43. 揺らぐ

 教室の窓からは爽やかな風が吹き込み、校庭の木々は、陽射しを浴びて生命力溢れる新緑を繁らせていた。例年ならば五月病も真っ只中のこの季節。昼休みともなれば、ぽかぽかした陽気に誘われ、ぼーっと過ごしたいところ。けれど今年は、周囲が私にぼんやりさせることを放っておかないとでも言っているようだ。
 最近、背中にちくちくと視線を感じることがあった。しかし振り返ってみてもその正体はわからない。何か恨まれるようなことをした覚えはないが、知らず知らずのうちに恨みを買っているのかもしれない。もしかすると、ただの気のせいかもしれないけれど。背後の見えない無防備な自分の背中は、最近常に緊張状態で休まることがなかった。

「結城さん、ちょっといい?」

 いつものように御幸くんと倉持くんと私で野球の話題に興じていると、ふいに声がかかった。
 顔を上げると、そばに知らない女子が立っていた。ただ、なんとなく見覚えはあるので同学年なんだろう。話す口調は柔らかく、口許に笑みを浮かべいたけれど、無言の圧力というのかどこか有無を言わせない雰囲気をその子から感じとった。あまり女らしいとは言えない私だが、女の勘というものが働いたのだと思う。
 「なに?」と訊き返しながら、私はすぐに席を立った。
 その子に促されるまま連れて行かれた場所は廊下の端だった。ここは風の通り抜けが悪く、こころなしか重い空気が淀んでいるような気がした。
 その子はこちらを一瞥し、ひと呼吸おいてから、

「結城さんに聞きたいことがあるの。迷惑じゃなければ答えて。――御幸くんって彼女いるの?」

 名乗りもせずに唐突な、と驚いたけれど、こちらに直接関係ないことなら仕方ないと考え直す。

「御幸くん?」
「そう」

 その子は、長い睫毛に縁取られた大きな瞳をぱちぱちさせながら私の言葉を待っていた。

「さぁ、知らない」
「ふぅん、そうなんだ。好きな人もいないのかな?」
「聞いたことないけど。そもそも私たちあんまりそういう話しないから……」

 向こうから、へぇ、という返答があったあと変な間ができた。その子は、指に自身の髪の毛を一房くるくると巻きつけるしぐさを見せたあと、私の目を覗きこんだ。
 その時私は、一見すると邪気のないその瞳に、かすかに暗い色が宿ったのを見逃さなかった。そしてすぐに、これは御幸くんをめぐる女子たちの水面下の戦いなのだと悟る。だいたい、そんな無関係なキャットファイトに巻き込まれるのは冗談じゃない。そもそも御幸くんとはよく話すものの、おおかた話題は野球の話か世間話であり、恋愛の話題など持ち上がったことはない。もし御幸くん自身にそういう人がいたとしてもあの性格だ。周囲に気軽に話したりはしないだろう。
 だから私は先ほど素直に「知らない」と応えた。けれどその返答に、この子は納得していないようだ。ならばここは白黒はっきりさせるのが得策だろう。そう思った私は、相手の目を見つめ弱い所を見せないように、きっぱりと言い切った。

「私はただの友達だよ。御幸くんに特別な感情なんてない」
「ほんと?」
「うん」
「そう……。ならいいの。ありがと。急に呼び出してごめんね」

 私から聞き出したかった台詞を聞くやいなや、満足そうに笑ってその場を去った。

 教室に戻ると倉持くん一人が席につき、格闘技雑誌を読んでいた。

「あれ? 御幸くんは?」
「便所」
「ふーん。次、数学だっけ?」
「おー」
「やばい、当たるかも」

 急いで自分の席に戻ろうとすると、

「――御幸の話か?」

 倉持くんは雑誌から目を離さずに訊いてきた。私はなんとなくきまりが悪くなり、適当にはぐらかした。

「まぁ、そんなとこ」
「……大丈夫か?」
「うん。平和に話しただけ。ヤンキーの世界みたいに根性焼きとかないし大丈夫」
「ハァ?! 俺でもそんなん受けたことねぇっつの!」
「へー、古き良きヤンキーだからてっきり経験済みとばかり」
「いつの時代だよ!」

 その時、ちょうどトイレから御幸くんが戻ってくるところだった。倉持くんは何事もなかったようにそっぽを向いたけれど、ぽつりとこうつぶやいた。

「なんかあったらすぐ言えよ」


 私自身は二人を腐れ縁みたいなものだと思っているし、二人もそういう認識だろう。一年生の時のクラスの皆からもそう思われていたように感じる。しかし二年に進級すると、当たり前だが周囲の人々も変化する。クラス単位だけじゃなく、何かのきっかけで御幸くんに興味を持ち始めた他のクラスの子だっているかもしれない。私と御幸くんはただの友達だけれど、その関係性を知らない人も周囲には出てくるわけで、そのわかりやすい弊害が先ほどの出来事だろう。
 だけどこの時までの私は、あのちくちくの視線の正体を、てっきりその子のことだと思っていた。それが見当違いであると思い知るのはそのあとだ。


