53. 夢のあとで

 この夏のみんなの涙を、私は一生忘れないだろう――。

 決勝戦終了後、青道の応援席は、試合の熱気が嘘のように静まり返っていた。スタンド全体がまるで死んでしまったみたいだ。悔しそうに顔を歪める人、目頭にハンカチをあてて涙を拭う人、信じられないといった顔で呆然とする人。
 応援のしすぎで喉が熱くひりついていた。

 九回裏、稲実の最期の攻撃。あと、アウト一つ。あと一つで、夢にまで見た甲子園。
 球場全体が次第に熱気を帯びてゆき、異様な興奮に包まれていた。稲実側のスタンドの応援は次第に大きくなり、それに応えるかのようにブラスバンドの演奏が盛大に鳴り響く。スタンドのボルテージは最高潮へと達していった。
 あと一つ。あと一つで青道が甲子園に行ける。
 誰もがそう信じていた。信じたかった。
 ――しかし勝負は、驚くほどあっけない幕引きとなった。
 沢村くんのデッドボールからの、稲実の執念の出塁。四番のヒット、青道のエラーが重なり、試合は振り出しに戻った。そこからじわじわと確実に、流れは稲実の方へと傾いていく。暗雲が立ち込めはじめた予感を振り切るかのように、応援の声はより一層大きくなり、選手達は己を鼓舞していた。
 大丈夫。まだいける。チャンスは必ずくる。
 その直後だった。
 最後の一球、試合を決めた、成宮くんのあの打球。一瞬、スローモーションのようにボールが打ち上がり、大空に吸い込まれた。そしてそれが純さんの伸ばしたグラブの先に落ちた瞬間、すべてが真っ白に霞んだ。息が止まり、胸が詰まった。心臓に直接氷を当てられたみたいに、身体じゅうの温度は下がりはじめ、呼吸は浅く、鼓動が徐々に早く大きくなる。
 そして、目の前の現実を受け止めきれないまま、無情にも突きつけられた、試合終了の合図。
 これで、終わり?本当に?
 信じられなかった。認めたくなかった。
 辛い現実が突き付けられたのに、実はまだゲームは続いていて、勝つチャンスはあるのだとそう思っていたかった。
 けれど、呆然と立ち尽くす選手達の目から次第に涙が溢れはじめた瞬間、これは現実なのだ、青道は負けたのだと、嫌でも実感させられた。三年生は悔しさで涙を滲ませて、二年生達は下を向き、歯を食いしばって耐えている。
 膝をついて泣き崩れ、悔しそうに拳で地面を叩く純さんの前にして、私はただぼうっと見ていることしかできなかった。今までの彼らの努力を思い、ぎゅっと胸が痛んだ。
 嘘のように晴れ渡った青空を仰ぐと、強い陽光は私の目を焼き、夏の空には先程まで見つめていた、泣き崩れたみんなのシルエットがくっきりと浮かんでいた。それを閉じ込めるように目を瞑り、大きく息を吐く。
 集合の合図が出て、青道の選手達はのろのろと整列をはじめていた。そんな中で哲ちゃんだけは、涙を見せず、仲間に優しく声をかけて、整列を促していた。
 きっと泣きたいだろうに。
 両校それぞれグラウンドに整列する。両者全く違う表情で。哲ちゃんが稲実のキャプテンの原田さんと握手をした時、何か言葉を交わしたように見えた。原田さんは一瞬顔を強張らせてから、何か決意したような真剣な表情に変わる。
 私には哲ちゃんが何を言ったかわからなかったけれど、きっと哲ちゃんは最後まで立派に“キャプテン”だったのだろうと思った。

 一球の重みという言葉がある。この日の最後の打球は、哲ちゃんたち三年生にとって、間違いなく一番重かった。哲ちゃんたちの三年間の重みを乗せたボールは、よりにもよって純さんのすぐ近くに落ちてしまった。少しでも手を伸ばせば届く距離に。打球に意思なんてもちろんないけれど、私は稲実の成宮くんの打ったあのボールが憎らしかった。いっそ、あの人のグラブの全く届かない、場外ホームランくらいだったらよかったのに。

