41. 本当の嘘

 柔らかな午後の光が降り注ぐ中庭。見上げた空は晴れ晴れとしているものの、季節はまだ二月下旬。ブレザーの下にセーターを着ていても、むき出しの膝には絶えず木枯らしが吹き付けて、体は温度を奪われるばかりだ。
 小湊さんと私は中庭のベンチに腰掛けていた。互いの手には、すでにぬるくなり始めた缶コーヒーが握られている。ちなみに、これは私からの相談料だ。
 先ほど私は胸の内を一気に吐露し終え、黙り込んでいた。先に静寂を破ったのは小湊さんだ。

「それってさ、純は勘違いしちゃったんじゃない?」
「……え……」

 小湊さんは表情を変えることなく口にした。柔和さと鋭さを兼ね備えた切れ長の目から、感情を読み取るのは毎度のこと至難の技だ。

「だから、なまえちゃんが御幸に本命チョコあげるって」
「まさか! だって席に座ってただけですよ? そんなことあるわけ……」
「あるわけ?」
「…………」
「少女マンガ好きだよね、純」
「はい……」
「状況証拠っていうのもヘンだけど、勝手な想像で勘違いしたんじゃない?」

 その時、自分の口から、あ、という間抜けな声だけがもれた。そうかもしれない――いや、きっとそうだ。純さんは少女マンガ好きだ。少女マンガには「そんな都合のいい場面に偶然遭遇するがわけない」という展開がたびたびある。そしてそれはあの日、奇しくも現実に起こってしまった。最悪の形で。
 ややあって、私は口を開いた。

「じゃあ私は、御幸くんに本命チョコを渡せなくて、放課後好きな人の机で泣いてるって状況だったと」
「そういうことになるね」
「でも、純さんにはちゃっかり義理チョコ渡して」
「うん」
「…………」
「死にそうな顔してるよ」
「さ、寒いからです」

 震えながら精いっぱいの強がりで返した。
 ぴゅう、と冷たい風が吹き私の前髪をさらう。体がいっそう冷えてきた気がして、無防備な膝を手で擦ってみる。すると、あの日教室を立ち去る前、純さんが吐き捨てるように残した言葉を思い出しはっとした。

「『そういうこと』って、そういうことだったんだ……」

 私がぼそりと呟くと、小湊さんはかすかに眉をひそめた。なんでもないです、とごまかして深いため息をつく。

「そりゃあ気分悪いですよね。本命チョコ渡すような状況作っておいてそれって……」
「まぁね」

 都合のいいように考えれば、私からチョコがもらえなかったことで不機嫌になったのは、こちらからのチョコを少しでも期待していたとも取れる。それならうれしい。でも、バカにされたと、ただ気分を害しただけかもしれない。心が音を立ててしぼんでいくような気がした。思わず顔を伏せて、ローファーの先をじっと見つめる。

「……純さん最近、よそよそしいんですよね、態度が。話しかけたら応えてくれるんですけど、早く会話を切り上げたい感じっていうか」
「ふぅん」
「絶対、あのバレンタインの日からなんですよ」
「まぁ、純はわかりやすいからね」
「ああどうしよう……」

 小湊さんは頭を抱える私を一瞥したあと、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。空になった缶を揺らしながら、

「さぁ?」

 いつものように微笑むだけ。

「あの……何かこう、ありがたいアドバイスとかないですか?」
「なにそれ?」
「えー……」
「『えー』じゃない」

 てっきり何かアドバイスをくれるものと期待していた私は、小湊さんに突き放されて急に心細い気持ちになった。それは、数日間海を漂流してやっと巡り会えた救命艇に、救出を拒否されたようなものだ。だけど、今の自分の気持ちを吐き出しただけで、ずいぶん楽になったのもまた事実だった。それにこの厳しさも、小湊さんなりの優しさだと今ならわかる。
 それから小湊さんは空いた缶をベンチの上に置き、私の方を向いた。その顔は、もう笑っていない。

「自分のことは、自分で決める」
「……はい」
「だいたい甘え過ぎ」

 そう言われたと同時に、脳天に鋭い痛みが走った。伝家の宝刀、小湊チョップ。

「いたっ!」
「あ、痛かった?」
「そりゃあもう!」

 私がわめいても、当の本人は再びにっこり笑うだけ。チョップを受けた頭を押さえると、痛みでじんじんしたけれど、なぜだかとても温かかった。
 複雑に絡み合った糸を解く方法はわかっていた。それは、とても簡単なこと。どれだけ私が声を大にして、御幸くんに本命チョコをあげるつもりじゃなかったと言っても、信じてもらうのは容易じゃない。だから、自分の本当の気持ちを告げるしかない――純さんが、好きだと。けれど私はあの日知ってしまった。純さんは「野球に集中したい」と告白を断っているから、その理由は私にも当てはまる。玉砕前提の告白なんて悲しすぎて、そんな勇気がなくて、足はすくんでしまう。誤解を解きたいから告白したいのに、告白したら振られてしまう。私はこのジレンマの迷宮をひたすら彷徨い続けて、でも依然出口は見つからないままだ。


