42. めぐる季節
三月。ひりついて身体の芯に残るような冷たい冬の風はやわらぎ、時折、穏やかな春の気配が混ざるようになった。
卒業式では、胸に迫る寂寥感と同時に、学年が上がることによる責任感を抱きながら三年生を見送った。プロになる東さんを送る純さんは少し淋しそうだったけれど、いつもの笑顔で元気に送り出していたのが彼らしかった。
あの日――純さんが私のことを妹のようだと言ったあの日以来、互いに言葉を交わすことはなかった。元々、学年が同じわけでもなく、部活が同じわけでもなく、意図的に会わなければ接点など簡単になくなってしまう。私はそんな単純な事実に、今更ながら打ちのめされていた。会う口実にしていた少女マンガはすでに全て返してしまっていて、新たに借りる勇気は出なかった。
そして、そうこうしているうちに春休みに入った。ソフト部の私にも野球部の哲ちゃんや純さんにも休みはなく、あいかわらず部活に明け暮れる毎日。先日、青道高校野球部の練習には、早くも新一年生が合流した。長い冬を乗り越え、ようやく公式戦が解禁される季節だが、春の選抜に出場できない青道は、四月から始まる春季大会に向けて闘志を燃やしていた。
今夜は哲ちゃんの素振り練習に、私と将司も付き合っていた。いつもの駐車場で、職人のように黙々と素振りをする哲ちゃん。すでにジャージの上着を脱いでおり、Tシャツには汗がにじんでいた。そのスイングは以前よりもずっと速く鋭く、夜の空気を裂いた。
将司の方はといえば、中学生とは思えない豪快なスイングに、日々のめまぐるしい成長を感じた。身体つきは今やもう立派な大人のそれだ。
先に息が上がってきた私は、早々に練習を切り上げ、二人のスイングを眺めていた。
哲ちゃんはバットを振る手を止め、目を細めて将司の方を向く。
「……いい音だ」
将司は無言でうなずいて、バットを握り直した。弟はすでに国分シニアで四番を任されている期待のスラッガーだ。今年、強豪校からスカウトが来るのは間違いないだろう。ただ、迷っているのか、未だに本人は希望する進学先を告げていない。
私はといえば、ギリギリでレギュラーといったところで、同じポジションで強い一年生が入ってきたら危うい立場だ。そのため、こうして以前より多く練習するようにしている。
「二人とももう三年生かぁ」
私がしみじみ言うと、二人は素振りの手を止めこちらを向いた。
「ああ、青道に入学したのが昨日のことのようだ」
「ほんとにね」
三年、正確には二年半。高校で野球に打ち込める時間なんてあっという間で、水の流れのように早く過ぎ去ってゆく。
哲ちゃんが静かな闘志を燃やしながら青道に入学したのは、ちょうど二年前。不作と呼ばれた世代だったが、相当な練習を積むことで個々が成長し、結果チームは強くなり、その過程で固い絆が結ばれた。今やもう、誰も不作の年だなんて言わない。十分甲子園を狙えるチームだと、関係者のもっぱらの噂だった。
そして今年は、その甲子園行きを決める最後のチャンスだ。長いようで短かったこの二年。本当にこれで最後なのだと、未だに信じられない。
ふと視線を上げると、二人はいつの間にか素振りを再開していた。
疲れた私は、駐車場の縁石の上に腰を下ろして空を仰いだ。群青を幾重にも重ねたような透明な夜空に、半分の月が浮かんでいる。それは優しい乳白色で、欠けた部分以外の輪郭は柔らかな曲線を描いていた。
途端に、心には様々な感情が入り乱れて、堪えきれずぎゅっと目を瞑る。閉じた瞼の裏には、シャッターをきったように半分の月のシルエットが鮮やかに焼きついていた。それを打ち消すように数度、大きく瞬きを繰り返す。しかし、一旦せり上がった悲しみと虚無感が消え去ることはなかった。
