45. あなたからの月

 夜に携帯が鳴った。その音は、静かだった自室に突如現れた闖入者のようにひどく浮いていた。時計の針は、ちょうど九時を指している。
 設定された着信音は、誰がかけても同じ音色のはずなのに、それはなぜだか違った。きっと自分の中に、予感めいたものがあったからだろう。
 椅子からゆっくりと立ち上がる。ベッドの上に放り出された携帯が無機質な光を放ち、私を呼んでいた。そして、おそるおそるディスプレイを覗きこみ、そこに浮かぶ名前を認めた瞬間、予感は的中した。ディスプレイを見つめながらつかの間、逡巡する。手を伸ばして、引っ込める。このまま無視してやり過ごしたい気持ちと、今すぐ通話ボタンを押して電話に出たいという気持ちの狭間で、私は揺れていた。
 あと三回、待ってみよう。
 全てを運に任せて、静かな心でコール音をカウントする。いち、に、さん――……

「――もしもし」

 切れてほしかったのか、繋がっていてほしかったのか。すでに通話ボタンを押してしまった今でもわからない。

『もしもし。……俺』

 聞き慣れた低い声は、耳から全身に伝わる。目を閉じて、言った。

「……こんばんは、純さん」


 私は通い慣れた道を一人、のろのろと歩いていた。五月も後半を迎え、気温は上がってきたものの夜は少し肌寒い。何も羽織らず、長袖のTシャツだけで出てきてしまったことを後悔していた。その足取りは重く、待ち合わせのコンビニまでの道が永遠に続けばいいのに、なんて無茶なことを考えながら歩みを進める。――もうすぐだ。
 待ち合わせ場所である近所のコンビニは、以前、純さんと偶然会ったあの店だった。暗いなか煌々と浮かぶ店のロゴが眩しい。
 純さんは店内には入らず、ウインドウの前で待っていた。ガラス一枚隔てた店内には、雑誌の立ち読みをしている客がまばらに見える。
 私は慎重にゆっくりと近づいた。

「こんばんは」
「……おう、急に呼び出して悪かったな」

 純さんはウインドウに預けていた背中を離し、こちらを向いた。寮でおなじみの、半袖のTシャツに下はジャージ姿だ。

「よく寮抜け出せましたね」
「まぁ、監視はそこまで厳しくねぇからな。たまにコンビニ行ったりするし」

 私は純さんの隣に並んだ。いつもは部活帰りの青道生で賑わうこのコンビニも、時間が遅いためかひっそりとしている。駐車場の車も二台しか停まっていない。
 私たちは最初に言葉を交わしたきり、あとはひたすら沈黙が続いていた。話すべきことはきちんとわかっているのに、未だ確信に触れることを恐れているような。
 それから、コンビニに面した車道を通り過ぎる車を数台見送ったあと、純さんはようやく重々しい口を開いた。

「今夜は月が……半分だな」
「え? あ、ああ」

 私は少々肩すかしを食らった気分で、群青の空を見上げた。てっきりあのことを言われると思っていたからだ。夜空には、いつか二人で見た時と同じ上弦の月が浮かんでいた。

「あの時と一緒ですね」
「ああ」

 本当に何気ないことだけれど、純さんが“あの時”をちゃんと覚えていてくれたことに、不思議なくらい安心していた。そんな安堵感から隣を見ると、けれどもその表情は固いものだった。私は下を向き、アスファルトを見つめる。
 違う。これが本題でないことくらい知っているのに。
 ただ焦りに似た感情だけが支配していた。だから私は、純さんが何か言葉を紡ぐよりも先に切り出した。

「――あの」
「あ?」
「ちょっと答えにくいこと……聞いてもいいですか?」
「……なんだ?」

 口の中がひどく乾いていたけれど、ひとつ息を吸い込んで、ゆっくり言葉を吐きだした。

「純さんは外野守にコンバートしたこと、後悔してないですか?」

 私の言葉に、純さんははっと息を飲んだ。
 コンビニの駐車場に一台、車が入ってくる。ヘッドライトの眩しさに顔をしかめながら、私はただその答えを待っていた。
 ひどいことを聞いている、という自覚はあった。今更“もしも”の話なんてしたところで不毛だからだ。何もわかってない奴だと、軽蔑されるのが怖くて今まで聞くことができなかった。でも同時に、知りたくもあった。
 ――全てをさらけ出すのが怖い、ずるい奴。自分だけ傷つくのが怖くて、決定的なことを告げられるのが怖くて、私は道連れにしたのだ。
 純さんはつかの間、目を閉じ思案しているようだった。それから深く息をつき、

