46. 翳り

 中庭に茂る青葉は深みを増し、日の光を受けて眩しいくらい輝いていた。初夏の爽やかな風が吹き抜けると、茂った葉はさわさわと心地の良い音を立てて揺れる。季節は六月に入った。下旬は嫌でも梅雨が続くから、今のこの穏やかな天候がありがたい。
 木々の音に耳を傾けながら、お昼休み、私は中庭のベンチに座って小湊さんを待っていた。ぐっと伸びをして深く深呼吸すると、悪いものは全て吐き出され、新鮮な何かに生まれ変わったような気がした。何ヶ月ぶりだろう。やっと、呼吸が楽になった気がする。
 私は先日までの出来事を、ゆっくりと反芻していた。
 秋の時点で、私は確かに純さんを「好き」だった。けれどその気持ちが少しずつ降り積もっていくほどに、それは自分でもよくわからない、正体不明の何かに育ってゆき、今現在、育て方がわからずに持て余してしまっている。私は「好き」よりも、もっともっと深いところで純さんを求めているのだろう。これが何という感情なのか、自分でもわからない。心がじんと温かくなって、そのくせ泣きたくなるほどじわじわ痛み出すような。私はこの感情に、名前が付けられない。
 告白してしまえば、「好き」だと思っていた頃より遥かに失うものが増えてしまった。だから去年よりずっと、気持ちを打ち明けることに臆病になっている。なっているけれど、もう伝えなければならなかった。小さな芽が出て、少しずつ育てて咲かせたこの想いを、あの人に見せないまま摘んでしまいたくはなかった。たとえ、今までの関係に戻れなかったとしても。
 静かに気持ちを整理していくと、残ったのは、たった一つのシンプルな答えだった。

「――おまたせ」

 声がして顔を上げると、小湊さんが立っていた。背後から受けた日の光で、桜色の髪はきらきらと透けていた。小湊さんがゆっくりと私の隣に腰かける。

「いつも話聞いてもらってすいません」
「別に。俺個人としてもおもしろいからやってるだけだよ」
「おもしろいって……」
「人がみっともなくもがいてるのっておもしろいじゃん」
「サ、サド……」
「なんか言った?」
「いえ!」

 その弓なりになった口許を見ながら、一旦気持ちを落ち着かせる。すると小湊さんは、私が口を開くよりも先にきっぱりと言った。

「なまえちゃん、すっきりした顔してるね」
「……え……」
「問題は解決したんだ?」

 にっこりと笑みを深くする小湊さんを前にすると、やっぱりこの人はエスパーなんじゃないかと思うのだ。

「はい……いや、違うな。まだ大事なところは解決してないんですけど、私の根っこの部分は解決したと言いますか……わかりにくくてすいません」
「まあ、根本的な部分が揺らがないんだったら、あとはどうにでもなる気がするけどね」
「そうですね。小湊さんには今までお世話になったので、決意表明しとこうと思って。自分が……逃げ出さないためにも」

 隣のベンチでは、女子たちが楽しげに午後のおしゃべりに興じている。その声が少し静まってから、私は口を開いた。

「――私、決めました」

 決意が鈍らないよう勢いよく顔を上げると、新鮮な風が私の前髪をふわりとさらっていった。青葉がおしゃべりするみたいに一斉に揺れる。

「告白します」

 風は次第に凪いでゆき、私の言葉は飛ばされることなくそこに残される。
 小湊さんは膝の上で手を組み、ゆっくりとこちらを見た。

「そう。――で、誰に?」
「えっ!?」
「誰?」
「えー、そんなのもう……わかってるじゃないですか。今更言わせないでくださいよ」
「相手なんて、俺知らないけど」

 太陽の下で、サディスティックな微笑みが不気味なくらい輝きを増す。

「だから……ほら、あの人ですよ、あの人」
「どの人?」

 この期に及んで小湊さんはまだとぼけるつもりだ。私は頬の熱さを感じながら、小さく、「純さん」という名を舌に乗せてみた。

「え? なに、聞こえない」
「もー!」
「――あ」

 その時、小湊さんは何かに気づいたように会話を切って右手を上げた。

「純だ」
「わかってるなら聞かないでくださいよ! ……って、え?」

 小湊さんの視線の先に目をやると、一階の校舎の窓が見えた。そして窓の向こう側の廊下にいたのはなんと、噂の張本人だ。

「……あ、純さん」
「ちょうどいいしもう言っちゃえば? 決意したんなら、今日も明日も変わんないでしょ」
「なっ?!」

 小湊さんが純さんに向かって、おいでおいでのポーズを取る。

「ちょっと待ってください! まだ心の準備が!」
「じゃあ、純がここに来るまでの間に覚悟決めなよ」
「そんな……」

 私たちの存在に気づいた純さんは、怪訝な顔でこちらを見た。小湊さんはあいかわらず手招きをしているから、ここに来るのも時間の問題だ。早く決意を固めなくてはと思っていると――なんと純さんは、昇降口に向かうことなく窓を開け、そのまま窓枠に足をかけはじめた。

