04. 小さな祈り

 伊佐敷さんと遭遇して帰ってきた日の夜、私はごはんも食べずそのまま自室のベッドへ倒れこんだ。マットレスの厚いタイプなら優しく私の体を受け止めてくれただろうが、悲しいかなただのパイプベッドなので、ギシっという悲痛な音しかしない。

 うつぶせの大の字で寝転んだまま本日の失態を振り返る。いつからばれていたんだろう。自分では、倉庫の陰からひっそりと見ているつもりだった。現に哲ちゃんは何も言ってこないから、哲ちゃんにはばれていないのだろう。きっと伊佐敷さんが何かの拍子に気づいただけだ。まぁ、他にも気づいた人がいるかもしれないが。

「なまえー!早くお風呂に入りなさーい!」
「はーい!」

 階下からする母の声に、私は乱暴に返事をする。
 私が野球部を熱心に見学していることは、まだ哲ちゃんには話していなかった。初めは別に黙っているつもりなんてなくて、少し言い出しにくかっただけだ。けれど、受験勉強が本格的に始まってからは、勉強の妨げになるなどと言われそうで更に切り出しづらくなってしまったのだ。
 私は体を反転して天井と向き合った。
 おじいちゃんの代に建てられた私の家は、とても広くて温かみがあるが、あちこちにガタがきていた。古い天井の木目は複雑な模様をしていて、なぜか今の私の心にあるものが輪郭をなし、それが絵になって浮かび上がるから不思議だ。
 今はベッドの真上の木目が、睨みをきかせた伊佐敷さんの顔に見える。子供の頃はあの部分がおばけに見えたのに、今はどう見たってあの人の顔としか思えない。
 私はいたたまれなくなり、再びうつぶせになった。

 野球強豪校では、まれに人気選手を熱狂的に追いかけるファンがいるらしい。私もきっとその類いだと思われたのだろう。伊佐敷さんのあの目は、やっぱり怪しい者を見る目付きだった。私は純粋に応援する気持ちで見学していたが、傍から見ると、足繁く通いつめる得体の知れない女だ。急に自分のしていたことが恥ずかしくなってくる。仮に私が哲ちゃんの妹とわかっても、それはそれでブラコン認定だ。悪い印象は避けられない。どうせ兄のチームメイト、所詮は他人だと言い聞かせる。
 けれどその時、机の上の青道高校の入学案内が目について、私の悩みはまたふりだしに戻った。「はぁ」とついたため息は、無常にも全て枕に吸い込まれてしまう。
 天井の伊佐敷さんは、なおも私を責めるように睨み続けていた。


「おはよう」
「…………」

 次の日の朝、食卓についた兄は静かに目を閉じ、微動だにせず座っていた。拳はぐっと握られ、両膝に行儀よく置かれている。
 母と将司は特に気にも留めず各々の用事に没頭していた。いつものことだ。そして私はいつものごとくそれが無視できない。そっと向かいの席に腰をおろした。
 どこか厳粛な表情の兄を見つめていると、この人は若くして悟りを開いたのではないかと思ってしまう。しばらく頬杖をついて観察していると、突然兄はカッと目を見開き、現実世界に舞い戻った。

「……いただきます」

 丁寧に合掌してから煮物に箸をつけ始める。

「お、おはよう」
「む? ああ、おはよう」

 今はじめて私の存在に気づいたようだった。兄の集中力は昔から並外れている。

「いつもの精神統一? 今日は何かあるの?」
「ああ、ちょっとな……」

 兄にしては珍しく歯切れの悪い返事だった。私も深くは追及せずに、ごはんをよそうため席を立った。


 その日の夜、私は塾の帰り、哲ちゃんは部活終わりでの遅い夕食を、二人一緒にとっているところだった。
 朝から兄の様子が少しおかしかったが、今は朝とは違う意味でのそれだった。兄はどこかうわの空で、サラダを口に運んでいる。母が空になった兄の茶碗をすっと下げた。
 兄はおぼつかない手で、近くのソースを引き寄せる。手元のソースのコントロールが明らかにおかしい。

「哲ちゃん! かけすぎストップ!」
「む? ……はっ!」

 哀れこんがりキツネ色のコロッケは、八割がたソースで黒く湿っていた。

「…………」
「どうしたの? 今日なんかあった?」

 本日二度目の疑問を兄にぶつけてみる。兄は箸をとめて目を伏せた。そして、静かに言葉を紡いだ。

「……今日の練習試合で、初めてホームランを打った」

 母のご飯をよそう手が止まる。

「哲也! あんたなんでそれを早く言わないの! 知ってたらお赤飯炊いたのに。あんたは昔からいつもいつも……」

 母のまくしたてるような小言が始まった。けれど、文句を言いつつやっぱりうれしそうだ。ごはんをモリモリよそっている。
 ただあれは盛り過ぎだと思いながら、私は兄の方へ視線を向けた。

