02. グロリアスマインド

「あー、来てみて納得です。本当、噂通りですねぇ」

 部活帰り、いつもの場所に自転車をとめていると、青道のグラウンドの脇にギャラリーを二人発見した。隠居暮らし風のおじいさんと、会社帰りの中年サラリーマンだ。きっと近所の昔からの野球好きだろう。
 五月も後半に入り、最近めっきり暖かくなっていた。衣替えまではあと数日あり、黒っぽい冬のセーラー服が今はとても重く感じる。
 数週間前、久々に青道の練習を見学して以来、小学生の時のワクワク感が蘇り、私は練習を見るのが楽しみになっていた。青道は近所のうえ、部活帰りに少し見るだけなので、帰りが遅いと母に咎められることも特にない。

 こんな時間にギャラリーなんて珍しいと、二人の会話にしばし耳を傾ける。
噂って何の噂だろう。

「だろ?見ろよあの守備! あれも一年だろ? ヘタクソすぎて見ちゃおれねぇぜ」

 おじいさんが顔を歪めながら、顎でグラウンドの方を示す。今、ボールをキャッチし損ねたのは哲ちゃんだった。

「そうですねぇ。あの走ってる子たちも一年ですか? ああ、あの子はかなり小柄ですね。あ、あっちのはありゃあ太りすぎです。もっと痩せないと」

 ランニングしている小柄な人は、アラジンのようなだぶだぶの大きなズボンを履いていた。買うサイズを間違えたのだろうか。太めの人はかなり体が重そうだ。
 ずいぶん言いたい放題だなぁと、私はサラリーマンのメタボなお腹を見る。まぁ、この手の人たちは昔からいた。私がいつもの用具倉庫の裏へ足を向けかけた時、またおじいさんが言った。

「ほら見てみろよ、あのブルペンの二人も一年なんだぜ」

 その言葉に反応しブルペンの方を覗くと、背の高い人と哲ちゃんのライバル(?)の怖い顔の人が投げていた。あの人はピッチャーだったのか。どんな球を投げるんだろうと期待を込めて見守る。

「うおーっ!」

 盛大な雄叫びとともに、豪快なフォームで振りかぶる。ズバァン!と良い音をさせながらキャッチャーミットに収まった。
 キャッチャーの頭上、遥か高い位置で。

「どうっスか! 俺のバズーカボール!!」
「全然ストライク入ってねーよ! バカヤロォ!」

 キャッチャーの人が怒鳴りながら投げ返す。もし打席にバッターが立っていたとしたら、間違いなく頭へデッドボール直撃だろう。

「…………」

 今の一球はたまたまかと思い、しばらく観察する。

「ぬおーっ!」

 勢いよく投げ込んだ渾身のストレートは、キャッチャーの手前でワンバンしキャッチャーの、いわゆる秘密の花園に直撃した。だるまのようにうずくまり、痛みに耐えている。

「っ……」
「っスンマセンっしたぁあ!」

 女の私にはわからないが、きっと相当痛いのだろう。おじいさんは手を叩きながら大爆笑し、サラリーマンは腹を揺らしてもう腹筋崩壊気味だ。
 わかったのはどうやらかなりのノーコンということだった。私は腕を組んでうなる。

「いい肩はしてるんだけどなぁ」

 でも、まさしく全力投球という感じで懸命に投げている姿が印象的だった。けれど隣の背の高い人の方が制球力もあり、ピッチャーとして使ってもらえそうだ。ただ、一球投げるごとにいちいちオドオドしていた。

「なんだよアイツら、全然ダメじゃねーか! ノーコンとビビりか!」
「うーん、今年も青道は絶対的エース不在ですかね。関東大会の成績も振るわなかったですし」
「あ、でもキャッチャーでいい一年がいるんだぜ。なんとあのアニマルの息子!」
「ええ?! どれです?」

 おじいさんが指差した方を見ると、そのアニマルの息子さんはすでにレギュラーチームに混じって練習をしていた。マスクを被っていたので顔ははっきりわからない。元プロ選手の息子という大層な身分の人も哲ちゃんの同期だったのか。

「いやぁ、まさに掃き溜めに鶴ですね! ははは!」

 多少むっとしたものの、他人の評判なんて気にしないでおこうと歩き始めた次の瞬間、耳を疑うような言葉が飛び込んできた。

「本当、噂通り今年の一年は『不作の年』だろ?!」

 頭を鈍器で思いきり殴られたみたいだった。
 不作の、年......?
 懸命に努力している哲ちゃんたちが、周囲からはそんな風に言われていたなんて。

「スカウトもうまくいかなかったって話じゃねーか」
「青道は最近、甲子園出てませんしね。強い子たちはみんな稲実や市大に流れるんでしょうか」

 サラリーマンは「どうです?このあと一杯」などと言ってお猪口を傾けるポーズをしている。このあと飲みにでも行くんだろう。
 この人たちに別に悪気はない。むしろ可愛さ余って憎さ百倍みたいなもので、応援している学校が勝ちきれないのが悔しいんだろう。私は唇を噛みしめた。
 おじいさんたちが私の側を通る。