――半月が嫌いだった。
『あれ、丸いのかシャープなのかはっきりしない形だから。それに、あの欠けた半分がすごく寂しい感じ』
純さんと一緒に月を見た夜が蘇る。
私は半月から目をそらし、代わりに星々を目に焼きつける。固く目を閉じると、瞼の裏で星が瞬いてチカチカした。あの時の純さんの言葉を、心に刻みつけるように反芻する。
『……それなら、あれがその片割れを待ってるって思ったら、少しはマシじゃねぇか?』
ふいに、胸がつまった。
片割れがいるんだってさ。
小さく笑って、アスファルトの上の小石を蹴る。
いつもと違う月をくれた人。けれどその片割れはいない。空白が埋まることは、けっしてない。
鼻の奥がツンとして、視界が次第に歪んできたので、目をごしごしこすった。
「なまえ、どうした?」
「……なんでもない」
心配そうにこちらへ顔を向ける哲ちゃんに、笑顔で首を振った。
地面に引かれた白線を眺めながら思う。現在見ている半月と、純さんと見た半月、そしてもっと幼い頃に見た半月。様々な時間軸のそれが重なり合って、一つの像を結ぶ。そして、心のもっと深い、深いところに蘇るのは、原始的な懐かしさと淋しさ。
胸がざわざわした。純さんのことだけじゃない。――静かな予感が、あった。
玄関の戸を開けると、母の話し声が耳に入った。一人分の声だったので電話だとすぐにわかる。
「なまえ、電話」
帰宅に気づいた母が、居間から私の名を呼ぶ。すると再び胸騒ぎがして、バットを握る手が急に重くなった気がした。
私は居間へ入り、先ほど感じた予感を口にした。
「……おばさん?」
母はうなずくと、早く出なさい、と急かすようにこちらへ受話器を寄越す。
私はうっそりと電話へ近づき、感情の定まらないまま受話器を取った。
「もしもし――」
腐れ縁って本当にあるんだと思った高二の春。すっかり体に馴染んだ制服に腕を通し、通い慣れた通学路を行く。その足取りはもう、淀みなく目的地へと向かっていた。校庭の桜はまだ蕾で、時折吹く冷たさの残る風に、その身をふるふる震わせていた。――今日から二年生になる。
クラス発表の掲示板の前は、たくさんの生徒でごった返していた。親しい者と同じクラスになれて歓声をあげる者、逆に離れてしまって悲痛な声を出す者、その反応は多種多様だ。
私はといえば、ちょうどB組に自分の名前を見つけ、それから運が良いことに友達の友ちゃんの名前も発見し、二人で手を叩いて喜んでいた。それから何気なく掲示板へ視線を戻すと、発見した「御幸」と「倉持」の名前。ああ、今年も同じクラスなのかと、自分でも無意識に予想していたのか、不思議と腑に落ちた。
するとその時、ちょうど掲示板を眺めていた二人を近くに見つけた。なんだかんだで仲は悪くないらしい。本人たちがどう思っているかは知らないけれど。
倉持くんはあきれたように言った。
「まーた今年もテメェと一緒かよ」
「なに? 今年も俺と一緒でうれしいって?」
「あ?! んなわけねーだろ! 耳腐ってんのか!」
「はっはっはっ! さっさとそのヤンキーオーラしまえ」
「そのメガネ割んぞコラ!!」
騒がしいやりとりはあいかわらずらしい。私は快活に笑う御幸くんと目が合った。
「お、二人目の腐れ縁だな」
「どーも」
向こうも同じことを思ったのか、互いに目配せをし合い、いたずらっぽく笑う。倉持くんは気だるそうにあくびをして、
「あんまし変わりばえのしねぇメンツだな」
「でも友達いない同士よかったんじゃない? 修学旅行もあるし、案外先生が気遣ってくれたんだったりして」
「は?! 誰が友達いねーだって? コイツと一緒にすんじゃねぇ!」
「はいはい」
「おい聞いてんのかなまえ」
