50. 誇り

 いよいよ、夏の初戦を明日に控えていた。
 そして今日も今日とて、俺たちは練習が終わったあとも自主練を続けていた。本当は明日に向けて体を休めた方が良いのだが、気分が高揚し、常に何かしていなければ落ち着かないというのが、正直なところだろう。
 まだ日は落ちたばかりで、空は薄墨をかけたような闇が広がっている。バットを振るごとに汗は噴き出るものの、昼間の暑さは鳴りを潜めていたため、夜風が心地良く肌を滑っていった。
 寮の裏手では現在、俺と純と前園、少し離れた所で亮介と御幸と倉持が、一心不乱に素振りをしている。

「純さんなんですか? その顔」

 ふと、前園がスイングする手を止め、怪訝そうな顔で純を見た。

「あ? 顔?」
「だからその締まりのない顔! どないしたんですか? 純さんらしゅうない」
「なに言ってんだ。俺ぁいつも通りだろーが!」
「ほぉ、いつもそんなほやーっとした顔しとるんですか?」
「ほやーっとした顔ってなんだよ!!」

 純がわめきちらしたその時、会話を聞いた御幸がニヤニヤしながらこちらを振り向いた。

「まぁまぁ許してやれ、ゾノ。今、純さんは幸せ真っ只中なんだから」
「幸せ?」
「オラ御幸ィ!! なに適当なこと抜かしてんだ!」
「えー? 隠さなくてもいいじゃないスか。いずれバレることなんだし」
「なんスか純さん!! 俺に言えへんようなことなんですか!」
「うるせぇ! なんだっていいだろーが!」
「……そうそう、純。なまえちゃんと付き合うことになったんだってね」

 いつの間にか亮介が、笑みを浮かべながらこちらやって来た。

「なんでお前が知ってんだよ?」
「だって俺、ずっとなまえちゃんの恋愛相談に乗ってたし」
「恋愛相談だぁ?! 聞いてねぇぞ」
「そんなの言ったら意味ないじゃん」

 そうぬけぬけと話す亮介に、純は慌てて詰め寄った。

「相談ってそれいつからだ? つーか亮介は知ってたのかよ」
「なにを?」
「だから……その……あいつの気持ち」
「まぁね。いつからっていうのは俺の口からは言えない。なまえちゃんに聞きなよ」
「ヒャハハハ! 純さん必死ッスね」

 高笑いする倉持に純は一睨みきかせたあと、回り込んで腕で首を絞めはじめた。倉持から悲痛な悲鳴が漏れたが、誰もが意地悪い笑みを浮かべながらその光景を傍観している。単なる純の八つ当たりだ。
 それから前園はこほんと一つ咳払いをして、

「まぁ、兄貴分を取られたようでちょっと淋しいけど、祝福しますわ。なまえは俺の見込んだ女やし」
「ああ? あいつは俺の見込んだ女なんだよ」
「純さーん、それは『俺の見初めた女』でしょ?」

 御幸が横から茶々を入れると、純はギンと睨みつけて御幸を追いかけはじめた。当初の自主練の目的であった素振りからは完全に逸脱しているが、ランニングにはなるだろう。

「純の奴、ムキになりすぎ。小学生じゃあるまいし」
「まったくだ」

 俺は亮介の言葉に、深く頷いた。

「つーか哲さんは気づいてたんですか? 二人のこと」

 倉持がバットの柄に顎を乗せ、ニッと笑いながら探るように俺を見る。

「さぁな」
「またまたー。哲さん意外に鋭いとこあるからなぁ」

 俺たちの会話が聞こえたのか、純は「哲がなんだよ」と睨みながらこちらに近づいて来た。先ほどの技がきいたのか、倉持は俺との話を切り上げ、そそくさと再び素振りをはじめる。
 その後、素振りを終えた一同は、皆それぞれの部屋へと引き返していったが、純だけが俺の隣で最後まで素振りをしていた。
 前園に指摘されるまで締まりのない表情で、やや腑抜けたスイングの純だったが、その後は本来の力強いそれに戻っている。
 皆、大会に向けて覚悟を決めたのか、良い感じに肩の力が抜けているように感じた。

