44. 静かなる闘志

 風のない静かな夜だった。先月までは肌寒い日があったものの、最近はこの時期らしく過ごしやすい気候が続いている。
 俺はいつものように練習を終え、寮の裏手で今日も日課である素振りに励んでいた。目の前にピッチャーがいることをイメージしながら、バットを振る。――今のは外いっぱいのスライダーだ。
 先日、部内で行われた一年生対二・三年生の練習試合。この時期にあんな試合が組まれるのは異例中の異例だ。ここ数年、部内でずっと抱え続けている問題――投手事情によるものだろう。あの試合には、即戦力を発掘する意味合いが強かったように思う。現エースである丹波はようやくレギュラー復帰を果たしたが、まだまだ安定したピッチングとは程遠い。
 一年生にとって圧倒的に不利な試合だったが、双方が奮闘した結果、一年生の中にも実戦で活躍できそうな選手を見つけることができ、同時に二・三年たちの闘志にも火をつけた。さすが片岡監督だと感服せざるを得ない。
 俺とて今はレギュラーだが、力を発揮できなければすぐに降格させられるのだ。青道には優れた選手が多い。うかうかしているとすぐに立場は逆転する。レギュラーだからといって慢心せずに、後ろから迫ってくる足音を常に意識して練習に励まなければならない。
 そんなことを考えていた時、わずかな風に混ざって背後からざりっと土の踏む音が聞こえた。

「――よぉ」
「……純か」

 純がバットを手にこちらへやって来た。そのまましばらく、いつものように素振りを始める。一年の時からそうだった。気づいたらいつも、そばでバットを振っていた。ここに来ない時は大抵、室内練習場で練習をしている。
 俺たちはしばらく無言で素振りを続けていたが、どちらからともなく息が上がってきた頃、純は言った。

「なぁ、昨日のこと……」
「む?」

 俺がそちらを向くと、純は何やら難しい顔をして言い淀んでいるようだった。

「……なまえのこと」
「なまえ?」
「――いや、なんでもねぇ……」

 純は小さく首を振り、バットの柄をじっと見つめた。
 とっさに訊き返したものの、その内心はわかっていた。昨日の放課後の時のことだろう。なまえのあの時の反応は、純も当然不審に思っただろうし、俺もあえて何も言わなかったからだ。だがいくら相手が純とて、これは家族の問題だ。なまえが否とする限り、俺の口からは言わないと決めている。だから純が深く尋ねてこないことが、今はありがたかった。

「……なぁ、純」
「ん?」

 俺は純の目をじっと見つめて言った。

「あんな妹だが……変わらず気にかけてやってもらえたら、助かる」
「あ?」
「よろしく頼む」

 俺は深く頭を下げた。
 すると純は、

「おい、なにしてんだよ! 頭上げろっつの気色悪ぃ!」

 と慌てたような調子で言い、俺の肩をどついた。

「あったりめぇだろーが。あんな手のかかる奴ほっとけっかよ!」
「そうか」
「……まぁ、妹みてぇなモンだし」
「妹? そうなのか?」
「だーっ!! うっせ! この話はもうやめだやめ!」

 話題を断ち切るように、純は両手をぶんぶん振った。

「んなことより今は試合だ! 関東大会も迫ってんのに、今はそんなことより練習あるのみ!」
「ああ、そうだな」
「調子落としたら俺やお前だって代えられんだからな」

 俺は深くうなずいた。まったくその通りだ。

「まずはピッチャーだな」

 純も同じことを思っていたのか、神妙な面持ちでうなずいた。俺がとっさに思い返したのは都大会での対・市大三高戦だ。なんとか勝利したものの、16対10というスコアは俺たちに大きな課題を残した。青道の現在抱えている問題を浮き彫りにしたと言えるだろう。

「あんなノーガードの殴り合いみたいな試合してるようじゃ、甲子園なんざ夢のまた夢だ」
「今はとにかく守備だな。もちろんバッティングもだが」

 俺たちがうなずき合っていたその時、突然どこからか「うおー」という雄叫びが聞こえた。続いて、ザーッという得体の知れない音。

「あ? 誰だ、こんな時間に」
「犬か何かか? ……それとも幽霊?」
「ばっ、バカヤロー! そんなんいるわけねぇだろ!」

 純は強がりながらも若干顔色が青ざめているようだった。もしかして怖いのだろうか。

「どうした、二人とも」
「出たー!!」

 純が驚いて声を上げる。振り向くとそこには、タオルを手にした丹波が立っていた。

「んだよ丹波かよ! 驚かせんじゃねー!」
「わ、悪い……」
「気にするな、丹波。純が勝手に驚いただけだ」
「……ああ」

 純は先ほど声を上げてしまったことをごまかすように、こほんと一つ咳ばらいをした。

「さっきの謎の雄叫びは丹波か?」
「雄叫び? いや、知らんな」
「じゃあ一体なんなんだよ」

 俺たちはその正体を突き止めるため、声のしたグラウンドの方へ向かった。
 土手を登りきると、わずかな風が汗ばんだ頬を滑っていった。それからグラウンドの方へ視線を移すと、一年の沢村が一人、タイヤを引きながらランニングをしていた。どうやら謎の音の正体は、タイヤを引く音だったらしい。

