47. 誰がために

 六月も二週目に入り、今年も野球部恒例の「地獄の夏直前合宿」が始まった。先日、夏の大会のレギュラーが決定したため、合宿でレギュラー陣は大会を戦い抜くだけの力をつけ、選ばれなかった他の選手たちは彼らを全力でサポートするのだ。今年は期待のルーキー、投手の降谷くんが入ったことで、これまで問題にされていた青道の投手事情を十分にカバーしてくれるだろう。それに同じ一年生には沢村くんや小湊さんの弟もいる。哲ちゃんたちの世代はもちろんのこと、御幸くんたち二年生も去年よりはるかに力をつけ大会に挑むのだ。そんな今年の青道が簡単に負けるはずがない。
 私も自身の大会を控え、練習に励む毎日を送っている。先日、レギュラーに選ばれたため、中途半端なプレイは許されない。そのため、日々練習に集中して取り組まなければならないのだけれど、最近はそれがうまくできずにいた。原因はわかっている。――あの子だ。
 あの子を初めて認識した日から今日まで、私の気が休まることはなかった。
 先日、あの子と廊下ですれ違った時のことだ。あの子は友達数人とおしゃべりしていているところだった。そして私の耳にあの声が飛び込んだ瞬間、はっとしたのだ。
 間違えるはずない。あの子とは、私の家族の事情を知り、それを友達に話そうとしていた、御幸くんのことが好きなあの彼女だった。以前は声しか聞いていなかったため、あの子と結びつけることができなかった。けれどそれが頭の中でくっきりと像を結んだ時、私の心に不穏な暗雲が立ち込めはじめた。
 そしてその予感は的中した。嫌がらせ、と呼べるレベルなのかわからない。靴が隠される、机が自分の分だけ倒れている、ノートの最後のページが覚えもないのに破られている、本当にそんな些細なことだ。気にしなければ気にならない程度の。そもそも、それをあの子のしわざだと決めつけることは難しく、他の誰かがやったものかもしれない。仮に靴の中に画鋲が入っていたり、ノートに私への中傷の文句が走っていたら強い悪意を感じていたかもしれないけれど、私が受けるそれらは深刻なレベルではなかった。でもだからといって、平気でいられるはずはない。学校に置いてある私物に常に人の手が入っているようできみ悪く、正体のわからない悪意がむしろ恐ろしかった。自分の神経が徐々にすり減っていくようで、私は学校での些細な変化の一つ一つに恐ろしいほど敏感になっていた。

 お昼休み。今日はいつも一緒にお昼を食べる友ちゃんが、部活のランチミーティングがあるため、私は一人迷ったすえ中庭に出ることにした。他の友達と食べてもよかったけれど、たまには天気の良い外で一人食べるのも悪くないと思ったのだ。
 ベンチに座ってぼんやりお弁当を食べた。機械的に箸をお弁当箱から口へ運ぶ。気分転換のつもりで来たのに、頭の中はやっぱりあの子のことで占められていた。食べている間も食事に集中していないせいで味覚が鈍感になり、まるで砂を食べているみたいだ。食べても食べても不思議と力が湧いてこない。一人で黙々と食べていたため、いつもよりずいぶん早く食べ終えてしまった。
 それでも、私の胸中には関係なく、誰の上にも等しく降り注ぐ陽の光は心地よいものだった。下旬になると嫌でも梅雨に入るから、今はこの気候を存分に楽しみたいと思う。
 するとその時、一羽のスズメが目の前に降りてきた。スズメはこちらを見つめクッと首をかしげたあと、羽をわずかに震わせた。
 食べ物をねだっているんだろうか。ここで食べる生徒がよくパンをちぎってあげたりするため、それを求めてよくスズメが集まると聞いていた。
 私はスズメの目をじっと見つめ、

「ごめんね、もう食べ終わっちゃったから何も持ってないんだ」

 もちろん言葉が通じているわけはないけれど、スズメはチチチと鳴いたあと、素早く目の前から飛び立ち青空へ吸い込まれていった。
 しばらくそれを見送っていると、次第に空の青さが目に沁みてきたので視線を前に戻した。すると、そこに人が立っていた――純さんだ。

「なーに一人でしゃべってんだ」
「あ」
「『あ』じゃねぇよ。ふぬけたツラしやがって」

 純さんはどこかあきれた面持ちで、私の隣にどかっと腰を下ろす。

「なまえ一人か?」
「はい。今日は友達が部活のミーティングで。たまには一人でぼーっとお昼食べるのもいいかなぁと思って」
「つか、ぼーっとしすぎだろ。こーんな顔してたぜ」

 と、大げさに腑抜けた表情を作ってみせる。

「ちょっ、失礼な! そんな顔してません!」
「いーや、してたな。心ここにあらずーってな感じで」
「…………」
「……なんかあったか?」
「……別に、なにも」

 私は純さんからふっと顔を背けた。もっとうまく嘘がつけたらいいのに。これでは何かありますと言っているようなものだ。
 悩み自体は別にたいしたことじゃない。怪我をしたわけでも、物が盗まれたわけでもない。こんな些細なことで、大会を控えた大切な時期に心配かけたくなかったから、私はこの一連の出来事を胸に留めておこうと決めていた。
 純さんは、ふーん、と低く呟いてからつま先で地面を軽く蹴る。私は深く追及されるのを避けるため、強引に話題を変えた。

