48. 見知らぬ壁

 その日のうちに丹波さんが病院で治療を受けた結果、顎の骨にヒビが入っているものの、骨折はしていないとのことだった。しかしいずれにせよ、しばらくは野球どころではない。
 それから長かった合宿が明け、いよいよの夏の大会の組合せ抽選会が行われた。その日はひどい雨だった。部員たちの行き場のない不安ややりきれなさが発露したような、そんな雨だった。
 哲ちゃんから聞いた話はこうだ。監督いわく、丹波さんは大会の予選に間に合わないかもしれない。しかしエースナンバーは丹波さんが背負う。だから丹波さんが復帰するまでの間、チーム一丸となって戦い抜こう、と。


 純さんが久しぶりにブルペンに入ったと聞かされたのは、それから数日後のことだ。休み時間、御幸くんが苦笑混じりに教えてくれた。私と倉持くんはいつものごとく御幸くんの席に集まっている。

「俺もあの人が元投手ってことは聞いてたけど、受けたのは初めてでさ。……まぁ、一言で言えばすげぇノーコン」
「マジかよ! 俺も見たかったぜ。哲さんも投げたんだろ?」

 純さんがブルペンにいる間はグラウンドで練習していた倉持くんが、心底悔しそうに漏らした。
 今では、センターのポジションがすっかり板についている純さんだけれど、入学当初は投手志望だったのだ。私はふと懐かしくなって、

「純さん、バズーカボールって言ってなかった?」
「言ってた言ってた。……つかなんでなまえがそれ知ってんだ?」
「え、いや、まぁ御幸くんたちよりもちょっとだけ付き合いが長いというか何というか……」

 語尾を濁した私に、二人が怪訝そうな視線を送る。しかし深く追及することなく、倉持くんは、

「しっかし、バズーカボールって純さん小学生かよ……」

 としみじみ言った。

「おい倉持。そこはあえて俺も先輩の顔立ててつっこんでねぇのに」
「まぁまぁ、そこは触れないでいてあげよう……」
 
 エース不在という深刻な事態に陥ったチームだが、想像していたよりも二人が落ち込んでいなかったことに、私は安堵していた。

「純さんってどんな球投げんの?」

 倉持くんが純粋な疑問を口にする。

「球は速い。けど全然ストライク入んねーんだわ、これが」
「それダメだろ」
「だから野手に転向したんだろ」
「ナルホドな」
「ちなみに哲さんは典型的な野手投げ」
「へぇ」

 倉持くんが感慨深そうにうなずいた。
 そう、当たり前だが二人は哲ちゃんたちが一年生だった頃を知らない。最初から頼もしかったわけではないと知っている私には、ちょっとした優越感――練習を熱心に見ていたなんて恥ずかしくて言えないけれど――がある。
御幸くんは、眼鏡の奥の瞳に真剣な色を宿して、言った。

「とにかく。今が踏ん張りどきだし、俺たちだってやってやろうぜ」


 翌週から梅雨に入った。空は常に薄く曇り、いつも傘の心配をしなければいけない天気が続いた。不安定な天候で、部活中に降り出すことも珍しくなく、途中から屋内練習に切り替えることもしばしばだった。
 あいかわらず、あの子からの嫌がらせは続いていた。エスカレートこそしないものの、定期的に行われるそれは、さらに私の心を傷つけ磨耗させた。
 御幸くんは何かに気づいているようだったけれど、深くは踏み込んでこなかった。それは御幸くんが非情だからではなく、これは私の問題であり、私自身が御幸くんが動くことを良しとしなかったためだ。いつも飄々としていて、ふざけているのか真剣なのかわからない御幸くんだけど、友達がヘルプのサインを出したら、絶対に見捨てたりしない性格だということも知っている。しかし今は、大事な大会を控えた時期だ。余計な心配はかけたくなかった。
 私はまだ、心のどこかで楽観視していたのだ。どうせ長くは続かない、こんな苦しいことはいつか終わるだろうと。けれど甘かった。
 私は周囲にこの件を打ち明けなかったし、できる限り明るく振舞った。ある種の鈍感さを演じて、けっして応えていない、ムダなことだと知らしめたかったのに、それが逆効果だったことを、後に痛いほど思い知ることになる。