「あれって……」
「行儀悪いね、ほんと」
「ちよっとー! もう来ちゃうじゃないですか!」

 私はパニックになって小湊さんの腕を掴んで揺らすが、本人はどこ吹く風の様子。
 そうこうしているうちに、運動神経のいい純さんは窓枠を軽々と飛び越え外に出た。青道は校舎内でも土足だから問題はないけれど、その突拍子もない行動に、私と小湊さんはしばし呆気にとられながら眺めていた。
 それからすぐに小湊さんが立ち上がる。

「じゃあここにいるのも野暮だし、俺は退散するよ」
「あ、あの……」
「がんばりなよ」

 そう言い残して、清々しい風に溶けるように颯爽と立ち去っていく。それと入れ替わるように、純さんが大股でこちらに向かってきたので、私はベンチから立ち上がった。

「あ? んだよあいつ、自分から呼んどいて」

 純さんはキョロキョロしながら小湊さんを姿を探すけれど、もうすでに立ち去ってしまったあとだった。

「なまえ、なんの用だったか知らねぇか?」
「さぁ……」
「チッ、せっかく最短距離で来たっつうのに」
「純さん行儀悪いですよ」
「うっせ!」

 太陽の下の純さんの白いカッターシャツの眩しさに、思わず目を細める。胸元に目をやると、数日前自分がそこで子供みたいに泣いたのを思い出して、カッと頬に熱を帯びていくのを感じた。

「この間は……取り乱してしまってすいませんでした」
「別に気にすんな」
「私、あの時話を聞いてもらってすごく気が楽になったんです」
「おう」

 純さんがくしゃりと眩しい笑顔を見せるから、少しだけ胸が苦しくなる。ああ、またあの気持ちだ。
 隣のベンチを見ると、まだ先ほどの女子たちがいたけれど、私はかまわず言葉を続けた。

「だからあの……」
「あ?」
「純さんは……今、好きな人いますか?」
「……は?……」
「か、家族とか友達とかじゃなくて、女の子で……ああ、マンガの中のマヤちゃんとかもダメですよ? ラ、ラブっていうか、なんて言うか……」
「おい、落ち着けって。意味わかるから」

 会話の前後に脈絡がないのは十分承知していた。どこをどうしたら、先日のお礼から純さんの好きな人の話になるのか。全身から汗がどっと吹き出るのを感じる。このままいけば、干からびてしまんじゃないかというくらい。恥ずかしくてなかなか前を見ることができなかったけれど、私は勇気を振り絞って純さんの顔を見た。
 すると、私の熱が移ったのか、純さんまで顔がほんのり紅潮している。

「お、俺は……」
「俺は?」

 私が訊き返すと、純さんにしては珍しく口をもごもごさせて言い淀んでいた。恋愛事になるとからきしなのか、どうもいつもの覇気がない。さらに一歩踏み出して、その先を促そうとした時。私は視界の左端で、それを捉えた。
 先ほどまで純さんが立っていた一階の廊下。窓は現在も開け放されていた。そこに立つ、人影。わけもなく背中がぞわりとした。
 ――この視線、知ってる。
 頭から冷水を浴びせられたみたいに、体じゅうが冷えきっていくのを感じた。足に見えない杭を打ち込まれたみたいに、その場から動けなかった。

「なまえ……?」

 ゆっくりと、校舎側に視線を移動させる。空の上の大きな雲がのそりと動いて、一瞬だけ太陽の光を遮った。人影と目が合う。翳りを帯びた瞳が、そこにはあった。
 あ、この子だ。直感的にそう悟る。
 以前から感じていた視線の正体。けれど今は、ちくちくなんてものじゃなかった。その子は感情のこもらない瞳で、私をただじっと見つめていた。逸らしたいのに、逸らせない。窓ガラスを通さないその視線は、混じり気ない純度で私へと届き、蝕んでゆく。不思議な引力に引きつけられたみたいに、私はしばらくその子から目が離せなかった。

「おい!」

 たまりかねたように純さんが声をかけ、私は弾かれたように我に返った。

「……え?……」
「なんだ? 知ってる奴か?」
「あ、いえ……」

 まだ気になって校舎側を向くと、その子はちょうど立ち去るところだった。頭上の大きな雲は風に流されて、再び太陽のシャワーが降り注ぐ。
 けれどこの一件のせいか、私は先ほどの会話を復活させる気が起きず、適当にごまかして純さんと別れた。


