40. ドッグファイト(後編)

 ※作中に「君.に.届.け」7巻の内容が一部登場します

 今日の練習で、純は珍しくエラーを重ねた。たまたま調子が悪かっただけかもしれないが、来月からいよいよ公式戦が解禁されるため、気を引き締めていかなければならないのは確かだ。それは俺とて同じ。
 現在、純は寮の部屋でカーペットの上にごろりと仰向けになり、ぼんやりマンガを読んでいた。だがその目はどこか虚ろで、果たして内容が頭に入っているのか否か。
 もう練習は終わり、とっぷり日が暮れていたが、純の様子が気になった俺は適当に理由をつけてこの部屋に居座っていた。今日、クラスの女子から貰ったチョコレートへ手を伸ばし、口へ運ぶ。甘い。
 詰将棋の本をペラリと捲るふりをして純へ視線をやる。先ほどと特に変わりなし。それから、視界の端で同じく読書をする亮介を捉えた。
 亮介はぱたんと文庫本を閉じ、そばに置いた。

「純さ、今日の守備なにあれ」
「あ?」
「打球に追いついてない、情けないトンネル、返球はひどいノーコン。やる気あんの?」
「……うるせぇな。わかってるよ」
「ならいいけど。明日まで引きずってるようじゃチョップ千回叩きこむから」

 純はマンガから視線を外すことなくフンと鼻を鳴らした。
 亮介と目が合う。俺が同意するように頷くと、亮介はお手上げだという風に首を振った。
 寝転がった純の頭の横には、最近のお気に入りらしい少女マンガ、通称・キミトドがうず高く積まれていた。俺も途中まで読んだが、心に深く感じ入る素晴らしい物語だと思う。

「チッス」

 その時唐突に、部屋のドアが開いた。御幸が軽く会釈をして三和土へ立つ。

「あ、哲さんまだいたんスか?」
「ああ、ちょっとな。たまには寮生活体験をと」
「? ……はぁ。ところで先輩方、コレどうッスか?」

 と、大きな袋を持ち上げた。その中身はどうやらチョコレートらしい。が、俺はその袋の方に目を引かれた。なんとなく見覚えがあったからだ。誰のものだったか。
 そんなことを考えながら何気なく純の方を見ると、先ほどまで何の反応も示さなかったあいつが、なぜか御幸の方に意識を集中させていた。あいかわらず顔の前にマンガを広げてはいたが、その下から鋭い目が覗いている。なかなかに怖い光景だ。
 亮介が袋を一瞥して、興味なさそうに呟いた。

「なにそれ、自慢?」
「はっは。やだなぁ。一人じゃ食いきれないだけですよ」
「やっぱ自慢じゃん」
「ま、最低なことしてんのはわかってるんですけど、捨てるよりはマシかと思って。食いモン粗末にはできないですし。――どうですか?」
「いらない」

 亮介にあっさり断られた御幸はこちらを見たが、俺も首を振った。受け取る道理はない。
 ごろり、と純が寝返りを打った。

「あ、純さんもどうッスか?」
「…………」
「純さん?」
「……いらねぇ」

 絞り出すように言って、再び大きく寝返りを打つ。先ほどからあきらかに落ち着きがなく、様子がおかしい。本当にわかりやすい奴だ。

「そういえば御幸。その袋はどうした? なんとなく見覚えがある気がするんだが……」
「ああ、なまえのです。あいつが貸してくれたんですよ」

 その時、背後でバサッと音がした。純が手を滑らせてマンガを顔に落としたらしい。不機嫌な表情のままさらに寝返りを打ち、マンガを放り出す。しばらく何か逡巡していたようだったが、やがてぽつりと口を開いた。

「御幸……お前、なまえからチョコもらったか?」
「いや、もらってねぇッスけど?」
「そっか……」
「なに? 純はなまえちゃんからチョコがもらえなかったから落ち込んでたわけ?」

 亮介が笑みを深くして純を見る。

「ちげーよ! もらったっつーの! 義理チョコ!」
「ふーん? 義理、ねぇ……」
「ほぉ……」
「うるせー! この話はやめだやめ!」
「いや、その話詳しく聞きたいですね」

 純はなおも食い下がる御幸をギロリと睨みつけたあと、すとんと勢い良く座込み、なぜか腹筋をはじめてしまった。

「……なにしてんの?」
「見りゃわかんだろ! これが背筋に見えっか?! あァ?!!」

 起き上がり、目を血走らせてこちらを見る時の目は狂犬そのもの。
 すると、御幸がおかしそうにいつもの笑い声を上げた。

「純さんなんでいきなり筋トレはじめてんですか?」
「うっせ! ムシャクシャしてっ時は身体動かすに限んだよ!」
「意味わかんないんだけど」
「いや、俺はなんとなくわかるぞ」
「哲には聞いてない」

 純は、聞こえないとでも言うように「いち! に! さん! しっ!」と大声でカウントを始めた。これはもういよいよ重症だ。

「亮さん、増子さん知りません?」
「さぁ、風呂じゃない?」
「あざっす」

 そう礼を言って御幸は部屋を出て行った。

「なるほど。なまえちゃん関係か」
「わかりやすいな」
「さんじゅうななっ! さんじゅうはちっ! さんじゅうーくっ!」


 帰宅すると、純と程度の差はあれどなまえの様子も少しおかしかった。食卓で頬杖をつき、昨日作ったらしいチョコレートケーキをぼぅっと眺めていた。

「あ、おかえり」
「ただいま」

 エナメルバッグを下ろし洗面所へ手を洗いに行く。居間へ戻ると、先ほどと同じポーズのなまえが大きなため息をついていた。

「あ、哲ちゃん。これ食べていいよ」
「……それは、誰かにあげるんじゃなかったのか?」

 なまえが、いいの、と呟いて首を振った。

「自分で食べる気はしないんだけど、お菓子に罪はないから。……よかったら食べて。表面は割れてるけど、味は大丈夫だと思う」
「そうか。では頂くか」
「うん。お皿とフォーク用意するね」