「どうだろうな……。投手として続けてた道か。あの時はただガムシャラに、チームのためならって選んだけどよ……」

 言葉を一つ一つ丁寧に選別していくように語る。それを少しでも漏らさぬよう、じっくりと聞き入っていた。その表情と言葉を、心に焼き付けるように。私はその瞳に宿した強い炎のような色から目を逸らさず、真っ向から受け止めた。

「ただ……、後悔はしねぇ。これから先も、ずっとだ」

 そう強く言いきったあとで、けれど苦笑混じりに付け加えた。

「でも、自分と同じ立場の奴がいたら、たぶん諦めんなって言うだろうな。絶対に肯定はしねぇ。……矛盾してっけど」
「……もう、なんですかそれ。むちゃくちゃですよ」
「しょうがねえだろ。それとこれとは別だ!」

 強引なその言いぐさに思わず笑ってしまう。でもそれは、とても純さんらしい答えだと思った。――そうだ、私は心のどこかでもうわかっていた。この強い人が、そう答えることを。
 噛みしめるようにその答えを胸に刻んだあと、私は素直に頭を下げた。

「ひどいことを聞いてすいませんでした」
「……謝んじゃねぇよ。別に気にしてねぇ」

 ぶっきらぼうにつぶやいて、ふいとそっぽを向く。
 コンビニの自動扉が開き、店内からサラリーマン風の男性が出てきた。こんな時間に高校生が、という非難のこもった視線を私たちに向けてから去っていく。
 それからまた、静寂が訪れた。

「俺からも一つ聞いていいか?」
「……はい」

 心がざわりと波立った。波紋はゆっくりと、でも確実に広がっていく。
 どうせ大したことではない。よくある話だ。ここで全てを打ち明けて、荷物を下ろしてしまえばきっと楽になれる。そう思うのに、どこかで認めたくない自分がいる。
 純さんは、さっきの私の質問に答える時よりも慎重に、言葉を選んでいるようだった。すっと――息を吸い込む音がした。

「――なまえはなんで、哲のこと『哲ちゃん』って呼んでんだ?」

 今度は私が純さんの視線を真っ向から受け止める番だった。遠くでパッパーッとクラクションの音がする。私はそのまっすぐな視線に耐えきれなくなって、下を向いた。地面に引かれた白線を眺めながら心を落ち着かせる。
 以前私は、純さんから同じ質問を受けたことがある。しかしもう、あの時とは何もかもが違う。
 駐車場に入ってきた車の眩しいヘッドライトが、純さんの顔を白々と照らし出した。それからすぐにライトは消え、その顔に濃い影を落とす。夜を纏う純さんは、これまでの優しい純さんとは少し違っていた。私はそれに怯え、すがるように何かを探した。きょろきょろきょろと意味もなくあたりを見回す。

「……ここに哲はいない」

 その時になってようやく、私は自分が何を探していたのか悟った。そう、私はいつも待っていた。手を伸ばせばすぐそばにある、無条件で差し伸べられる温かい手を。
 知らなかったら、知らないふりをしてくれたら、これまで通りでいられたのに。そんな苛立ちがわけもなくこみ上げる。

「……なんで」
「なんで、か。……家族の問題なんて他人が踏み込んじゃいけねぇのはわかってる。無神経だって言われるのは承知の上だ。でも、あえて言うなら……お前がずっと、苦しそうだったから」
「……そんな、こと……」
「鍋ん時とか、この間の時とか。すげぇつらそうに見えた。だから、いっそ吐き出した方がラクになんじゃねぇかって」

 その瞬間、はっとした。純さんはあえて、自分から言ってくれた。自ら嫌な役を買って出てくれた。だから私は、その優しさを踏みにじることはできない。
 喉に鉛がつかえているみたいに重かったけれど、深く呼吸をするとようやく心が決まる。私は純さんの目をまっすぐ見つめ返して、言った。

「――哲ちゃんは、私のお兄ちゃんじゃない。……本当は、従兄弟なんです」

 口にすると少しだけ気持ちが軽くなった。本当はずっと、この抱えきれない思いを誰かに聞いてほしかったのだ。

「うちの仏間にあった写真。私の後ろに写ってた人……あれが私の本当の母です。父――育ての、ということになりますが、父の妹です」

 よくある家族の問題。私は結城家の養女として育てられた。本当の母のことは「おばさん」と呼んでいる。おばさんは昔から自由な人で、そのためか生活力がなく、出産してすぐ私を実家である結城家に預けたらしい。たまにふらりと帰ってくることはあったけれど、ほとんどそばにはいなかった。本当の父親のことは知らない。今まで一度も聞かされたことはなかったし、おそらくおばさん以外は誰も知らないのだろう。
 そこまで語ったところで初めて、純さんが口を挟んだ。