純さんとのことがあったから、自分にとってこの変わらない日常がありがたかった。
数日後のお昼休み。私は昼ごはんを買うため購買へと向かっていた。そしてちょうど一階のフロアに着いた時、その声は聞こえた。
「だー、もう! ここどこだよ?!」
様子を見るため廊下を進むと、目の前にいた男子生徒が大きな声で叫んでいた。その男子の身長は御幸くんと倉持くんとの間くらい。制服はまだ真新しく、体に馴染んでいない雰囲気だったのできっと一年生だろうと思った。
動作がいちいち大げさで、一人芝居のようにキョロキョロしては表情を変えている。
「なんでこんな広いんだよ。くっそ、こんなコンクリートジャングルなんかに負けてたまっか……」
今度はガクッと肩を落として、目に見えて落ち込みはじめた。いろいろ忙しい子だなぁと思う。その様子から察するに、きっとどこかの教室を探しているんだろう。そう検討をつけた私は、その男子に声をかけた。
「どっか探してるの?」
「へ?」
声をかけられて驚いたらしく、男子は目を丸くした。
「迷ってるみたいだったから」
すると一気に顔を輝かせ、
「そーなんだよ! 俺、購買行きたくてさ」
「それなら私も今から行くし案内するよ」
「いーのか?! わりぃな!」
思わぬ助け舟に安堵したのか、黒目がちな目をキラキラさせて私を見る。その人懐こそうな瞳はどこか子犬を思わせた。
それから私たちは並んで歩き出した。
「ここ広くってさぁ、助かったぜ。人も多いし」
「まぁ、最初はそう感じるかもしれないけど、じきに慣れるよ」
「中学は小さかったからなー」
「へぇ、どこ中?」
「赤城中。……今はねーけどな」
私はつかの間、思案してから問いかけた。
「ごめん、わかんないや。何県?」
「長野。俺の育ったとこは、自然は多いし空気はうまいしいいとこだぜ」
「そっか、じゃあ上京してきたんだ。今はないっていうのは?」
その時、男子はなぜか急に足を止めた。私もそれにならって立ち止まる。
「……廃校になったんだ。だから今はもうねぇ。でも、その魂までなくなるわけじゃねーから」
そうつぶやいて、少し淋しそうに窓の外に視線をやる。その目は、ここではないどこか遠くを慈しんでいるように見えた。
「そっか。……その学校のこと好きだったんだね」
「ああ」
初対面の人物の思わぬ深淵を覗いた気がして、私はただ黙ってうなずくしかなかった。
だけどすぐ、男子はまた大声を上げて、
「しまった! 遅れっと技食らうんだったぁ! 」
「わ、技ぁ? そんなまた物騒な」
「急げ!」
「ちょっ……!」
男子はさっと顔色を変え、私の腕を掴んで走り出した。進む方向が購買とは逆だったので、今度はこちらがぐいっと引っ張って先導する。
やっとのことで購買にたどり着いた時、先ほどまで威勢の良かった男子は途端に、げ、という顔をした。
「なんでこんなに混んでんだよ?!」
「お昼は戦争! ほら行くよ!」
私たちはそのまま混雑する販売所へと突進していった。
それからしばしの戦いを終え、戦利品を手に人混みを離れる。
「……ドーナツしか残ってねーなんて……」
「なんかお目当のパンあったの?」
「……焼きそばパン」
「そんなのすぐ売り切れちゃうよ。人気商品だし」
「な?! くっそ、あいつ図りやがって……!」
がっくり肩を落としてうなだれているので、しばらく慰めていると、背後から声がかかった。
「なまえ?」
振り返ると、哲ちゃんと純さんがこちらに歩いてくるところだった。
「あ、哲ちゃん。……と、純さん」
哲ちゃんが私の隣の男子を見て、首をひねった。
「なまえと沢村は知り合いだったのか?」
「いや、今知り合ったとこ。……ってことは、沢村くん? は野球部?」