「うおっ?! お嬢ちゃんいたのかい?」
「もう遅いし危ないよ。気をつけて帰りなさい」

 私から何か、悔しさとか怒りとかが混ざったオーラが滲み出ていたのかもしれない。おじいさんたちは予想外に驚いていた。

「……はい」

 ここで私が反論したって何の意味もない。あいかわらずグラウンドでは、またボールを取り損なった哲ちゃんが先輩にどやされている。その時私はふと、兄がよく語っていた言葉を思い出した。


 私が帰宅してからしばらくして、哲ちゃんも帰ってきた。今日も今日とて箸を持ちながら眠りこけている。
 私は山盛りのごはん茶碗をそっと置いた。眠る兄の、眉間の皺は深い。きっとあの心無い評判は、兄たちの耳にも入っているんだろう。

 私は、居間の戸棚に保管していた青道高校の入学案内のパンフレットを出して、哲ちゃんの向かいに腰かける。表紙には、青道の制服を着た男子と女子が健康的な笑顔を浮かべている。当然、野球部の写真も載っていた。
 野球強豪校は、周囲からの期待がものすごい。いざ甲子園出場が決まった時は、OBたちへ寄付の要請が来て、とても大きなお金が動く。父が青道の卒業生なので、うちにも数年前はよく来ていた。最近は、幸か不幸かめっきりなくなったが。
 高校野球は、球児の汗と涙と感動などと言われているけれど、大人の事情も大きく絡んでくる。学校関係者やOB、雑誌記者、昔から応援する近所の人たち、野球部は非常に多くの人々に見られている。特に青道の卒業生の多いこの辺りの地区では、小さい頃からそういった空気をひしひしと感じていた。おそらくそれは兄も同じだろう。

 コクリコクリと舟をこいでいた哲ちゃんの顔面が、アツアツごはんにダイブしそうだったので、私は慌てて茶碗を引っ込めた。目の前でゴチンと音が鳴る。この場合、テーブルとごはん、どちらがよかったんだろう。

「――はっ! 素振りしに行って来る!」

 私は立ち上がった哲ちゃんの腕を掴んで引き止めた。

「ごはん! ごはん食べてから行こう!」

 その瞳に次第に意思が戻ってくる。

「……そうだな」

 哲ちゃんは、ぼんやりした表情のまま再び食卓についた。

「お味噌汁あっためようか?」
「ああ、頼む」

 そう言いながらあくびを連発していた。
 私は鍋の中で踊るワカメを見つめる。

「哲ちゃんの同級生にアニマルの息子さんがいるんだって?」
「ああ。クリスっていうんだが、かなり実力のあるキャッチャーでな、もう一軍で練習している」
「へぇ」

 何気なく振った話題が、今は地雷かもしれないと思い、どうやって逸らそうかと悩む。

「アニマルと似てる?」
「うむ……あまり似ていないな。ああ、でも現役時代の頃と比べると似ているかもしれん」

 アニマルのように息子も「ミーは」とか言うんだろうか。

「それは見てみたいなぁ。――あ、そういや哲ちゃんって野球部にライバルとかいるの?」
「なんだ、急に。……そうだな、一年生全員がライバルだな。もちろん先輩達もだが。そういえば何かと俺につっかかってくる奴はいる。伊佐敷というんだが」

 やっぱりだった。“伊佐敷さん”か。珍しい名字だ。

「へ、へぇー、……ぷっ!」

 私は今日のブルペンでの出来事が蘇り思わず吹き出した。"伊佐敷さん”ごめん、と心の中で謝る。
 哲ちゃんは不思議そうに私を見たあと静かに微笑んだ。

「……あいつをはじめ、一年全員が厳しい練習に必死で耐えている。その事が自分にとっていい刺激になっているのかもな」
「そっか。頼もしい仲間がいるんだね」
「ああ。ご飯を六杯食べる奴もいるし、よく吠える奴もいる。デカイくせにノミの心臓のような奴もいるな。逆に小さいが気の強い奴もいる」
「みんなキャラ濃いね」

 それはあの人のことかな?それともあの人?と、想像を巡らす。どちらかといえば寡黙な兄が、今日は珍しく饒舌だった。仲間の話を楽しそうにしているのが私もうれしかった。

 ワカメが激しくダンスし始めたのでお鍋の火を止める。

「はいどうぞ」
「ああ、すまんな」

 私は拳をぎゅっと握りしめ下を向く。

「――あのさ」

 それから顔を上げて、美味そうにお味噌汁をすする兄の目を見つめた。

「何を言われても『答えはグラウンドの上で出してやればいい』んだもんね!」

 哲ちゃんがお味噌汁からちらりと視線を上げた。

「ああ」

 私の唐突な言葉の、本当の意味を理解しているかはわからない。それでも兄は笑ってくれた。



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