「じゃあ、なまえはずっとあの家で育ったんだな?」
「はい。産まれてからずっと。おばさんはたまに帰ってきてたので、あの人が本当の母親なんだと知ってました。戸籍上、私が養女になったのは小学校に上がってからです。……でも、私にとっての本当の家族は、父と母と哲ちゃんと将司ですから」

 昔から両親に、哲ちゃんたちを従兄弟だと聞かされていたから、お兄ちゃんではなく「哲ちゃん」と呼んでいた。

「昔、お母さんに『お兄ちゃんって呼びなさい』って言われたことがあったんです。あとあと困るからって母も思ったんでしょうけど、その時は私、なんか納得できなくて。そしたら哲ちゃんはそのままでいいって言ってくれたんです」
「なんかあいつらしいな」
「はい」

 互いに笑みを交わし合ってうなずいた。
 『てっちゃんでいいぞ』って。その時、心の奥底で、遠い日の懐かしい声が聞こえた気がした。

「不自由はありません。家族はもう本当の家族だし、照れくさいけど……愛情は本物だと思うから」
「そうか」

 純さんは穏やかな顔で微笑んだ。

「でも……時々すごく不安になるんです。ちゃんとわかってるつもりなのに、まだ自分の中で割り切れてないとこがある。……兄妹で似てないって言われたりすると、余計に」
「ああ……、だからか」
「なんですか?」
「前、俺が哲にお前と似てねぇって言ったことがあった。そしたらあいつムキんなって、耳が似てるとか言い出してよぉ。そん時はこじつけだろって思ったけど、そういうことだったんだな」
「そう……そんなことがあったんですか」

 哲ちゃんはずっと、私の気持ちを知っていて、私の知らないところで守ってくれていた。そんな事実に今更気づくなんて。本当に私は、自分のことばかりで周りがちっとも見えていなかった。

「でもよ、鍋ん時にお前のお母さん見たら、お前に似てるって思ったぜ」
「え?」
「台所で二人で言い合ってた時とか」
「あ、聞こえてたんですか。恥ずかしい……」
「ほら、人って一緒に生活してると似てくるって言うだろ? あれと一緒じゃねーか」
「……あ……」

 純さんは乱暴に頭を掻き、言いにくそうに口を開いた。

「まぁ、その、なんだ……。俺は、そのおばさんって人がまだ生きてるって聞いてほっとしたぜ」
「ああ、別に亡くなったりはしてないですよ。もう家には帰って来ませんけど、たまに電話はかかってきます。未だに話す時はちょっと身構えるかな……」
「つーか、ああやって仏間に写真あると思うだろ、普通。もう亡くなったんじゃねぇかって」
「純さん、それ少女マンガの読みすぎですよ。あれ、普通の家族写真だし」
「うるせぇな! こちとら少女マンガを教科書に育ったから想像力だけは豊かなんだよ!」
「教科書って!」

 純さんが変なことを言うものだから、思わず吹き出してしまう。しばらくひとしきり笑っていると、おかしすぎてふいに涙がにじんだ。
 おかしいな、そうつぶやいて夜空を見上げた。輪郭がぼやけてしまった半分の月。視界に映る車のヘッドライトや、街並みの明かりや、信号の色が、次第にじわじわとにじんで混ざり合う。それらを全て封じ込めるように瞼を閉じるけれど、溢れ出てしまった一粒がぽたりとアスファルトの上にこぼれ落ちた。

「なまえ……」

 涙はとめどなく溢れ、もう自分ではどうすることもできない。息が苦しくなり、肩が震える。嗚咽がひどくなる前に、せめてこれだけは。

「……ありが……と。ありがとう……」

 本当は、「ありがとう」なんて言葉じゃ足りない。私の全てを差し出したって、足りない。
 差し伸べられる温かい手を、自ら手放す勇気を与えてくれてありがとう。周囲から与えられていた愛情に気づかせてくれてありがとう。そして、愛おしいという感情を教えてくれてありがとう。
 純さんには言わなかったけれど、私が半月を嫌いだったのは、おばさんがもう戻らないと家を出た日の夜が、ちょうど半月だったからだ。あれを見ると未だにあの夜のことが思い出されて、不安をかきたてる。でも、もう大丈夫。あの時の月は、ちゃんと満ちたから。
 その時ふいに、自分のものとは違う匂いに包まれた。鼻先にある純さんの白いTシャツが涙で濡れてしまうから、すぐに体を離そうとしたけれど、背中に触れる手のあまりの優しさに、動くことができなかった。今だけは、このままでいたい。
 温かい胸に顔をうずめると、安心してまた涙が溢れた。私は幼い子どものように、みっともないくらい声をあげて泣いた。



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