その男子――沢村くんに目を向けると、慌てて体を礼儀正しく45度に折り、大きな声を上げた。
「チッス! キャプテン!! ……と、なんとか先輩。えーっと……ヒゲ先輩!」
「誰がヒゲ先輩だオラ! 名前ぐらい覚えろや!」
名前を忘れられた純さんは、火がついたように吠えた。
「すんません!!」
「威勢良く謝ればいーってもんじゃねぇぞ!」
「さーせん!!」
二人のどつき合いのようなやりとりのあと、沢村くんは不思議そうに私を見た。
「ってことは、あんたはキャプテンたちの知り合いか?」
「うん。結城なまえ。妹だよ」
改めてよろしくという意味を込めて会釈すると、沢村くんはまた大げさに頭を下げた。
「キャプテンの妹さんだったとはとんだ無礼を! ……今更ですけど一年?」
「二年だよ」
「しまったぁぁ! てっきり同じ一年とばかり!」
「はは、もういいよ……」
沢村くんは謝りながらも、失礼な発言をしていることにさっぱり気づいていないらしい。きっとこういう性格なんだろう。私は私で、まだまだ先輩オーラが足りないということだ。
「でも、あんま似てませんね」
沢村くんは私と哲ちゃんの顔を見比べて口にした。こう言われるのは、今やもう慣れっこだ。けれど――
「あ? 似てんだろ」
瞬間、胸がどきりと音を立てた。その言葉に驚いて、声の主を見る。哲ちゃんも表情を止め、純さんの方を見た。
すると純さんは不機嫌そうに顔を歪め、
「目の悪ぃピッチャーなんて使ってくんねーぞ監督は」
「俺、目はいい方ッス!」
「じゃあ似てんだろ。もっかいよく見ろ」
「ハイ、よぅっく似てるッス! そっくりッス! まるで双子!!」
「おーし」
満足げにうなずく純さんがなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
「純さん、それパワハラですよ……」
「あ? しつけだしつけ! なってねぇ一年生しつけんのは当然だろ」
「またそんな横暴な」
私がしばらく笑っていると、
「さーわーむーらぁー……」
背後で不穏な声がした。
その声を聞いた沢村くんは青い顔をしながら、ギギギと音がしそうなほどぎこちなく振り向く。
「くくく倉持先輩!!……と、御幸一也ぁ!」
「テメェ、パン買うのにいつまでかかってんだ! 弁当とっくに食い終わったっつーのに。罰ゲームってこと忘れてんじゃねぇだろーな?!」
倉持くんがヤンキー丸出しのいかつい表情で沢村くんに迫る。
「そりゃあんたが無理やり誘ったゲームだろーがいででで!」
「先輩にタメ口禁止!」
「それと沢村。俺、一応先輩だからなー」
倉持くんがなんだかよくわからないプロレス技を沢村くんにかけ始めた。たまらず絶叫する沢村くん。そんな二人をニヤニヤしながら眺める御幸くん。
周囲の生徒たちは、何事かとおもしろそうに見物していた。
私は久しぶりに楽しい気持ちになり、純さんへ自然に話しかけていた。
「おもしろい子が入ったんですね」
「……戦力になんのかは、まだわかんねーけどな」
ニヤリと口の端を上げる純さんは、なんだかんだ言って後輩の成長を期待しているらしい。絶対的なエースのいない今の青道に、ピッチャーの存在は貴重だろう。まだ未知数の可能性に、私も今からワクワクしていた。
ばれないように、ちらりと純さんの方へ視線をやる。こうしてまた、少しずつでも以前のように話せたら。そんな淡い期待を抱きながら、ゆったりと午後の喧騒に身を任せた。
たとえ望む関係になれなくても。妹のようだと言われても、欠けた半分になれなくても。そばにいることくらい許されるだろう。今はただ、それだけで。
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