「――なぁ」
「む?」

 純はふと、素振りをする手を止めた。その首元には滝のような汗が流れている。それを首にかけていたタオルで乱暴に拭い、ふぅと息をついた。
 俺も一旦手を止め、バットを建物の壁に立てかける。

「なんか早かったなぁ、今日まで」
「死に物狂いで練習していたからな。目の前のことにただ必死だった」
「合宿だってよぉ、早く終われ! 二度とやりたくねぇ! って思うのに、終わってみると寂しいもんだよな」
「……ああ」

 俺たちは寮に背を向け、土手の向こう側――グラウンドを見つめていた。俺たちの戦場であり、家であり、また友であったグラウンド。

「――甲子園からの景色って、どんなだろうな」

 純はグラウンドに目を向けたままぽつりと呟いた。

「あそこには何があんだろうな」

 それは、実際見た者しかわからない。あの場所へ行き、グラウンドに立ち、興奮と感動に満ち満ちたあの空気を吸った者にしかわからない何かが、きっとある。
 俺はしばらくグラウンドの方を見つめていたが、やがてかぶりを振った。

「違うぞ、純。甲子園はあくまで通過点に過ぎない。俺たちが目指すのは、その先の景色だ」

 純ははっとした顔でこちらを見る。

「全国制覇。それが俺たちの目標だ。そして、片岡監督を日本一の監督にする」
「バカヤロ……、わかってるっつーの」

 純は照れくさそうにタオルで顔の汗を拭ったあと、俺の肩をどついた。

「本当、頼もしいぜ……お前は」


 帰り道、青道を背にして自転車を漕ぎながら帰途につく俺は、ふと昔のことを思い出していた。
 幼い頃、テレビで観た高校野球中継。球場全体が一つの生き物のようにどよめき、興奮し、感動する、そんな特別な空気がそこにはあった。大舞台にひるむことなく躍動する選手たちは、俺の、俺たちの憧れだった。そしてそれは、けっしてテレビの中だけの絵空事ではなかった。
 近所の青道高校。幼い俺にとってそこは、あの甲子園という夢舞台へ地続きで繋がる場所だったのだ。あそこへ入れば、必ず甲子園へ続く道が拓けるはずだと、いつからか心に決めていた。
 己を磨くことと、甲子園へ行くことは必ずしも等しいわけではない。だが、これほどまでに己を高めてくれる目標はないだろう。
 ペダルを漕ぎだす力を強めると、湿気を帯びた涼しい夜風が頬をかすめていった。自転車のカゴに入れたエナメルバッグが、ガタガタと揺れる。ペダルを更に踏み込むと、通い慣れた通学路、それを取り巻く様々な景色を猛スピードで置き去りにしていった。
 純たちのような寮生活を羨ましいとも思うが、通いはこうして自分自身とじっくり向き合う時間が持てる。
 俺は、今日の練習の時にやった円陣を思い返していた。耳の奥、それが今現在の出来事であるかのように鮮やかに蘇る。

 ――俺たちは誰だ

 俺は、俺自身に問う。俺は誰だ。

 ――誰よりも汗を流したのは
 ――誰よりも涙を流したのは
 ――誰よりも野球を愛しているのは

 今なら素直に言える。それは俺たちなのだと、自信を持って言える。

 ――戦う準備はできているか

「……我が校の誇りを胸に、狙うは全国制覇のみ」

 無意識に自分の口から言葉が漏れていた。
 一番、すなわち優勝を勝ち取るという意味を示す、青空へ高々と突き上げられる指。それは、強い輝きを放ちながら、まだ見ぬその先の景色を示しているように思えるのだ。
 俺は、この最後の大会がどのような結果になろうとも、青道へ来たことだけは後悔しないだろう。きっと、この先もずっと。




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