03. 犬も歩けば

 頭に被ったバスタオルは汗で湿っていた。さっきまで暑かったのに、今はそれが冷えて妙に肌寒く感じる。私は立ち上がって両翼を見渡し、真っ青な空を振り仰いだ。
 馬鹿みたいに晴れ渡った七月の快晴の空は、今の私たちの気持ちには似つかわしくない。いっそ選手たちの涙をきれいに洗い流してくれる雨でも降ったらいいのに。こんなに日差しが照りつけるから、悔し涙は行き場を失ってただ蒸発してしまう。

『今年も届きませんでした青道高校!積年のライバル、市大三高を前に準々決勝で姿を消します!』

 こんな展開にお似合いの、お決まりのアナウンスが今頃中継で流れているのだろう。
 私は下を向いてメガホンをぎゅっと握りしめた。
 準々決勝、明治神宮球場という大舞台。東京地区には、この舞台に立てない選手はごまんといる。試合が始まる前は「やっぱり神宮は立派だね」とか「ブルーの座席が涼し気だね」などと母と話していたものが、今はどれもむなしく感じる。

 隣に座る母と将司も無言でグラウンドを見つめていた。青道の応援席は静寂の中に少しの嗚咽が入り混じる。元気の塊みたいだったチアリーダーたちは、電池を抜かれたように動きを止めている。吹奏楽部は下を向いて楽器を片付け始めていた。右側のスタンドには、ベンチに入れなかった野球部員たちが大勢座っていた。
 その時ふと、昔家族でここへ応援に行った時のことを思い出した。家の周りには青道生が多かったので、近所総出でよく駆けつけたものだ。
 二軒隣の青道野球部だったお兄ちゃんは野球がとても上手で、小さい頃はよくキャッチボールをしてもらった。けれどそのお兄ちゃんは、スタンドに座ったまま三年間を終えた。子供心に、こんな人でもプレイすることすらできないという事実に衝撃を受けた。
 私は哲ちゃんがいるそちら側を見ることはできない。私は兄ではないから兄の気持ちはわからない。けれど今、兄は試合に負けて夏が終わって、それを心から悔しがることができないことが、きっと胸が灼けるほど悔しいんじゃないだろうか。


 八月。私は部活を引退し、受験に専念するため、夏休みはずっと塾の予定だった。哲ちゃんは、あの負けた試合の次の日から二日間休みが貰えたらしい。けれど私がそれに気付かなかったほど、いつものように学校に行って自主練をしていた。
 野球部はどうやら今、新チームのことでもめているらしい。

「いってきます」

 テキストが入ったトートバックを乱暴にカゴの中へ放り込んで、自転車にまたがった。今日も刺すような日差しが降り注ぐ、何もかもを焦げつかせるような暑さだ。
 塾へ向かう途中に青道のグラウンドが見える。遠くて練習風景なんてまともに見えないのに、私は自転車のブレーキをかけた。自転車を止めたせいで体に当たる風がなくなり、次第に玉のような汗が吹き出る。私はその汗をぬぐうこともせず、しばしそちらに見入っていた。
 ただの蜃気楼なのに、グラウンドからは意思の持った湯気が立ち昇っているように見える。その正体は、悔しさの塊みたいな部員たちがガムシャラに野球へ己をぶつけているせいだろう。

 夏大で負けたあの日から、私の足は無意識にグラウンドから遠のいていた。原因はわかっている。きっと認めたくなかったのだ。まだ暑い、暑い夏が続くのに、この人たちの夏がすでに終わってしまったという現実を。


 塾からの帰り、生温い風が頬をなでる夜道を自転車でのろのろゆく。ジーーという鳴き声は蝉だろうか。こんな遅くまでご苦労なことだ。
 私は視線を前方からやや左側に移す。そんなご苦労な人々がまだあそこにもいた。グラウンドにはまだナイターが付いていた。周りの住宅街は、絵の具で塗りつぶしたように真っ暗だ。ナイターの明かりは、グラウンドをぼぅっと白く浮かび上がらせていて、どこか非現実的なものに映る。まるでこの地上にはあの二面のグラウンドしか存在しないように見えた。
 目の前の凝縮された世界を眺めながら、私は私の現実と向き合う。
 志望校に悩んでいた。
 もちろん希望はある。けれど、それを強く通しきれないのは自分に自信がないからだ。だから、今日は青道のこの夏が終わってしまったという現実だけでも自分に突きつけるため、グラウンドの方向へと自転車をこぎ出した。
 いつもの場所で自転車のスタンドを引いた時、突然ふっとナイターが落ちた。明かりの消えたグラウンドには、まばらに残った部員たちが後片付けをしているようだった。みんな練習着ではなく、私服のジャージを着ている。その集団の中に哲ちゃんの姿を発見した。