 泥の底から這い出るような、最悪の目覚めだった。まだはっきりしない意識のなかぼんやりしていると、遠くの方から吹奏楽部の演奏や、運動部のランニングの掛け声が聞こえた。もう放課後らしい。
 私は保健室のベッドにいた。糊のきいた真っ白なシーツの上で身じろぎすると、関節が鈍く傷んだ。
 今朝から体調がすぐれなかった。微熱程度だったため、平気だろうと登校したものの、四時間目から急に体調が悪化した。そしてそのまま保健室で休んでいたら、すでに放課後。
 視線をベッドのそばに移すと、脇にあるパイプ椅子の上に、私の鞄が置いてあった。きっと友ちゃんだろう。
鞄の上には小さいメモ用紙がちょこんと乗せてあり、友ちゃんの字で、顧問の先生に私が休むことを連絡しておいたという旨が書かれていた。私は心の中で親友に手を合わせ、のそりと起き上がった。
 カーテンを開けると、保健室には薄く西日が差し込んでいたため、雨の心配はなさそうだった。あたりを見回したが養護教諭は不在だ。私は重い身体を引きずるように、保健室をあとにした。
 歩き慣れた廊下が今日はやけに長く感じる。ふと、背後を振り返った。視線を感じた気がしたのだ。でも熱のせいだろう、きっとそうだ。むくむくと膨れ上がる不安を無理やり奥へ押しやり、途中でお手洗いに寄った。
 個室の白い扉がぼぅっとかすむ。熱で頭がぼんやりしてきた時、個室の外でガタリと物音がした。続いて、寒々しい水音。そして蛇口がきゅっと締まる音がしたあと、急に静かになった。もう掃除の時間はとっくに終わっているはず。
 私はしばらくの間、出るか出まいか逡巡していた。そして、個室を出ようと決めた、まさにその時だった。
 ザッという音と共に、ものすごい寒気が身体じゅうを一気に走る。一瞬、何が起こったかのかわからなかった。反射的にうつむくと、顔に張り付いた前髪から水滴がぽたりと落ちた。
 ああ、水だ。そう気づいた時、何か固いものがタイルの上に転がる音と、走り去る足音が聞こえた。何がどうなっているんだろうと、私は正体不明の恐怖にかられ扉を開けることができず、その場でただ固まっていた。思考停止に陥りながらも、誰かの手により水がかけられたことだけはかろうじて理解できた。
 それからしばらく経ち、おそるおそる扉を開けた。するとそこには、倒れた椅子と水色のバケツが放り出されていた。
 私は呆然としながらそれを眺めた。
 ――たぶん、あの子だ。
 六月も半ばを過ぎていたけれど、今日は気温が低く、水を浴びせられたことで次第に体温が奪われていく。ガタガタと歯の根が噛み合わないほど寒く、自身の肩を抱いた。
 とりあえず鞄を取り、お手洗いを出た。廊下は不思議な静けさに包まれていて、一向に人の気配がない。騒がしい校内で、ごくまれにだがひと気のない瞬間がある。今がまさにそうだった。
 鈍くなった頭で必死に考える。
 どうしよう、どうしよう、この状態で知り合いに会ってしまったら。私は何て言えばいい?
 教室に戻れば部活用のジャージがある。けれどこの時の私は、熱で朦朧としているうえに、あの子の悪意に打ちひしがれて、完全に判断能力を失っていた。2-Bの教室へ向かえばいいのに、なぜか足が動かない。あいかわらず廊下には誰もおらず、まるで歪んだ空間に迷い込んでしまったようで、私は不安に押し潰されそうだった。
 その時だ。下駄箱のある角から、人が歩いてきた。見慣れた青と白の配色のユニフォーム。知っている背格好だ、と思った瞬間、