「合宿どうですか?」
「まぁもう三回目だしさすがに慣れたけど、キツイのはあいかわらずだな。監督はやっぱ鬼だし」
「昨日、練習の帰りに見てたんですけど、監督のノックいつも以上に気合入ってましたね。鬼気迫るというか」
「ああ。……今年こそは、ぜってぇ甲子園行ってやる」

 純さんの揺るぎない決意がそこにあった。今年が哲ちゃんや純さんにとって最後の夏なんて未だに信じられない。
 私は少しためらってから言った。

「クリスさんは……やっぱり出ないんですよね」
「ああ。まだ完治ってわけじゃねぇからな。ここで無理してまた肩壊したら今までのリハビリが水の泡だ。本人が一番よくわかってんだろ」
「そうですね」

 短い人生の中のたった三年間。大人になればきっと、瞬く間に過ぎてしまうであろう三年間に、私たちは今、全力で好きなことに情熱を注いでいるのだ。哲ちゃんの、純さんの、クリスさんの三年間を思うと、ふと胸に熱いものが去来するのを感じていた。まだ夏はこれからなのに、なに感慨にふけっているんだろう。

「私、在学中に野球部が甲子園行って、学校総出で応援しに行くの昔から憧れてたんですよ。それで、アルプス席で応援してるとこがテレビに映る、みたいな」
「けどあれって可愛い子しか映らねぇんじゃねーか?」
「それどういう意味ですか!」

 私が抗議すると、純さんはにししとイタズラっ子みたいに笑ったあと、ふっと真剣な表情になった。

「――俺のバットで……なまえを甲子園に連れて行く」
「……え……」

 私は虚をつかれて一瞬黙りこんだ。けれど次の瞬間、

「……って、少女マンガの男なら言うんだろーな」
「え、ああ、マンガ……マンガですか。そうですね……」
「そんなセリフ、特大ホームランぶっ放すような奴じゃねぇと言えねーよな……」

 純さんは自嘲するように薄く笑う。私は、そんなことありません、と首を振った。

「純さんには純さんらしいバッティングがあるじゃないですか。だから青道でレギュラー獲れたんだし。それにそんなセリフ、女の子のためみたいでウソくさいです」
「あ?」
「女の子のためなんて、一番じゃなくてずーっとあとくらいがちょうどいいんですよ。そんなことよりチームの、自分のためにやればいいんです」

 純さんは呆気にとられたように私を見つめたあと、すぐにぶはっと吹き出した。

「だよなぁ。そういう少女マンガ独特の綺麗事みたいなとこ大好きだけどよ、実際やる方にとっちゃそうもいかねぇよな」
「でも私、哲ちゃんとは約束してるんです」
「甲子園行きか?」
「はい。小さい頃にですけどね」
「……おい。してんじゃねーか」

 純さんはどこかおもしろくなさそうにぷいっと顔を背けてしまった。「純さん?」と声をかけたけれど、ヘソを曲げてしまったのかむすりとしたままだ。
 私は純さんの、何番目でもいいからそういう存在になりたかった。もしそれを伝えることができたなら、私は――……。
 それからしばらく言葉を交わしたあと私たちは別れた。純さんは最後に「何かあったら言えよ」と言ってくれた。一瞬何のことかと思ったら、すぐに私が浮かない顔をしていた件だろうと悟った。純さんに無駄な心配をかけさせてはいけない。私は、これからは表に出さずに毅然としていよう、そう決めた。

 教室へ戻る途中、クリスさんとすれ違った。軽く会釈をするとクリスさんは柔らかく微笑んでくれて、少し前までの頃との違いに、私は心の底から安堵した。哲ちゃんからは、沢村くんと組み始めた頃からだと聞いている。去年、夏の大会直前に肩を故障したクリスさんは、その後徐々にふさぎこんでいった。一年生の頃あんなに希望に満ち溢れていた瞳は陰りを帯び、無口になっていったように思う。みんなが、クリスさんのために何もできない自分を責め苦しんでいた。そして事情を理解しない部員からは一時、悪い噂が流れたらしい。でも今はそんなわだかまりは解け、クリスさんの表情はすっきりしていた。
 教室に戻ると、御幸くんは席についてスコアブックを見ていた。教室での御幸くんは本当にいつ見ても、倉持くんとしゃべっているか、スコアブックを見ているかのどちらかだと断言できる。
 私は御幸くんの隣の空いている席に腰を下ろした。

「さっきそこでクリスさんに会ったよ」

 ふーん、と御幸くんがスコアから目を離さずに言う。

「なんかクリスさん変わったね」
「そうか?」
「うん」
「ま、あの人の根っこはいつも変わんねーと思うけどな」
「へぇ、クリスさんのことよくわかってるんだ」
「そんなワケじゃねーけど……」

 御幸くんは困ったように呟いた。

「立ち直ったきっかけはやっぱり沢村くん?」
「あー……、まぁそうとも言え……いや、言えねぇ」
「なに濁してんの?」
「いや、バカ村のくせにムカつくと思って」

 御幸くんがむすりと口許を結ぶ。
 きっと御幸くんもクリスさんのことをすごく心配していたはずだ。でも今年入部したばかりの沢村くんが、クリスさんが立ち直るきっかけになったことが内心では少しおもしろくない、けれどもちろん嬉しくもある。おそらくそんな心情なんだろうと推察する。でも御幸くんのことだ、絶対に口に出したりしないだろうけれど。

 それから数日後のことだ。丹波さんが合宿最終日の練習試合で、顎にデッドボールを受け怪我をしたと聞かされたのは。



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