 帰りのバスでも、スタンドの雰囲気をそのまま持ち込んだような、どんよりした空気が漂っていた。
 隣に座る将司はじっと押し黙って、窓の外の流れ行く景色を眺めている。
 いつまで経っても枯れない涙のせいで、私のタオルは今や汗と涙でぐっしょりと湿っていたが、それでも構わず涙を拭っていた。下を向いて嗚咽を漏らす私の鼻先に、ふんわりと柔らかな何かが触れる。

「……ん」

 思わず声が漏れ、隣を見ると、将司が無言で私にタオルを差し出していた。

「……ありがと」

 将司の優しさに緩くなった涙腺からまた涙が溢れる。私はそれを封じ込めるように、タオルに顔を埋めた。

 夕方、一足先に帰宅した私たちは哲ちゃんの帰りを待っていた。将司は帰るなり、いつものようにランニングをするため家を出ていく。
 母と私は台所で夕飯の支度をしていた。私たちは試合の話題を一切せず、無言でお互い手を動かしていた。昨日から、青道の優勝祝いにとごちそうの下ごしらえをしていたため、おかずの品数はいつもより多く内容も豪華だ。しかし負けた今となっては、その役割も失ってしまった。

「唐揚げ、ちょっと多すぎたかしら」

 母がぽつりと口にする。
 私からの返事を期待するでもなく、からりときつね色に揚がった唐揚げを、黙々とバットの上に乗せていく。台所は油の匂いで充満していて、少し息が詰まった。
 私はバットの上の唐揚げを大皿に盛り付けながら、

「寮でもごちそう出てるかもね。でも、私も将司もいっぱい食べるから」

 努めて明るく言ったつもりだったけれど、それはどこか空々しく響いた。
 それからすぐ、哲ちゃんは帰宅した。
 ダイニングテーブルには、母が腕によりをかけた料理たちが所狭しと並んでいる。冷蔵庫にはケーキも買ってあった。
 シャワーを終えた哲ちゃんを見計らって、家族がのろのろと食卓につく。隣の哲ちゃんの顔を盗み見ると、シャワーで紅潮した頬でわかりにくかったけれど、きりりとした目の縁は痛々しいほど赤い。
 泣いたんだ――。
 ぎゅっと唇を噛み締め、目の前の茶碗を見つめる。私はこれまで哲ちゃんが泣いたところを一度も見た事がない。球場では毅然とした“キャプテン”だったから、きっと帰りのバスで人知れず泣いたのだろう。
 哲ちゃんはすっと居ずまいを正し、私たち家族を見渡した。

「今まで応援してくれて、本当にありがとうございました」

 膝の上でぐっと拳を握りこみ、深く頭を下げる。その目は凛としていたが、瞼を閉じればたやすく涙が溢れそうなほど、深い色の瞳はしっとりと濡れていた。

「哲也。三年間、本当によくがんばったな。いい試合だった」

 いつもは無口な父が、噛みしめるように言った。母も目頭を押さえてうんうんと頷いている。
 私は畳み掛けるように促した。

「哲ちゃん。今日はお疲れ様。お腹空いたでしょ。ごはんいっぱいあるから食べてね」

 哲ちゃんは小さく頷いて、箸を取る。けれどその瞳はどこかぼんやりしていて、意識は別の所にあるようだった。
 いただきます、と将司が言って食事がはじまる。こんなに複雑な気持ちの夜ごはんは初めてだ。
 私は機械的にポテトサラダを口に運びながら、その頭の中では今も、昼間のブラスバンドの演奏がいつまでも鳴り響いていた。