 翌日の昼休み、私は純さんの教室へと向かった。

「純さん、マンガありがとうございました」
「あー、いつでもよかったのに」
「いえ、長々と借りてましたし」

 純さんの方を窺うと、その態度はやっぱりどこかぎこちない。
 私は廊下へと視線をやり、

「ちょっとお話いいですか?」

 と促した。
 純さんは、ああ、と歯切れ悪く返事したあと、黙ってあとをついて来た。今の私たちは以前のような気の置けない関係には程遠く、それが悲しくて、胸がぎゅっと締めつけられる思いがした。
 生徒たちの喧騒からは少し離れた廊下の端まで来た。ここなら静かに話ができる。窓の外では、冬枯れした木が凍てついた風で寂しげに揺れていた。
 とりあえず御幸くんに関する誤解を解くため、こうして純さんを連れ出したものの、どう話を切り出すべきか私はしばし途方に暮れていた。手持ち無沙汰にスカートのプリーツを正してから、思いきって顔を上げる。

「バレンタインのチョコおいしかったですか?」
「おう。うまかったぜ」
「よかったです」

 しかしそこで会話は途切れ、再び静寂が支配する。いつもだったら何も考えなくても会話が自然に続いたのに、最近は全然うまくいかない。このまま黙っていても仕方ないので、私はいよいよ本題を切り出すことにした。

「あの……あの時の教室でのことなんですけど」
「教室?」
「えと、その……」
「ああ……」

 純さんは私から視線を背け、うなずいた。
 私はすっと息を吸い込み、覚悟を決める。

「あれは――」
「安心しろよ」
「……え?」

 一瞬わけがわからず、思わず訊き返した。何の「安心」だろう。でもなぜか、心が嫌な感じにざわざわ波立っていくのがわかった。
 純さんはぎこちなく笑って、噛んで含めるように言った。

「御幸には黙っといてやるから安心しろ」
「あ……」
「好きなんだろ? 御幸のこと」

 ずきりと、胸に痛みが走った。真剣な目でこちらを見つめてくるものだから、返事に窮してしまう。そして、やはり純さんは誤解していた。
 ――違う、違う。そうじゃない。
 心は否定の言葉でとめどなく溢れ、その一つを押し出すように口を開いた。

「……違い、ます」

 けれど心とは裏腹に、御幸くんとのことを誤解されていたことがショックで、声は消え入りそうになる。純さんの顔が見られなくなって、唇を噛みしめ、廊下のタイルを睨みつけた。
 ――違う、違う。
 もっと強く否定して、本当のことを言わなければ。届くように伝えなければ。そう思うのに、またあのジレンマが邪魔をして、真実の気持ちを摘み取られる。ほら、ちゃんと自分の素直な想いを――

「大切に思ってっから。なまえのこと」

 一瞬。廊下が水を打ったように静まり返った気がした。しかしすぐに、外で轟く風が窓をガタッと揺らしたのを合図に、いつもの騒がしい日常が戻る。
 純さんの静かな言葉に、びっくりしてそちらを見つめる。その顔は、悲しいくらい優しかった。

「妹みてぇに、思ってる」
「妹……?」
「俺、姉貴しかいねぇからよ、妹がいたらこんな感じじゃねぇかって」

 純さんは照れくさそうに頭をかいた。
 その時、自分の頬の筋肉が硬くなるのがわかったけれど、無理に口角を引き上げた。
 大切だと言ってくれた。純さんが私のこと、大切だと言ってくれた。
 その言葉を、大事に宝箱へしまっておきたいほどにうれしかった。でもそれは、けっして真に欲していたものじゃない。……違う。違う、違う、と頭の中で脅迫観念のように幾度もこだまする。喉の奥がずんと重く、からからに渇いていたけれど、やっとのことで言葉を吐いた。

「あ、ああ……妹ですか。うれしいです」

 どうして私の口は平気で嘘をつくのだろう。うれしくない。こんなのちっとも、うれしくない。

「哲ちゃんが長男で、純さんが次男って感じですね」
「俺は哲より下かよ! 俺のが誕生日先だぜ?!」
「なんとなくイメージです」
「どういうことだオラァ!」

 吠える純さんをなだめるように短く笑った。
 心はズキズキ痛むのに、自分の口からは驚くほどすらすらと言葉が出た。偽りの気持ちだったら、ほら。こんなにも簡単に口にできる。
 不思議と涙は出なかった。きっと感情が麻痺して、うまく心と繋がらないのだ。
 純さんは私の方へ歩み寄り、ぽんと軽く肩に触れた。

「……がんばれよ」

 純さんの手が、スローモーションのようにゆっくり離れる。その優しい手を取って、すがりついて泣いてしまいたかった。しかし体は凍りついたように動かない。足音が次第に遠ざかって、教室に消えるまでずっとその場で立ち尽くしていた。感情がバカになったみたいに、やはり涙は出ない。
 それからふと窓の外を見ると、くすんだ水色の空に、かすれたように白い真昼の月が浮かんでいた。ちょうど真ん中で半分に割ったような、きれいな上弦の月。
 その時唐突に、以前、純さんと夜のコンビニで偶然出会った日が蘇った。あの日、純さんは半分の月を、もう半分を待っているんだと言った。その発言はまるで少女マンガみたいで。私はこれまできっと、無意識に純さんの“もう半分”になることを求めていたのだろう。
 今になってやっと、頬に温かいものが伝う。耳の奥で何かが割れる音がした。これはきっと、もう半分の月だ。ばらばらになった欠片は、私の心に突き刺さり、そこからじくじく膿んで痛みが増してゆく。
 いっそ「野球に集中したい」と言われた方がよかった。それならまだ望みはあるから。“妹”じゃ到底叶わない。――叶わない。



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