 翌日、嫌な予感は的中した。四時間目の体育で、グラウンドに出ようとした時、自分の下駄箱に体育用のスニーカーがないことに気づいた。

「なまえなにしてんの?」

 友ちゃんが不思議そうに私の下駄箱を覗きこむ。

「靴ないじゃん! どうしたの?」
「わかんない。昨日まであったはずなんだけど」

 しばらくの間、二人で付近の下駄箱をしらみつぶしに探してみたけれど、とうとう見つからなかった。友ちゃんが少し言いにくそうに呟く。

「――もしかして、盗られた?」
「まさか! あんな履き古した靴なんて盗る人いないよ。きっと誰かが間違えたんだよ。私、部活用のスパイクあるから取ってくるね。友ちゃん先に行ってて」
「ちょっ、なまえ?!」

 私は教室に向かって一気に走り出した。
 そうだ、これは誰かが間違えたんだ。きっと。たまたまデザインとサイズが同じで、気づかずに履いていってしまったんだ。
 私は、ちらりとよぎった黒猫みたいな恐ろしい想像から目を逸らすため、ひたすらそう言い聞かせた。むちゃくちゃな理屈だとわかっていたけれど、認めてしまうのが怖かった。

 その日の昼休み。廊下で御幸くんと話していると、前方から沢村くんがやってきた。手にはビニール袋を提げている。沢村くんは私たちをびしっと指差して、

「御幸……先、輩となまえ先輩!」
「おい沢村。普通に『先輩』つけようなー」
「あ、そんなことよりなまえ先輩」

 沢村くんはくるりとこちらを向いた。

「俺の呼び名は“そんなこと”なんだ……」

 沢村くんは御幸くんの嘆きなどお構いなしに、私へと歩み寄った。

「これ、なまえ先輩の靴じゃないかと思って持ってきたんスけど」
「え?」

 沢村くんはビニール袋の中から、一足のスニーカーを取り出した。その見慣れたデザインに、履き古し具合、すぐに自分のものだと気づいた。

「これ、私のだ……」
「マジすか?! じゃあ持ってきてよかったッスね。これ、一年の下駄箱んとこに放り出してあったんですよ」
「一年? どうりで見つからないはずだ」
「つーか、沢村。なんでお前、靴見ただけでなまえのってわかったんだよ? もしや犬みたいに匂い嗅いだとか? お前、意外とそっち系?」
「んなワケねぇだろ!! これは俺の名推理のおかげだ!」
「「名推理?!」」
「そう! ――ほら、この右足の内側に小さく“Yûki”って書いてあんだろ?」
「……ホントだ」

 御幸くんが靴の内側を覗きこむ。

「そこで俺は考えた! “ゆうき”これすなわち男の名前だ。しかーし! このサイズは紛れもなく女子! よって、犯人は“結城”なまえ先輩しかいない!!」

 今度は私が沢村くんに指を差される番だった。

「おい沢村。靴の持ち主であって犯人じゃねーから。しかも今時、女子の名前で“ゆうき”がいてもおかしくねぇし、その推理とやらが当たったのは偶然だな」
「なにぃー?!」
「しかも一年や三年に結城性の女子がいるかもしれねぇじゃねーか」
「ぐぬぅぅぅ……」
「つーか、なまえも小学生じゃねぇんだから靴に名前って……」

 御幸くんが肩を揺らして笑う。

「だって、これはお母さんが……。学校にずっと置いとくものは書いといた方がいいって」
「まぁ、とにかく見つかってよかったッス!」
「うん。沢村くんありがとう。おかげで助かったよ」
「いやー、なんのなんの!」

 沢村くんは高笑いをしながら、その場を後にした。

「さてと、じゃあ私は靴しまってくるね」

 私がビニール袋を揺らして踵を返そうとした時、

「なまえ」

 御幸くんに呼び止められた。
 私は平静を装いながら、なに、と振り返った。御幸くんは先ほどのまでの笑みを消し、真剣な表情を浮かべている。

「それ、どうしたんだ? いつからなかった?」
「ああ、体育の時にちょっとね。誰かが靴間違えたんじゃない? たぶん、戻すとこわからなくなって放っておいたんだよ」
「ふーん」
「ほら、仮にいたずらで悪意があったとしたら画鋲の一つでも入れると思わない?」
「まぁ、そうだな」
「たまたま運が悪かったんだよ」

 私は必死に言い聞かせた。御幸くんにというより、自分に。



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