「なんだ、もう終わったのか……」

 私がぽつりとひとごちて眺めていると、部員たちがこちらに向かってきたので、慌ててプレハブの陰に見をひそめた。各々バットを持って、談笑しながら寮の方角へ歩き始める。普通に帰るだけだと思うけれど、なんとなく私はその後を尾けた。
 部員たちが向かった先は寮の裏だった。その狭いスペースに集まり、それぞれが素振りを始めた。ピッチャーの人だけ、タオル片手にシャドーピッチングをしている。誰しもが一振り一振り丁寧に、なんとも気持ちの乗ったスイングだった。私は少し離れたところからそれを眺める。

「おい、結城! スイングのキレ増したんじゃねーか?」

 素振りしながら哲ちゃんに話しかけたのは確かレフトの人だ。

「自分ではよく分からないが、身体は以前より軽くなった気がするな」

 哲ちゃんはうれしそうにバットを振る。私は兄が学校でも素振りをしていたなんて知らなかった。

「増子はもっと絞ろうね」
「う、うが……」

 ニコニコ顔で大柄な人に忠告したのは、だぶだぶのズボンをはいていた人だ。さすがにジャージまでは大きくなかった。
 みんなきつい練習に耐えたあと、さらに自主練までしていた。新チームを支える新たな力が芽吹き始めたのだ。その姿をじっと見つめていると、急に目頭が熱くなってきて慌てて上を向く。
 その時背後から、ざりっと地面を踏みしめる足音が聞こえた。暗いなかで目が慣れず懸命に凝らしていると、どうやら一人の人物がこちらに向かってくるようだった。とっさに思わず身構える。
 暗闇にぼんやり浮かんだのは、なんとなく見知ったような背格好だった。ジャージのポケットに両手を突っ込み、脇にバットをはさんで、肩をいからせながら歩いて来る。暗闇の中から徐々にその顔があらわになった。三白眼の鋭い目、不機嫌そうに引き結ばれた口元。
 “伊佐敷さん”だった。
 私は“伊佐敷さん"のことを知っているが、向こうはおそらく私のことは知らないはずだ。急に名乗るのもどうなんだろう。青道に見学に来ていることは哲ちゃんにはまだ言っていない。
 “伊佐敷さん”は私の存在に気付き、とっさに目を見開いた。それからみるみる顔が歪みはじめる。明らかに寮のそばをウロつく不審者を見る目つきだった。
けれど私は断じて選手のストーカーなどではない。これは昔の不良同士のように、睨み合いでも始めた方がいいのだろうかと私は刹那、逡巡する。だが、私はあっさり平和的な選択肢に転んだ。

「こんばんは!」

 部活の時のようにわざとらしく声を張り無害そうな笑顔を作る。先手必勝だ。

「お、おう」

 ふいをつかれた“伊佐敷さん”からは少し戸惑ったような声色がもれた。

「お疲れさまです! まだまだ暑い日が続きますが、練習がんばってください!」
「あぁ、おう……」

 相手は明らかに動揺していた。どうやら不意打ち作戦は成功したらしい。私はフンと鼻を鳴らして来た道を戻り始める。

「オラ! ちょっと待て!」

 背後から鋭い声が浴びせられる。まだ何か用なんだろうか。確かに多少怪しいが、別に敷地に入っているわけではない。手持ちのカードが尽きた私は、恐る恐る振り向いた。
 すると、“伊佐敷さん”は少しきまり悪そうに目を伏せたあと、ためらいがちにこちらを見た。

「……この辺、夜は人通り少なねぇんだから早く帰れよ」
「……あ、は、はい」

 あいかわらず怖い顔だが、優しい言葉をかけてくれたのは意外だった。いや、別に哲ちゃんと仲良くやれているんだから普通にいい人なんだろう。“人は見かけによらぬもの”がジャージを着ている感じだ。

「では失礼します」

 私は踵を返して自転車の方へ向かう。

「けっ、いつもいつもご苦労なこった」

 その時、“伊佐敷さん”のひとり言が自然に耳に入ってきた。私は機械的に足を動かしながら、さっきの“伊佐敷さん”の言葉を頭の中で反芻する。
 いつも、いつも
 脳内で何度再生しても、あの人はそう言っていた。私の歩く速度がどんどん速くなる。徒歩のスピードから徒競走のスピードになった。しまいには風のごとくシャープに腕を振って腿を上げ、全速力で自転車の方へ駆けた。
 そして、救命具を見つけた漂流者のように自転車にすがりついた。水中にいたわけでもないのに、酸素が薄い気がして思いきり空気を吸い込む。肺いっぱいになったところで、頭が正常に働きはじめた。
 いつも、いつも
 さっき気づいた。誰にも知られていないと思っていた野球部の見学が、“伊佐敷さん”にはバッチリばれていたことを。



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