51. 午後のとまどい

 真っ青な空に向かって、大きく伸びをする。
 私は今、学校の中庭のベンチに座り、そわそわと純さんを待っていた。学校の授業が午前中で終わりだったので、今日は一緒にランチをしようと約束したのだ。
 昨日、ようやく東京にも梅雨明けが発表され、それにふさわしく空は青々と晴れ渡り、綿をちぎったような雲がふわふわ浮かんでいた。梅雨時はどこかくすんで見えた中庭の木々は、今や猛々しいほどの生命力をみなぎらせている。
 あと数日後に夏休みを控え、暑さは日毎に増している気がする。時折吹く風は弱く、額には早くも汗がにじんでいたので、タオルを取り出し拭った。ついでにハンドミラーを出して自分の顔を確認すると、そこに口元の緩んだ女の子が写っていた。慌てて両手で頬を挟み、口元を引き締める。
 昨日、野球部は夏の大会初戦だった。対戦相手は米門西高校。今後の課題は残るものの、5回コールド勝ちでまずは貴重な白星を挙げた。私は部活のため見に行けなかったので、詳しい内容は応援に行った友達から聞かされた。
 校内は、帰宅する生徒や、午後の部活のためお昼を摂る生徒たちの喧騒で溢れていた。近くに純さんがいないか、キョロキョロとあたりを見回してみる。
 付き合いはじめたからといって、今はお互い部活に忙しく、ましてや純さんにとっては最後の大会なので、頻繁に会ったりメールのやりとりができるわけではない。でも、せっかく付き合っているのに何もないのはさすがに淋しいので、こうやって隙間の時間を見つけては、できるだけ会うようにしていた。もちろん、部活に支障を来さない程度に。だから今日は、貴重な逢瀬といえる。
 それからしばらく待っていると、

「悪ぃ、遅くなった」

 制服姿の純さんが小走りでこちらに駆け寄り、どかりとベンチに腰を下ろす。

「私も今来たところです」

 このやりとり、なんだかカップルっぽいぞと、心が密かに浮き足立つ。
 純さんの顔を見ただけで、自然と笑顔が溢れた。純さん全体がなんだか輝いて見えたのは、きっと眩しく輝く太陽のせいだけではないだろう。

「それより時間は大丈夫ですか?」
「マッハで昼メシ食ってきたから余裕」
「え、昼ごはんもう食べたんですか?」
「おう」

 私は、しまった、と思いながら膝の上のお弁当を見下ろした。

「私、まだなんですけど……」

 純さんはどうってことなさそうに、

「授業が午前中までだから、弁当じゃなくて食堂で食うんだよ。なまえは気にせず食えよ」
「えー……」

 それならそう言ってくださいよ、という言葉をぐっと飲み込む。

「んだよ」
「……なんでもないです」

 私は、「カップルで仲睦まじくお弁当を食べる」という図を想像していただけに、女の私だけ食べるのはどこかマヌケな気がした。理想通りというのはなかなかにハードルが高いものなのだと、心の中でため息をつく。けれど、忙しい時期に会えるだけ幸せじゃないかと思い直し、私は渋々お弁当箱を開けた。
 純さんは身を乗り出して、

「おっ、うまそうだな」
「はい」

 お弁当のおかずはおひたし、煮物、鮭の切り身、卵焼きで和食中心のため全体の色目は渋い。

「哲の弁当のミニ版って感じだな」
「哲ちゃんの方はごはんの量が半端ないですからね。――じゃあいただきます」
「こうクソ暑いと午後練でメシ戻ってきそうだな」
「ちょっ、今から食べるのにそんなこと言わないでくださいよー」

 嘆く私を見て、純さんは意地悪く笑った。
 少し食べてから私は一旦箸を置き、

「初戦お疲れ様でした。DVDでだけど、ばっちり観ましたよ」
「あー、降谷はストライク入らないわ、沢村は力みすきだわで立ち上がりは散々だったけど、最初はあんなもんだろ。蓋開けてみりゃ5回コールドだし」
「今後の試合でどれだけ成長するかですね」
「おっ、監督みてぇなこと言うじゃねぇか」

 へへ、と照れ笑いを浮かべてから、居ずまいを正す。

「哲ちゃんも純さんもガンガン打っててかっこよかったです」
「まぁ、初戦だからな。次からはそういうわけにはいかねぇよ。浮かれてるヒマなんてねぇ」
「これから、ですもんね」
「ああ……」

 照れながらもいつになく真面目な純さんの声色に、私は頷いた。
 そうだ、まだこれは長い長い戦いのほんの序章に過ぎない。これから、もっと過酷な試合が待ち受けているのだから。
 それからお互いの近況を報告しあったあと、しばらく無言が続いた。
 切り取ったような不自然な時間の空白。
 私が食べているため、純さんは手持ち無沙汰になったのか、持って来た水筒を傾けお茶を飲んでいる。私たちの間の空気を、校内の穏やかな喧騒が埋める。
 忙しい合間を縫って会っているにもかかわらず、いざこうして顔を合わせると会話が見つからない。会う前はこれも話そう、あれも話そうと抱えきれないほど話題があるのに、今はどういうわけかそれらがうまく引き出せない。
 ああ、時間がないのに。
 焦る気持ちだけが先走り、依然として話題が浮かばない。
 付き合いはじめたからといって、劇的に関係性が変わるわけじゃないけれど、やはり「好きです」と伝えたあの時から、私たちの間の何かが確実に変わったのだと思う。
 純さんは純さんで、宙を睨んだり、手を組んでみたり、頭を掻いてみたりでなんだか態度に落ち着きがない。けれど、それがはたして私と同じ気持ちなのかはわからない。
 困り果てた私はとりあえず、目の前ものを話題にした。