 数日後の放課後、私は廊下で部活に向かう途中の哲ちゃんと純さんに会った。

「あれ、珍しいね。二年のフロアで会うなんて」
「D組に片岡先生がいると聞いてな。急ぎの用だったんで直接行ったんだ」
「そっか。キャプテンと副キャプテンだもんね」

 純さんの方に目を向ける。すると純さんは、私からぱっと視線を外して窓の外を向いた。途端、胸にずきりとした痛みが走る。どうしてこんな風になってしまったんだろう。私たちはどこでどう間違えたのか。私は私で、純さんに妹のようだと言われたあの瞬間から、無意識にその役に徹しようとしている気がした。そんなことは土台、無理な話。わかっていても妹以下にはなりたくなくて、必死に役を演じる自分に時々嫌気がさす。
 哲ちゃんは私を一瞥して、

「今から部活か?」
「うん」

 私たちは連れ立って歩き出した。

「そういえば、小湊さんの弟さんってどんな感じ? 私まだしゃべったことないんだ」
「ああ、なかなかいい守備をするぞ。バッティングも悪くない」
「ポジションも一緒だしやっぱ似てるよな、あいつら」
「へぇ、やっぱ仲いいの?」
「いや、あまり二人でいるところは見たことないな」
「ま、兄弟だからって甘やかさねぇつー方針なんじゃね? あいつストイックだし」
「小湊さんらしいというか何というか……」

 階段まであと少しのところで、ふいに通り過ぎようとした教室の中から声がした。

「大丈夫だよ。御幸くん野球漬けで彼女なんて作るヒマないんだから」
「でも……本当はいるのかも」
「もう、自信持ちなって」

 周囲にまだ生徒は残っているものの、数は多くない。部活動がさかんな青道は、放課後になるとすぐに部活へ直行する生徒が多く、教室や廊下は途端に静かになる。そのため人の話し声が余計に耳につきやすくなるのだ。
 それは、声と話題からしてあきらかに女子のものだった。しかもそこに見知った人物の名が挙がっていたため、私たちは思わず足を止めた。教室のドアは開いていたものの、私たちがドアからは離れたところにいるため、向こうからこちらは見えないはずだ。
 そんな女子特有の内緒話に遭遇した哲ちゃんと純さんは、居心地悪そうに顔を見合わせて苦笑した。運悪く居合わせた事故のようだと思い、歩き出そうとした時だった。

「B組の結城なまえ」

 突然、思ってもいなかったところから自分の名前が挙がり、心臓がどきりと跳ねた。その言葉のあとに続く“何か”に私は言い知れぬ不安を覚える。
哲ちゃんと純さんも、眉をひそめて言葉の続きを待っていた。

「御幸くんって他の女子とはあんまりしゃべらないのにあのコとはよくしゃべってるよね」
「でも御幸くんってもともと友達少ないじゃん。倉持と接してるのとそんな大差ない気するけど」
「そうかなぁー」

 間延びしたようなその声に、理由もなく不安がじわじわ広がっていく。その子は、私の暗い気持ちをよそに声を潜めてこう続けた。

「知ってる? あの子って三年にお兄さんいるでしょ」
「キャプテンでしょ」
「そう、そのことでちょっとした話があって」

 ひそやかな口調は人目をはばかる時にするものであり、次の瞬間、取り返しのつかない決定的な何かを告げられてしまう予感に、私の体は次第に冷たくなっていった。――やめて、ここに純さんがいるのに。実際はそんな声が出るはずはなく、絶望で視界は暗闇に覆われ、耳だけが不思議と鋭敏にその声を捉えていた。

「……で、これはあのコと同じ小学校のコから聞いた話なんだけど、あのコって実は――」

 刹那。バァンという大きな音が私の鼓膜を震わせた。その瞬間はっと我に返って音の方を見る。――哲ちゃんだった。哲ちゃんが拳で教室の壁を叩いたらしい。自身の体や物を大切にする兄だから、傷ついたり壊れたりするほどの力ではなかったけれど、教室のあの子たちが気づくのに十分な大きさだった。
 哲ちゃんは叩いた壁を無言で睨んでいた。
 あの子たちの姿は見えないが、固唾を呑んで動きを止めているのが空気から伝わってくる。でも今の私にはそんなことどうでもよかった。緊張で指先はすっかり冷たくなり、視界は異常に狭くぼんやりしている。片付かない意識のまま床の真っ白なタイルを見つめていると、ふいに温かいものが私の手を包んだ。それは哲ちゃんの大きな手だった。

「行こう、なまえ」

 静かに言葉を落とし、私の手を引いて歩き出した。力強く温かい手。私を守ってくれる手。これを握っているうちは大丈夫。私は大丈夫だ。
 純さんの方はいっさい見なかった。見られなかった。今の私にとって哲ちゃんは絶対的な安全圏であり、ただこの大きな背中についていけば大丈夫なのだと言い聞かせて。



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