「なまえ!」

 相手はすぐにこちらへ駆けてきた。
 知ってる。よく知ってる人だ。
 ゆっくり見上げるとすぐそばに、よく見知ったその人物の心配そうな顔があった。

「……御幸、くん?」
「それどうした」

 御幸くんは有無を言わさぬ口調で訊いた。
 相手が問いかけているにもかかわらず、私の脳裏に浮かんだのは、なぜ部活中であるはずの御幸くんがこんな所にいるんだろう、そんな単純な疑問だった。
 ありのまま先ほどの出来事を伝えるべきか、それともごまかすべきか。でも、ごまかすのであればどう取り繕ったらいいのか。口が何か言おうとするけれど、思考がするすると滑り落ちていってうまく言葉にならない。

「……これは……えっと、その……」

 御幸くんは辛抱強く私の言葉を待っていてくれたけれど、やっぱり言葉は何一つ出てこなかった。
 今の私には、事実をありのまま伝える勇気も、うまく言いわけする気力も残っていなかった。そんな状態を汲んでくれたのかはわからないけれど、御幸くんは小さく息をついてから言った。

「……わかった。ついて来いよ」

 私は小さく首を振った。熱のせいでひどい耳鳴りがする。

「着替え貸してやるから来いよ。熱もあんだろ?」
「……いい。このまま家に帰る。近いし、大丈夫」

 御幸くんがびっくりするくらい優しい声で気遣ってくれるから、こんなものはたいしたことじゃないという意味で、つい虚勢をはってしまった。
 寒い。痛い。早く安心できる所に行きたい。

「馬鹿野郎!!」

 瞬間、御幸くんの鋭い怒声が、沈黙を吹き飛ばすように廊下じゅうに響いた。驚いて顔を上げる。私はその時になってようやく、御幸くんの顔をまともに見た。それは今まで見たことがないくらい真剣な表情をしていた。

「ごめん……ごめん、私……」
「いいから」

 御幸くんがそっと促す。そのあとはただ、意思のない人形のように、私はそのあとについて行った。

 目的地へ向かう道すがら、御幸くんにどうしてこの時間に校舎にいたのか訊くと、教室にスコアブックを忘れたとの答えに私は納得した。しばらく歩いて御幸くんは足を止めた。そこは青心寮だった。部活中のため、ひと気はなくひっそりしている。
 御幸くんはあたりを確認してから私を寮の階段へと促した。上りながら、御幸くんは二階に住んでいるのか、とぼんやり思う。御幸くんの部屋の扉の前に立った時、何気なく隣の扉を見ると、ネームプレートに“伊佐敷”の名を発見した。

「隣、純さんなんだ」
「おう。よく吠えてんの聞こえるぜ」

 部屋に入るとすぐにバスタオルが渡され、私は礼を言って頭と身体を拭いた。御幸くんはタンスを漁り、着替えを探してくれているようだ。

「……ありがとう。なんでもいいよ」

 それから御幸くんは着替えを私へ手渡し、「終わったらノックして」と言い置いて部屋を出た。深く追及することはせず、ただ事務的に必要なものを揃えてくれる。御幸くんのそういう朴訥な優しさに、つい目頭が熱くなる。
 貸してくれたTシャツにパーカーを羽織り、ジャージを穿いた。長身の御幸くんのものなので、当たり前だけれど袖も裾も長い。私は適当にそれらを折りながら、部屋を見回した。初めて入る青心寮の部屋。無造作に放り出されたダンベルや、積み上げられたマンガを見て、男子特有の生活感が滲み出ているようでなんだか新鮮な心地がした。壁には、私も知っているアーティストのポスターが貼られている。御幸くんの趣味なのか、先輩の趣味なのか。
 ふと、じゃあこの壁の向こう、純さんの部屋の壁には何が貼ってあるんだろうと考えた。
 ――純さん。
 純さんへの想いが、堰をきったように溢れ出す。今、私は、無性に純さんに会いたかった。でもそれは叶わない。むしろ、あってはいけない。
 着替え終わりドアをノックすると、御幸くんが「終わったか?」と声をかけたあと入って来た。