「おかず、何か食べますか?」
「いいのか?」

 はっとして純さんがこちらを向く。

「なんでもいいですよ」
「あー、迷うな。どれも美味そう。んー……、じゃあ卵焼きで」
「はい」

 と、私は卵焼きに箸を伸ばしかけて、止めた。ここは純さんに手でつまんでもらうべきか、それとも――

「あー!!」

 その時急に耳元で大声がして、顔を上げた。すると目の前には、一年生の沢村くん、降谷くん、それに小湊さんの弟、春市くんがそれぞれ驚いた顔で立っていた。

「ヒゲ先輩となまえ先輩!」
「くぉら、沢村ー! なんで同じ部活の俺がヒゲ先輩でこいつは名前なんだよ!」
「失礼しやした! スピッツ先輩!」
「オラ、そんなにしごいてほしいか、あ? 午後練覚悟しとけ?!」

 先ほどまで借りてきた猫のようだった純さんが、いつものスピッツ節全開の威勢の良さを取り戻したので思わず笑ってしまった。

「なんだよ? なまえ」
「いえ、なんでも」

 そんな私たちを沢村くんは目を丸くして見ていたけれど、すぐにまた声を上げる。

「てか、なんでなまえ先輩はヒゲ先輩と一緒にいるんですか? ……はっ! もしや何か弱味を握られて脅されてるとか……」
「弱味……」

 感情の起伏が少ない降谷くんの表情が珍しく動く。

「バカヤロー! んなわけねぇだろ!」
「そうだよ栄純くん。これ以上突っ込んだら野暮だよ」

 春市くんが横からやんわりたしなめる。春市くんは小湊さんより柔らかい雰囲気を纏っているけれど、何せあの彼の弟なので油断はできない。いい子だとは思うのだけれど、いかんせん長く伸ばした前髪のせいで表情がわかりづらいのだ。
 しばらく眉間にシワを寄せていた沢村くんだったが、そこでようやく悟ったのか、パンと手を叩いた。

「はっ! わかったぞ春っち!」
「栄純くんって鈍いよね」
「なぁんだ、そういうことだったのかー!」
「『そういうこと』……?」

 降谷くんが不思議そうに小首を傾げる。
 沢村くんは鼻白んだ様子で、

「わかってねぇな、お前。だから男女のあれやこれだよ」
「あれやこれ」
「だーっ! 鈍いぞ降谷! お前、怪物とか騒がれてるようだけどな、そんな鈍い怪物いねぇぞ!!」
「意味わかんない」
「お前なんか怪物くんで十分だー! いや、怪物くんにも失礼だ! だっはっはっ!」
「…………。別に怪物じゃないし」
「じゃあなんだよ」
「……白くま?」
「もっと意味わかんねー!!」

 たまりかねてガーッと頭を掻きむしる沢村くんと、表情ひとつ変えずにそれを見つめる降谷くん。この天然ボケと絶妙なツッコミにどこか既視感を覚え、しばらく頭を巡らせると、ふいに兄と純さんの顔が浮かんだ。どの学年にもこういうコンビはいるものだな、と胸の内で納得する。
 それからしばらく沈黙したのち、ようやく降谷くんがポンと手を打った。まるでおじいさんのテンポのようだ。

「カップル……?」
「遅せぇー!!」
「やっと気づいたの?」

 降谷くんのあまりの鈍感さに嘆く二人。
 それなりに公然の事実だったものの、いざ面と向かって言葉にされるとさすがに照れずにはいられなかった。純さんも同じ気持ちだったのか、その顔が徐々に朱に染まりはじめる。

「あれ……ヒゲ先輩、もしかして照れてるんスか? そうなんスか?」
「うっ、うっせぇぞ沢村ぁ!」
「うぷぷ、顔が春っちみたいッスよ」
「先輩、タコみたい……」
「オラァ! てめぇらとっととグラウンド戻れ! 俺より遅れたら容赦しねぇぞ!!」

 もはや噛みつきそうな勢いの純さんに恐れをなしたのか、沢村くんたちは蜘蛛の子を散らすように駆け出した。
 それから純さんは苦々しそうな顔で、

「ったくよー、あいつら。先輩をもっと敬えってんだ」
「でも楽しいですね、沢村くんたち」
「まぁ、あいつら一年生は俺らのカンフル剤っつーか、なんつーか。まだまだ頼りねぇけど一応戦力だからな」

 私は頷いて彼らの背中を見送った。まだみんな線は細いけれど、一人一人きちんと監督から背番号を託された選手たちなのだ。

「あ、そういえば」
「ん?」

 私は先ほどのやりとりを思い出し、

「私たち、ちゃんとカップルに見えてるんですね」

 ぽつりと呟くと、純さんはムッとした表情を見せた。

「ったりめーだろ!」

 そう言うやいなやお弁当の中の卵焼きをひょいとつまみ上げ、口の中に放り込む。

「あ……」
「んだよ、食っていいんじゃなかったのか?」
「はい……」

 怪訝な顔で口をもぐもぐさせる純さんを眺めながら、お弁当の「あーん」は叶わなかったなと、残念なような安心したような、そんな複雑な気持ちになった。



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