「おめでとう。やったね! 初ホームラン!」
「ああ。打った後、みんなが自分の事のように喜んでくれてな。それが嬉しかった」

 穏やかな口調の中に、少しの高揚が見え隠れする。聞けば何でも答えてくれるけれど、自分からはあまり話さない性格だから、よほどうれしかったんだろう。
 母から茶碗を受け取った兄は、特盛りのご飯にギョっとしていた。

「次の練習試合には、伊佐敷や増子もスタメンで起用されると思うぞ」
「わ! すごい!」

 私はすぐさま天井の伊佐敷さんを思い出し、苦い表情になるのを慌てて食い止めた。
 哲ちゃんたち一年生たちが、次々に頭角を現してきたことが単純にうれしかった。これまで積み重ねてきた努力の結果だろう。

「そっか。みんな練習の成果が出てきたんだね。ポジションも固まってきたんだっけ?哲ちゃんがファースト、小湊さんがセカンド、増子さんがサードで、伊佐敷さんと丹波さんがピッチャー……」

 兄がよく同級生の名前を出すので、私もすっかり覚えてしまった。

「ん? ……ああ、伊佐敷は最近外野に転向したんだ」
「え?」

 味噌汁のお椀を取ろうとした私の手が止まった。

「なんで?」
「ずっとノーコンが直らなくてな。新チーム発足後に監督たちから頼まれたらしい」

 部員の多い強豪校ではよくあることだと片付けなかったのは、兄が伊佐敷さんのこれまでの努力を知っているからだろう。

「それ、は、伊佐敷さんは納得してるのかな……?」
「……俺もあいつの本当の気持ちはわからない。だが、あいつはそれでも前を向いて練習しているのはわかる」

 兄は両手に包み込んだ湯呑みをじっと見つめていた。まるでその水面に伊佐敷さんの姿を映すかのように。

「そっか……」

 返す言葉が見つからずに、私もただその水面に見入っていた。

 しばらくして、哲ちゃんはいつものようにバットを持って家を出た。今日のホームランの感覚を忘れないように、兄は普段に増して素振りに精を出すのだろう。最近は、将司もやっと自分の練習のペースを掴んだのか、無理に兄の素振りについて行かなくなった。
 けれど今日は、いつもは将司のストッパーだった自分が、自然とバットを掴んで兄のあとを追っていた。夜道を歩きながら、最近振ってやれなくてごめんと自分のバットに謝る。

 家の近所のマンションの駐車場。その敷地は広く、遅い時間なら比較的車の出入りは少ない。兄はいつもここでバットを振っている。夏も終わりに近づいているというのに、東京の夜はまだまだ蒸し暑い。でも、今日はとても星がきれいな夜だった。
 一人黙々と素振りをする兄の後姿は、どこか職人じみて見える。そういえば少し背が伸びたような気がした。

「珍しいな」
「受験勉強で体なまってるしね。少しだけ付き合う」

 何かを振り払うかのように、しばらくの間二人無言でバットを振り続ける。部活を引退してからは、あまり体を動かしていなかったのですぐに息が上がってきた。私は一旦素振りを中断し、力みのないフォームで鋭くバットを振る兄を見る。今日のホームランはこれらの積み重ねだ。

 静かに目を閉じ想像する。真夏の、灼けつくように暑い甲子園球場。そこに立つ、青と白のユニフォームの青道ナイン。キャスティングは、哲ちゃんたちが三年生という舞台を想定する。ファーストに哲ちゃん、セカンドに小湊さん、サードに増子さん。私は細かく選手の一人一人がわかるわけではないので、他のポジションは若干のっぺらぼうだ。まぁ、これはあくまで想像。丹波さんをエースでシュミレーションしてみる。気は弱いけれど、あのカーブがあれば大丈夫だろう。外野から吠える伊佐敷さんも加えよう。大丈夫、あれだけの肩をしているんだからきっと外野で大成する。強力打線で名門復活だ。
 そっと目を開ける。よし、イメージできた。

「手が止まっているぞ。……何ニヤニヤしているんだ?」

 哲ちゃんが不思議そうに私の方を見る。

「イメージしてた」
「何のだ?」
「これが現実になったら言うね」

 私は夜空にキラキラ瞬く星を仰ぐ。一年か二年後には、あの星のように哲ちゃんたちが甲子園で輝きますように。



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