05. 重なる宿望

 “狂犬”が、走る走る。白球という獲物を狙って、伊佐敷さんの足は唸りを上げる。
 伊佐敷さんと遭遇してから五日後、もう恥ずかしくて野球部の見学なんて行けないと落ちこんでいた私は、早くも開き直っていた。我ながら図太い神経だと思う。どうしても、気になっていることがあった。
 心持ち見えにくいように、いつもより更に倉庫の陰に隠れて見学する。どのみち、今の必死な伊佐敷さんはそれどころではないだろう。

 ナイターの明かりの下で、伊佐敷さんたちはシートノックを受けていた。伊佐敷さんのポジションは今のところセンターだ。私は白球と伊佐敷さんの足を交互に見つめる。意外に足が速い。
 あの日の哲ちゃんの言葉が、心にこびりついて離れなかった。
 “外野手に転向”
 同じ野球といえど、ポジションが違うだけで役割は大きく異なる。監督が伊佐敷さんへノックを放った。伊佐敷さんは落下点の目測をつけてダッシュする。打球は伸びているのか、詰まっているのか。前に行くのか、後ろへ下がるのか。これが瞬時に判断できなければ、みじめにバンザイするだけだ。確かな状況判断、打球に追いつく脚力。特にセンターは守備範囲が広い。投手と外野手では、求められる能力がまた別なのだ。
 伊佐敷さんは右腕を目いっぱい伸ばして滑りこみ、ギリギリの捕球に成功した。

「うおおおお!」

 豪快に吠えながら、体を大きく捻って送球のタメをつくる。ボールが手元を離れた瞬間、センターラインをまっすぐに切り裂く鋭い返球がキャッチャーミットに収まった。
 私は目を見張った。

「うわ!ドンピシャ……!」

 あの人の肩の強さは知っていたが、驚くべきはその制球力だった。言っちゃ悪いが、投手としてのあの人はかなりのノーコンだった。強豪校の野球部であのコントロールは致命的だ。けれど不思議と外野からの返球はどストライクだった。

「今の動きいいぞ! 伊佐敷!」
「あざっす!」

 あまりスピンのかからない素直な球筋の伊佐敷さんには、野手投げの方が向いていたんだろう。肩は申し分ない。それからバッティングも。監督たちはそこを見込んだのかもしれないなぁと、自分なりの見解でうなずいてみる。

 新チームが始動してからは、一年生も二年生も関係なく、死に物狂いで練習しているといった感じだった。新チームの土台ができるまではかなり厳しい指導が続くらしい。けれど、夏大までは練習についていくだけで精一杯だった一年生が、今は貪欲に監督たちへ己のプレイをアピールしている。哲ちゃんももう間抜けなエラーはほとんどしなくなっていた。背の高いピッチャーの人は前ほどオドオドしなくなったし、大柄の人の体は若干引き締まったようだ。小柄な人は身の丈に合ったズボンを履いて、持ち味の俊敏なプレイをしている。苦い敗戦を経て、チームはめきめきと成長していた。

 私はその勇姿を背にして、夜の闇に紛れるようにそっとその場をあとにした。


 家に帰ってすぐ私は自室に閉じこもった。部屋の電気はつけず勉強机に向かう。デスクライトの煌々とした明かりが、入学案内のパンフレットを照らしていた。
 そっとページをめくって、野球部の練習風景の写真をぼんやり眺める。しばらく見ていると、なぜかそこに写っている選手の一人が四角形の写真の枠を飛び出し、机の上を縦横無尽に駆け回りはじめた。その選手は伊佐敷さんの姿をしている。小さな伊佐敷さんは、体に覚えこませるように何度も白球を追いかけていた。何度も何度も。
 たとえ外野手の素質があるからといって、名門チームですぐに使ってもらえるとは限らない。監督たちの提案を断って、投手として続ける道をあったはずだ。
 あの人は“望まないこと”に折り合いをつけてがんばっている。私は“望むこと”がちゃんと叶う境遇にいる。
 “第一志望 青道高校”
 私は今まで配られてきた進路調査書に、ずっとこう書き続けていた。自信なさげな弱い筆圧で。
 別に成績が危ういわけではない。青道は特に進学校というわけではないので、このままの成績を維持すれば、間違いなく合格できるだろう。
 問題は私の志望理由だった。
 昔から青道高校は家の近所にあり、野球も強く、どこか憧れの目で青道生を見ていた。特に野球部の応援風景は圧巻で、子供心にいつか自分もあの情熱の中に飛び込んでみたいと思った。別に野球部のマネージャーがしたいわけじゃない。私は自分がプレイする方が好きなので、高校に入ってもソフトは続けるつもりでいる。けれど青道高校の女子ソフト部は特に名門というわけではなく、まぁ中堅といったところだ。ソフトさえできれば、特にこだわりはない。ただ青道高校は家も近いので通学も便利だ。
 “憧れと、自分の望む環境”その両方が手に入る。
 その時階下で、ガラガラと玄関の開く音がした。

「ただいま」
「おかえり、哲也」

 私たち三兄妹は小学生の頃から野球をしていた。私は中学ではソフトを始めたが、中学で女子野球なんて選択肢はなく当然の流れだろう。今のところまだ、スポーツ自体は誰もやめていない。スポーツは、お金がかかる。
 兄は今年私立の高校に入学した。弟は中一なので、進路なんてまだまだ先の話だ。けれど昔からプロ意識の高い弟は、間違いなく私立の強豪校に入るだろう。
 二人には確固たる意志があった。
 その二人に挟まれた私の希望は、ひどく曖昧なものだった。“憧れ”さえ我慢すれば、青道じゃなくても選択肢はある。それこそお金のかからない都立に行くべきだろう。私の意志には“絶対”がなかった。
 無口で穏やかな父は、子供にお金のことなど絶対言わない。母はぶうぶう文句を言いながらも、毎回ちゃんと応援に来てくれる。両親は私が青道を志望していることに了承していた。私への信頼というよりも、学校への信頼の方が強いのかもしれないが。
 三年生に進級してから、ずっとこの事が頭の中をぐるぐると回っていた。友達は難しい高校にあえてチャレンジすると言うし、私はこんなにあっさり決めてしまっていいのかと焦っていた。
 けれど今日、あの人のプレイを見て私の心は決まった。自分がきちんと叶う境遇にいるのなら、きちんと叶えるべきなのだ。
 私は通学鞄からノートを取り出し、筆圧の強い字で大きく“青道高校”と書いてみる。二学期に配られる調査書にはこうやって堂々と書いてみよう。
 机の上では小さな伊佐敷さんがまだせわしなく走っていたので、デコピンをしてパンフレットの写真の中に戻してやった。
 あの人の、今は“望まないこと”が、いつか“望むこと”に変わればいいと願いながら。

 ノートを閉じてふとベッドの上の天井を見上げると、天井の木目はもう睨みをきかせた伊佐敷さんには全く見えなかった。私は不思議に思いながら、哲ちゃんの素振りに付き合うため、急ぎ足で階段を下りていった。



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