもんね」
「ああ。けど今はそんなの言わせねぇぞ?」

 純さんが自信のある笑みを浮かべる。

「今日の昼間、練習見てたんですけど、みんなすごく楽しそうに見えました。純粋に野球が好きなんだなって」
「おう。意外にみんなリラックスしてたな。 さっきなんか倉持の部屋で集まってたし」
「あ、もしかしてまた沢村くんたちパシらせたんですか?」
「当然だろ。……つーか沢村の奴、彼女いんだぜ? 一年の分際で」
「ええっ?! めちゃくちゃ意外です! どんな子ですか?」
「あー、すっげーかわい……」

 と言いかけて、ゴホンと咳ばらいをする純さん。それを聞いて少しだけモヤモヤする自分の小ささが、我ながら嫌になる。

「なーにスネてんだよ」
「……スネてないです」
「妬いてんのかぁ?」
「違いますー」

 ぷいと横を向いたのに、からかうように顔を覗き込まれて、カッと頬が熱くなる。純さんは私の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜると、満足そうに笑った。
 寮の方を見ると、明日は決勝だというのにまだ明かりの灯っている部屋がいくつもあった。早く休んだ方がいいのに、みんな誰しも興奮して寝つけないのかもしれない。これ以上純さんを引き止めてはいけないと思いながら、けれどもう少し話していたいという相反する思いに駆られる。
 純さんはどこか慈しむように、バットの柄に視線を落とした。

「……最近さ、試合するたびにいっつも思うんだよ。もしかしたらこれが最後かもしれねぇって」
「……え……」
「もちろん負けるつもりなんかねぇぜ? 弱気になってるわけでもねぇ。でも、試合に絶対はない。市大みたいに予想もしなかったとこで負けるかもしんねぇ。……だからいつも考えちまう」

 私が黙り込んでいると、純さんは今度は力強く言葉を重ねた。

「でも、だからこの一戦一戦を大事にしようって。どの試合で終わっても悔いを残さねぇようにしようって、そう思ってる」

 私は胸が詰まる思いでそれを聞いていた。純さんが、自身の目を背けたくなるような弱さを見せてくれたことを、嬉しいなんて思っちゃいけないのに、この時の素直な気持ちはやはり「嬉しい」だった。

「……純さん」

 知らず知らずのうちに、私は純さんの手を握っていた。純さんは驚いて思わずバットを離し、それは金属音を立てて地面に倒れた。カランカランと次第にその音が小さくなり、私は握った手を自身の胸のあたりへ持っていき、強く、包み込む手に力を込めた。

「夢を……叶えてください」

 言葉が自然に溢れる。
 自分のため、チームのため。私は純さんが、何のために野球をやっているかなんて、本当のところはわからない。それは本人にしかわからないことだ。けれども、純さんが信じたことを貫いてほしいと、そう願っている。
 毎日、晴れの日も雨の日も風が強い日も、暑い日も寒い日も、どんな時でも懸命に練習していた姿をずっと見てきた。握った純さんの手。幾度もマメが潰れて岩のように固くなった手のひらは、どんな時もバットを振り続けてきた勲章だ。その努力の積み重ねを思い、思わず泣きそうになるのをぐっと堪えた。

「祈ることしかできないけど、私はずっと応援しています」

 純さんは静かに笑って、ありがとう、なまえ、と呟いた。
 涼しい風が吹き抜け、土手の草むらを揺らし、夏の匂いがよりいっそう濃く漂う。風の音に耳を傾け、目を閉じた。
 あいかわらず寮の方からは、自主練を続ける部員たちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。虫の音が夏の風に運ばれて響く。
 握りしめた手をいつ離そうか逡巡していたその時、純さんと視線が重なった。冷静になって考えると、自分の大胆な行動に徐々に顔が熱くなる。するとその熱が移ったように、私の手から純さんの手へ、そして顔へと伝わってゆき、私たちは言葉をなくしてただお互いの体温を感じていた。
 それから純さんは私の左手を取り、自身の右手に絡めてぎゅっと繋いだ。

「……なんかすごく恋人っぽいです」
「っぽいじゃなくて恋人だろ。……ったく、いつになったら慣れんだよ」

 へへ、と笑うと純さんはふてくされたようにそっぽを向いてしまう。まん丸い月明かりが照らし出す道を、私たちは肩を寄せ合うようにして寮へと歩きはじめた。
 そうしてしばらく進んだあと、寮のすぐ前あたりで、純さんは「あ」と何かに気づいた。

「なんですか?」
「あれ、哲じゃね?」
「……あ、ほんとだ」

 道の先に立つひとつの人影。更に近づくと、確かにそれは哲ちゃんだった。

「純? それになまえも。どうしたんだ? こんな所で」

 哲ちゃんは訝しげに私を見て、

「なまえは家に帰ったんじゃなかったのか?」
「一旦は帰ったんだけど……また来ちゃった」
「夜道は危ないと言っただろう」
「ごめんなさい」

 哲ちゃんの視線が私と純さんの間に注がれたので、私たちは慌てて繋いだ手を離した。

「いや、これはその……」

 純さんが焦って弁解していると、それに反して哲ちゃんは目を細め、

「懐かしいな……。昔はよく繋いだものだ」
「そうだね」
「お前ら兄妹でか?」
「ああ。将司もな」

 そう言って哲ちゃんがふいに私の手を取る。

「哲ちゃん?」
「なにしてんだよ、哲」
「いや、久しぶりに繋ぎたいと思ったんだが。――ほら、純もさっきみたいになまえと繋げ」
「いや、俺は――」
「遠慮するな」

 半ば強制的に繋がされ、私を真ん中にして右側が哲ちゃん、左側が純さん。細い小道に沿うように一列に並ぶと、なんだか奇妙な図になった。

「おい、なんだよこれ」
「ん? 楽しくないか?」
「楽しくねーよっ!」
「まぁまぁ」

 吠える純さんをなだめてから、夜空を見やる。空の色が深くなるごとに、満月はいよいよ輝きを増していく。

「見事な満月だな……」

 哲ちゃんは食い入るように月を眺めていた。私はありったけのパワーを二人に送るため、握った手に力を込める。私たちの背後には、三つの影法師が仲良く繋がって並んでいた。



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