 翌朝、部活へ行く準備をしていたら、テレビのニュースで昨日の試合の結果が流れていた。稲実の国友監督、原田キャプテンのインタビューが映し出され、続いて片岡監督に切り替わる。
 記者からの「今回の試合の敗因は?」という質問に、監督は苦い表情を浮かべながらも臆することなく堂々と応えていた。
 地方大会の中継は、地方局でしか放送されないので、全国に哲ちゃんたちの努力はもちろん伝わるはずもない。結果が全て。あんなに努力をしている人たちが、みんなに知られずに終わるかと思うと悔しかった。しかし、全国にはそういう人たちがたくさんたくさんいることも知っている。
 テレビを消すと、暗闇に浮かぶ自分の冴えない顔が沈んでいた。
 そっと二階の様子を伺う。いつもは朝早く起きる哲ちゃんが、今日は珍しくまだ起きてこなかった。私は朝練のため、エナメルバッグを肩にかけ玄関を出る。気温が上がる前の、朝の涼しい空気はどこか白々しかった。
 庭の物干しには、青道のユニフォームが風で寂しそうに揺れていて、嫌でも昨日のことを思い出させた。持ち主の失った、背番号「3」。この先、この番号を背負ってこのユニフォームを着ることは、もうないのだ。

 ソフト部のグラウンドへ向かう途中、倉持くんに会った。私はかける言葉がなくて、ぎこちなく笑うことしかできなかった。
 倉持くんは、だるそうにジャージのポケットに手を突っ込んで言った。

「三年生はほとんど帰省したぜ。増子さんいねーし、沢村は大人しいしでほんと調子狂うぜ」
「そっか。……倉持くんは帰省しないの?」
「俺はいーんだよ。なんつーか、そんな気分じゃねぇ」

 私は頷き、「お疲れさま」とだけ言って部活へ向かった。
 純さんは帰省している――。
 正直言うと、心のどこかでほっとしている自分がいた。今会ったとしても、私の中には、傷ついた純さんにかけられる言葉は何一つとして持ち合わせていなかったから。

 帰宅してから、純さんへ短いメールを打った。
 “試合お疲れ様でした。落ち着いたら、また連絡ください”
 何か労わるような言葉をかけるべきか悩んだが、メールでは伝わらないと思った。
 送信ボタンを押し、携帯をパチンと閉じて、深く息を吐く。メールを打つだけで、自分が相当緊張していたことがわかった。
 純さんから連絡が来たのは、それから一週間後の事だった。

 夕方、寮の近くで落ち合った。寮まで続く土手に挟まれた細い歩道を歩いていると、遠くから見慣れたシルエットが近づいてきた。空は次第に茜色から濃い藍色へと染まりはじめていたが、離れた距離でもまだ十分顔を識別できる明るさだ。
 純さんが胸の位置で軽く手を挙げたので、小走りで駆け寄る。
 純さんの表情は固く目はどこか虚ろで、私は無理やり口角を上げた。

「お久しぶりです」
「……しばらく連絡しねぇで悪かったな」

 いえ、と呟いて、咄嗟に純さんの隣に並び歩き出す。この期に及んで、私はまだ純さんの顔をまっすぐ見る事ができなかった。
 純さんは、こっち、と視線をやりながら青々しい葉を揺らす土手を下っていった。生温い風が、雑草の青くささをはらんで頬をかすめていく。私たちは並んで土手に腰を下ろした。
 青道のグラウンドからは離れた所に座ったが、練習のかけ声だけはここからでも十分聞こえてきた。ナイターの明かりが灯りはじめ、隣の純さんを盗み見ると、逆光のその顔は複雑そうな色を浮かべていて、数日前より少し痩せて見えた。
 ぎゅっと、あの日の痛みが胸に蘇る。かける言葉がなくグラウンドの方をしばらくぼうっと眺めていた。この数日間、純さんは、他の三年生たちは、一体どんな気持ちで過ごしたのだろう。
 そんな事を考えいると、ややあって、純さんは絞り出すように口を開いた。