「なんだ、沢村じゃねーか」

 純からほっとため息が溢れる。

「ほう、こんな遅くまで走っているとはな」
「一年はとにかくランニングだからな。思い出すぜ……地獄の日々」
「ああ……」
「ハッ、よく張り合ってたよな俺ら」
「そうだったか……?」
「とぼけんじゃねーよ! 俺だけ意識してたみてぇで恥ずかしいじゃねーか!」
「冗談だ」

 純は舌打ちをして石を蹴った。
 丹波の方はというと、真剣な表情で沢村にじっと見入っていたが、やがてぽつりと言った。

「――今から投げてくる」
「お?」
「む?」

 そうして丹波はくるりと踵を返した。

「丹波ぁ! 故障明けってこと忘れんじゃねーぞコラァ!」

 闘志を燃やしたその背中に純が声を投げると、丹波は軽く右手を上げて走り去っていった。

「……ったく、あいつわかってんのかよ。エースなんだぞ」
「燃えていたな、丹波」
「一年のやる気に感化されたんだろ。……つーか俺も負けねぇし!」

 純は再びバットを構え、その場で振り始めた。俺も同様に素振りを再開したい気持ちだ。
 青道のエースである丹波。そして一年生の沢村と降谷。沢村の可能性はまだまだ未知数だが、伸びしろは十分にある。降谷の力は間違いなく本物であり、おそらく関東大会で登板させられるだろう。それから二年には、コントロールの良い川上もいる。キャプテンとしてできることはそう多くないが、自分なりに精いっぱいチームに貢献しようと思った。


 帰宅すると、居間の食卓になまえが一人座っていた。何をするでもなくただぼんやりしていたので、思わず声をかけた。

「なまえ、どうした?」

 するとなまえは弾かれたように顔を上げた。最近、こういったことがよくある。

「あ、哲ちゃん。おかえり」
「ああ。……どうしたんだ? ずいぶんぼんやりしていたが」
「え? そうかな。練習がきつかったからかな」

 俺は、そうか、とうなずきエナメルバッグを下ろした。洗面所で手を洗い、うがいをして、いつもの素振りをしに行こうと玄関に向かった時だった。

「哲ちゃん」

 振り返ると、なまえがどこか思いつめた顔でためらいがちに言った。

「あの……昨日のこと、純さん何か言ってなかった?」
「いや、特には。だが心配していたぞ」

 なまえは、そう、と小さくつぶやき下を向いた。
 互いに思うところはあるだろうが、俺が口を挟むべきことではない。少々歯がゆい思いをしながらも、俺は黙ってバットを取り外へ出た。

 いつもの駐車場で素振りをしていると、ふと背後に人の気配がして振り返った。既視感、というのか。先ほどの寮の裏での追体験をしているような感覚を覚えたが、そこに立っていたのはもちろん純ではなく弟の将司だった。だが、ジャージ姿でバットを手にしているのは同じだ。
 俺が思わず苦笑すると、将司は眉をひそめた。

「兄貴?」
「いや、なんでもない」

 しばらく二人とも無言で素振りをしていた。暗闇に走る自分のバットの軌道を追い、時々将司の方へ視線をやる。そういえば久しぶりに将司の素振りを見たような気がした。弟の素振りは中三のものとは思えぬほど力強い。音もいい。

「兄貴」

 将司は一旦素振りを中断し、こちらを見た。静かな住宅街に、すっかり大人びた将司の低音が落とされる。

「兄貴の志望校はずっと青道一本だったのか?」
「ああ。青道以外は考えていなかった」
「そうか」

 将司は今ちょうど進路を決める時期にさしかかっている。聞くところによると、いくつかスカウトの話が来ているらしい。

「もう学校は決めたのか?」

 将司は首を振った。

「俺は兄貴と違って青道にこだわりはない。自分の力を最大限に発揮できる所なら、どこへでも行く」

 俺はそれがいいとうなずいた。弟が自分と同じ青道に入って全国制覇を目指してくれたら、それはそれで嬉しい。だがこれは将司の人生だ。将司自身が決めるべきだと、俺も思う。

「俺は結果が欲しい。良い思い出だったと、そんな風に終わらせるつもりはない」

 きっぱりと言い切った将司は、どこまでも勝利を渇望している。弟の静かな情熱に触れ、俺の闘志にも火がつく。
 キャプテンとして、野手として、打者として、夏の大会で俺は俺の全てを賭ける。




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