 なまえが台所へ向かう。
 俺は例のケーキを見下ろした。白い粉を被ったケーキの表面は、所々亀裂が入りそこからボロボロに割れていた。
 今日、なまえに何があったのかは知らないが、きっとあまり良くない出来事だったのだろう。それが純の態度と、どんな関係があるのかはわからない。だが、俺が口を出すべき問題ではないと思った。
 口に含んだケーキ――なまえいわく、ガトーショコラと言うそうだ――は、苦いような甘いような、バレンタインの悲喜交々を表すなんとも言えない味がした。


 数日後、練習終わりに純の部屋に寄ると、またあいつは寝転がってマンガを読んでいた。最近はプレー自体に支障はないものの、一人になると、こうやって物思いにふけることが多くなったように思う。
 ちなみに、現在読んでいるのはあいかわらずキミトドで、先ほどから七巻を舐めるように読んでいた。はて、七巻はどんな内容だったかと俺は首をひねる。だが思い出せなかったので、俺は純の隣に同じように寝転んで、その中身を覗き込んだ。

「ほう」

 ぴくりと声に反応した純がこちらを向くと、驚きでその目が見開かれた。

「っおおぉぉぉ?! て、哲?!」
「バレンタインの話か」
「いきなり隣にくんじゃねーよ! びっくりしたじゃねーか!」
「すまない」
「妖怪かなんかかと思ったぜ」

 純は興奮気味に鼻を大きく膨らませたあと、マンガを閉じた。そのまま、でんと大の字になる。

「確か、サワコがチョコを渡せない話だったな」
「……おう」
「下心入りのチョコ、だったか」
「お前よく覚えてんな」
「印象深かったからな」

 俺は真っ白い天井を見上げた。そこからわずかに右へ首をひねると、壁には逆さまのグラビアアイドルが笑っていた。それは、純でも工藤の趣味でもなく、同室だった先輩が残していったポスターらしい。どこか色褪せた笑顔が、俺たちを見下ろしていた。

「カゼハヤもよぉ、自分でチョコの催促くれぇしろっつうんだ。ただ待ってねぇで」
「それは自意識過剰じゃないか?」
「わかってんだよ! これが両片想いの醍醐味ってのはよ!」
「そうだな」
「あー、こいつ爽やかでムカつく……」

 純が歯をギリギリさせて、カゼハヤくんが表紙の巻を睨みつけている。

「そう言うな。カゼハヤくんだって必死なんだ」
「知ってらァ! こちとら連載開始当初から追ってんだよ! ナメんな!!」
「そうか」

 相槌を打って、再び天井を見上げた。そこへ吸い込まれるように、隣から弱々しい声が吐き出される。

「……わかってんだよ。そんな催促みてぇなことしたらダセェことくらい……」
「……なにかあったのか?」
「別に」

 純は俺から逃げるように、ぷいと反対側を向いた。右腕を顔にかざしたので、その表情は読めない。俺は隣から感じるその気配に、神経を集中させる。
 つかの間、純はじっとして動かず、黙りこくっていた。だがしばらく経ってから、その重い口を開いてぽつりぽつりと話しはじめた。

「女々しいことしちまったからバチが当たったんだよ……」
「…………」
「知りたくねぇことまで知っちまった」
「それは……純ではどうにもできないことなのか?」
「…………」

 その沈黙を肯定と受け取る。
 部屋の外からは、わいわいと部員たちの楽しげな話し声が聞こえた。そろそろ風呂から上がった工藤たちが帰ってくる頃だろう。
 それから純は、声を潜めるようにして言った。

「お前は……他人の心に土足で踏み込んじまった時、どうする?」
「それは練習後の汚れたスパイクでか?」
「例えだ分かれオラァ!」
「……でも、それはわざとじゃないんだろう?」

 純は苦しげに顔を歪ませて、

「違う。不可抗力みてぇなモンだ。……でも、知られたくねぇことだったんだな、とは思う」
「――そうだな」

 俺はすっと上体を起こした。

「簡単なことだ」
「……んだよ」

 純も俺に倣って、むくりと起き上がる。そしてぎゅっと口を引き結び、続きを待っていた。
 俺は隣を向いて、その目をまっすぐに見つめる。

「きちんと詫びて靴を脱げばいい。そしてもう一度、踏み込めばいいんだ。――ああ、掃除も忘れずにな」
「…………」
「どうした?」

 急に黙り込んだものだから、不思議に思い問い返す。
 そうすると純は、ゆっくり天井を仰いだあと、深く息をついた。

「お前ってやっぱスゲーな」

 その言葉に首を振る。

「俺は、そんな風に思いやれる相手に出逢えたお前の方が、すごいと思うぞ」

 すると純は、「な……」と言って固まったあと、その顔をみるみるうちに赤く染めていった。

「バカヤロー! 真顔で恥ずいこと言うな!」
「そうか?」
「マンガか!!」

 拗ねるように再びごろりと横になった純に、俺は静かに言葉を落とした。

「がんばれよ」




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