「……今でも時々、夢じゃねぇかって思うんだ。あの時の事」

 私は静かに純さんの方を向いた。

「成宮の打球が勢い良く飛んだとこまでは覚えてる。でもそっから先は……。球、獲れなかったのに、心のどっかであれはちゃんと獲ったんだって思いたい自分がいる。本当は届かなかったのに……。あん時……、あん時の記憶が頭ん中で何回も何回も再生されんだ」

 瞳に滲む悲痛な色。目の下は濃い陰影を作り、ここ数日の疲労を物語っていた。膝の上で組まれた両手は、小刻みに震えている。
 私はあの夏の日の輪郭をなぞる。まだ真新しいそれは、毒々しいまでの鮮やかさで、あの日の温度、匂い、音、全てを伴って、まだ乾いていない傷口を深くえぐった。
 純さん、と言葉にしたつもりが、喉の奥で重くでつかえた。代わりに目の前の震える両手をぎゅっと握る。まだ気温は高く蒸し暑いのに、その手は作り物のように乾いていて温度が感じられなかった。

「あん時、あの球獲れてたら、今頃……」

 もう戻る事のない夏に、ありもしない「もしも」の夢を見る。これから先、幾度となく巡る夏に、純さんは一体いつまで苦しめられるのだろう。いつかこの檻から解放される時が来るのだろうか。

「わかってる、ちゃんとわかってんだ。今更どうしょうもできねぇ事くらい。でも考えちまう。もっと練習してたら、もっとうまく動けてたらって……」

 純さんのせいじゃない。チームの誰もが、そんな風には思っていない。きっと今頃、みんな己の無力さに打ちひしがれている。
 けれど私がそうじゃないと否定したところで、結果が覆るわけでもなく、ただの上部だけの薄っぺらい言葉が吐き出されるだけだ。私は、一つ一つの言葉を丁寧に選び、やっとのことで口にした。

「純さんの、みんなのがんばりは、ちゃんとこの胸に焼き付けました。勝てなかったけど……私はすごく、誇らしかった」

 純さんは小さく目を伏せた。

「……ありがとな、なまえ」

 握った手に力を込めると、純さんのそれは先ほどよりほんの少しだけ、温かくなった気がした。
 純さんはグラウンドへ目をやり、泣き笑いのような複雑な顔をした。

「俺らは負けてもう引退だけど、あいつらには来年もあんだよな。……くっそ」

 羨ましい、という言葉は憚られたのか、純さんはそれ以上口にはしなかった。
 時間は残酷までに、誰しも平等に与えられている。三年生が引退しようと、残された一、二年生たちには関係なく例年通り新チームは始動していく。今までも、そしてこれからも。
 純さんは乱暴に頭を掻いた。

「だーっ、くそっ。情けねぇとこ見せちまった。なんかすっげーかっこ悪りぃな……俺」

 私は首を振った。

「弱いとこ、嫌かもしれないけど、どんどん見せてください。私じゃ頼りないかもしれないけど、頼ってください」

 鼻の奥がツンと熱くなったけれど、我慢してめいいっぱいの笑顔を作った。

「無理に前に進まなくていいんです。今は辛いかもしれないけど、苦しめるだけ苦しんで、いっぱいいっぱいになったらまた私を呼んでください。私はいつでも、待ってますから」

 一瞬、純さんの鋭い三白眼が濡れた気がしたけれど、それを確認する前に大きな手がすっと伸びて私の頭は下を向かされた。いつかそうしてもらった時より優しく、慈しむような丁寧な手つき。

「いっちょまえに生意気な事言いやがって……。調子狂うぜ、全く」

 マメだらけの手はガサガサしていて、時々、髪の毛に引っかかったのに、それはとても心地良く私は自然と瞼を落としていた。
 いつか純さんが、あの日を笑顔で振り返ることができますように――。まだ弱々しく瞬きはじめた星に、祈った。



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