「ごめんね。きれいに洗って返すから」
「その前に早く風邪治せよ」
「……うん」
「――お、そうだ」

 御幸くんは何かに気づいた様子で机の上のキャップを取った。そしてそれを私の頭にぎゅっと被せる。

「被ってろ。寮は部員以外立ち入り禁止だから、バレねぇように一応な」
「うん」

 念のため、私は髪をキャップの中へ押し込んだ。

「そうしてっと野球少年みてぇだな」

 と小さく笑ってから、ドアをわずかに開け外の様子を伺っている。

「よし、行くぞ」

 部屋を出て急いで通路を突っ切り、階段を駆け下りる。寮の敷地外まではすぐなのに、今はこの距離がひどくもどかしい。

「……いたっ」

 階段の中程で突然、私は御幸くんの背中におでこをぶつけた。目の前の大きな背中が、緊張で固くなるのがわかった。私がおそるおそるその視線の先を追うと――今、一番会いたくない人が立っていた。

「御幸ぃ!!テメェ何さぼってやがる!」

 そのよく聞き慣れた声に反応し、私はとっさに下を向いた。

「純さん……」

 御幸くんがぽつりと呟く。
 純さんの階段を上る足音が、次第に近づいてきたのがわかった。
 御幸くんは再び下りはじめながら、

「ははっ、さぼってませんよ。ちょっと部屋にスコア忘れてちゃって。そういう純さんは?」
「俺も部屋に忘れ物。あ? なんだそいつ。見かけねぇ顔だな」

 御幸くんがこちらを振り返ったので、私は首を振る。すると御幸くんは、純さんから私へ注がれる不審気な視線からかばうため、私を隠すように立った。
 私はキャップのツバを引っ張って深く被り、無言を貫く。

「あ、こいつ俺のクラスの友達です。野球部に興味あるみたいで寮のそばウロウロしてたんですけど、寮生以外立ち入り禁止だって今話してたとこなんです」
「ふーん」
「すぐにつまみ出しますから、監督たちにはどうか内密に……」
「じゃあその代わり、御幸は今晩俺のマッサージな」
「……了解っす」

 心臓が早鐘のように激しく鳴り出した。頭痛のリズムと共鳴して、ひどく気分が悪い。

「じゃ、すぐ練習戻りますんで」

 早く、早く。早くこの場から去りたい。
 階段の途中で、純さんとゆっくりすれ違った。
 早く早く。もう少し、もう少しで階段が終わる。どうかバレませんように。
 本当に、あと少しだったのだ。
 けれど次の瞬間、私の手首が掴まれた。

「――やっぱやめた」

 純さんは抑揚のない声で言った。
 私の体は凍りついたように動かなくなった。
 そもそもサイズの合わない服を着て、おまけに足元のローファーがラフな格好には浮きすぎている。思えばこんな妙な姿で、騙し通せる方が無理な話だったのだ。
 純さんは大きく息をついた。

「……なまえだろ?」

 私は純さんの言葉に肯定も否定もできず、ただ下を向いて棒のように立ち尽くしていた。
 純さんが再び、優しい声色で問いかける。

「……どうした? なんかあったのか?」

 頭がぼぅっとしてきた。優しい手にすがりたいのに、すがれない。
 繋がれた私と純さんの手。いつか気持ちが通じ合ったら、こうやって手を繋ぎたいと思っていた。私の願いは今、不幸な形で叶ってしまった。
 ――どうして今なんだろう。
 それを見つめながら、私の最低限の思考回路がのろのろ働いた。
 とにかく純さんに迷惑をかけてはいけない。こんなことは自分で解決しなければ。今は大切な時だから。
 本心とは裏腹に私の口が、決定を下す。

「……純さんには、関係ないです」

 自分の声はひどくかすれていた。それでも、純さんへ届けるには十分だった。

「……そうかよ」

 いろんな感情を押し殺したような低い声がした。繋がれた手がゆっくりと離される。

「……あ……」

 その時、見えない何かが私と純さんとの間を阻んだような気がした。離された手がひどく心細く、肌は本能でそのぬくもりを求めていた。純さんが背中を見せる。カーンカーンと、階段を下りる無機質な足音が次第に遠ざかっていった。
 そしてその姿が完全に見えなくなった瞬間、私は堰を切ったようにその場から飛び出した。御幸くんが背後で何か言った気がしたけれど、もう振り返らなかった。そのあとどうやって家に辿り着いたのか記憶がない。
 それから私は高熱を出し、三日間学校を休んだ。



*prevnext#

index / top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -