39. ドッグファイト(前編)

「哲ちゃん、辞書貸して」
「ああ、そこの本棚にあるぞ」
「ハイハイ」

 哲ちゃんは私を一瞥してから、再び机へと向かった。成績優秀の兄らしく、どんなに疲れて帰ってきても勉強は怠らない。
 二月上旬でまだまだ寒い日が続いていた。勉強中の哲ちゃんの部屋は暖房が効いていて暖かく、寒い廊下に戻るのも億劫だったので、私はその本棚を見るともなしに眺めていた。そこには、辞書や参考書に、野球のルールに関する本や、偉大な野球人の書いた自伝本、歴史小説など、いかにも兄好みの蔵書が並んでいる。
 でも、ある並びに視線が止まった時、おや、と思った。どちからと言えば地味な背表紙の本が多いなか、そこだけが妙に浮いて見えた。いかにも女子向けの可愛らしい色づかい。私は反射的にそれへ手を伸ばした。

「これって……少女マンガ、だよね?」
「ん?」

 哲ちゃんがイスごとくるりとこちらを向く。

「純さんから借りたやつ?」
「いや、自分で買った本だ」
「えー!」
「……変か?」

 不思議そうに訊き返す哲ちゃんに、私は、そんなことないけど、と返す。そんなことない、けど、やっぱり驚きだ。少女マンガどころか、マンガ自体あまり読まない兄にしては大きな変化だった。

「今まであまり興味はなかったが、読んでみると案外おもしろいものだな」
「へぇ、どんな話?」
「主人公の少女が江戸時代に行く話だ。――タイムストリップ、だったか。ん? タイムスリッパ?」
「……タイムスリップ、だよね」
「む? そうか」

 少女マンガを読んでいても、この天然ボケはあいかわらずだ。

「最初は借りてたんだが、いつでも読めるように手元に置いておきたくてな」
「うーん、哲ちゃんも純さんの影響受けてるんだ」
「それはなまえもだろう?」
「あ……うん」

 そう。私も最近、自分でも少女マンガを買うようになった。でもやっぱりまだ詳しくないから、純さんから借りたマンガの作者の別作品とか。
 スポーツでの反復練習が重要なように、何につけても繰り返しの行いというのは大きいと思う。最初はあまり馴染みのなかった少女マンガだけれど、多くの作品を読むごとに、知らず知らずの間に影響を受けているから不思議なものだ。
 そしてもうすぐ、少女マンガ界では定番とも言える、とあるイベントが始まろうとしていた。


「手作りチョコ?」
「うん。……それって迷惑なのかなって」

 お昼休みの教室。一瞬、驚きに目を見開いた友ちゃんだったが、すぐに私の肩をがっしと掴んだ。

「迷惑じゃないって! 渡すべきだよ!」
「……そうかな」
「てか、ついになまえが少女マンガのヒロインみたいなことを……」
「そ、そんなんじゃないって」
「照れるな照れるな」

 からから笑う友ちゃんの腕をぺしっと叩いたあと、机の中からお菓子のレシピ本を取り出した。これから、どのチョコがいいか相談に乗ってもらうのだ。

「やっぱりトリュフじゃ本命にしてはしょぼいのかなぁ」
「んー、ラッピングにもよるんじゃない?」
「でもあんま難しいのは作れないんだよ……」

 うーん、と唸りながらレシピ本を適当にペラペラめくる。

「そういやヒゲ先輩って甘いもの好きなの?」
「……え……」
「なに固まってんの」
「わかんない……。カップケーキは食べてくれたし大丈夫だと思うけど、自信は……ない」

 友ちゃんがふむ、と頬杖をつく。

「じゃあ甘さ控えめのビター系がいいんじゃない?」
「あ、そっか」

 そんなこんなで話は進み、結局、ガトーショコラが最有力候補に挙がった。

「チョコはいいとして、なまえはヒゲ先輩に告白するの?」
「…………」
「いかにも本命っぽいチョコを渡すだけって、思わせぶりじゃない?」
「でも……野球の邪魔は、したくないんだ」
「そっか」

 それきり友ちゃんはレシピ本に視線を落として黙りこんでしまった。
 私は野球のせいにして、臆病な自分を正当化しているだけかもしれない。けれどやっぱり、純さんの邪魔はしたくない。荷物になりたくない。ただ、冬休みのあの日に感じた想いを、自分の中だけに留めることはもうできそうになかった。うっかりするととめどなく溢れ出て、抑えきれなくなる。純さんの笑顔を見るたびに、ぽろっと言ってしまいそうになる。苦しくて苦しくて手放してしまいたい。そうすれば、少しは楽になれるだろうか。


 放課後、私は純さんに借りたマンガを返しに二年生の教室に行ったあと、お手洗いに寄った。二年生のフロアのトイレだから、普段は上級生と鉢合わせするのが気まずいので使用することはないが、放課後だったので構わないだろうと思った。案の定、人気はなく、用を足して個室から出ようとした時だった。
 入口からキィと扉が開く音と、続いて騒がしい話し声が二つ。二人は個室に入るでもなく、どうやら鏡の前を陣取っているようだった。

「どう? このグロス」
「あ、前言ってたやつ? いいじゃん」
「でしょ。高かったんだから。佐藤のやつも見せて」

 ドクリと、一瞬鼓動が大きくなる。個室のロックを外す手が止まった。私が出られなかったのは、「佐藤」という名が聞こえたからだ。
 しばらくコスメの話題が続き、私はどうしたものかと途方に暮れていた。別に出て行ったって構わないだろう。顔を合わせたのは委員会の時だけだし、その時も何か特別なことがあったわけじゃない。向こうは覚えていないかもしれない。きっと、私が勝手に意識しているだけだ。

「そういえばさぁ、佐藤はバレンタインどうすんの?」
「んー?」
「ホラ、あんた前同じクラスだった渡嘉敷だったか伊座敷? だったかいいって言ってたじゃん。あのよく吠える奴」
「ちょっ、伊佐敷だって。渡嘉敷ってなによ」
「似たようなもんじゃん」
「いや、全然違うから!」

 鼓動が早鐘を打ちはじめる。
 どうしてよりにもよってこんな場に居合わせてしまったんだろう。私は、今日の自分のイレギュラーな行動を呪った。
 今出て行ってはいけないと思い、個室に留まってなおも会話に耳を傾ける。

「――告白、するよ。バレンタイン」
「マジで?」
「……うん」
「今は隣のクラスだけどさ、来年はもっと離れちゃうかもしれないし。覚悟は決めてる」
「へぇ、あんたも立派に恋する乙女よのぅ」
「ハッ、何よそれ!」

 そのあと、トイレに楽しげな二人の笑い声が響いていたような気がしたけれど、あまり耳に入らなかった。
 ――告白。
 佐藤さんは告白する。純さんは告白される。そこから起きる展開は、二つ考えられる。けれどやっぱり、自分自身が何もしなければ蚊帳の外だ。
 じゃあ、私は。私はどうする?
 もし純さんが佐藤さんの告白を受け入れたらと想像するだけで、胸がじくじくと痛みはじめた。嫌だ。嫌だ。
 解けない問答は、結局、バレンタイン当日まで引きずることになった。


 バレンタイン前日、純さんにメールを送った。
 “明日の放課後、少しだけ時間ありますか?”
 いかにも思わせぶりという感じで、自分でもどうにかならなかったのかと頭を抱える。相手は少女マンガ愛読者だ。二月十四日という特別な日にピンとこないほうがおかしい。
 ガトーショコラは数度の試作の末、ようやくこれというものが完成した。ラッピングも完璧。どこからどう見ても本命チョコだ。ちなみに友達に配るために小包装でトリュフも用意してある。
 あとは告白するだけ。でも、こんな風に対抗するように告白してしまって、本当にいいのか。後悔はないか。――私には、わからない。


「うわぁ、こりゃまたすごいね」

 バレンタインの朝、登校してくると、御幸くんの机の上がすごいことになっていた。もちろんチョコで。
 倉持くんは大量のチョコの山をつんと突っついた。

「お前これ、食いきれんのかよ」
「ムリ。俺、甘いモン苦手なんだわ」
「はは、モテモテだね。断らなかったの?」
「食えねぇからって断ったんだけど、押し付けられたり、机に勝手に置かれたりで正直困ってる」

 御幸くんは、はぁと大きなため息をついたあと、私と倉持くんへ交互に視線を送った。

「お前ら」
「食わねーぞ。あげた女子に殺される」
「右に同じく」
「だよなぁ……」

 がっくりと肩を落とした御幸くんに同情した私は、持ち帰り用のエコバッグを貸してあげたのだった。


 放課後、私は昨日メールで指定した場所へと急いでいた。純さんはもう、佐藤さんから告白されたのかもしれないけれど、自分に確かめようもないことを心配しても仕方がない。今は自分にできることをする方が先決だ。
 場所は屋上へ続く階段の踊り場。ここには屋上への扉があるだけで、それ自体には鍵がかかっているため、誰かが出入りすることはない。人気もなく、チョコを渡すには絶好の場所だ。
 すっと大きく息を吸い込んで、吐く。がんばれ、がんばれ。自分に何度も言い聞かせる。右手に持ったチョコを入れた紙袋が揺れる。そうして階段を目の前にして、さぁ登ろうと一歩足を踏み出した時だった。

「伊佐敷……。これ」

 上から降ってくる声に、耳がすぐ反応した。間違いない、佐藤さんの声だ。

「あ?」

 その声を聞いた瞬間、膝が震えた。よりにもよって同じ場所で告白なんて。けれど、私がここを絶好の場所だと思ったように、他の人がそれに思い至ることも容易だろう。
 完全に後手に回ってしまった。さっきまで仕方ないと思っていたのに、いざ目の当たりにすると、とてつもない後悔が押し寄せる。純さんが告白にオーケーしてしまえば終わりだ。全てが終わってしまってからでは、私が何を言ったところで変えることはできない。別にバレンタイン当日でなくてもよかったのに。そうしたら私の方が先に告白できていたかもしれないのに。実現することのない“もしも”が次々と湧いては心を責め立てる。
 踊り場まで近づくことはできないから、純さんの反応がわからない。

「言っとくけど……義理じゃないから」

 しんと、一瞬沈黙が訪れる。

「私、一年の時から伊佐敷のこと……好き、なの」
「…………」
「伊佐敷には野球があるから、こういうの迷惑だってのはわかってる。……でも、やっぱ気持ちは伝えときたくて」

 紙袋の取っ手を持った右手をぎゅっと握ると、手のひらに爪が食い込んだ。
 この人も同じだ。ちゃんと純さんのことを想って告白してる。もっと自分勝手な人なら、いっそ嫌いになれたのに。
 階段の上から、沈黙がのしかかるように降りてくるのを、ひたすら靴の先を見つめて耐えていた。
 純さんは告白を受け入れるのだろうか。それとも。
 ひどく緊張した身体は、激しさを増す鼓動を全身で感じていた。純さんが告白を受け入れたら私は――。

「悪ぃ……」
「…………」
「今は、野球に集中したい」

 相手を気遣いながらも、その声ははっきり告げていた。――付き合うのは無理だと。

「そっか。ごめん、なんか気ぃ遣わせちゃって」
「いや……」
「こんなんであんたとギクシャクすんのやだからさ、またマンガ貸してよね?」
「……おう」
「ごめんね、呼び出して。じゃあ私行くわ。――バイバイ」

 その声にはっとして、私はとっさに駆け出した。そのまま近くの空き教室に身体を滑り込ませる。ドアを閉めてそこへ背中を預けると、今までの緊張が一気に解けたせいか、膝がなえてずるずるとへたりこんだ。すると心臓の音は次第に収まってきたものの、今度は不思議なほど冷静になっていった。次第に冴えていく頭で、先ほどの言葉を反芻する。

『今は野球に集中したい』

 純さんはそう言った。純さんにとって野球という存在がどれほど大きいものかわかっていたはずなのに、私はそれを邪魔しようとした。告白を断った理由がそれなら、たとえ私が言っても振られたのではないか。もし佐藤さんより私が先に告白していたら、振られていたのは私の方じゃないか。
 ――よかった。
 そう思ってしまった自分はずるい。振られたのが自分でなくてよかったと安心する自分はずるい。けれどやっぱり、振られるよりマシだ。
 感情の振り子は、大きな振り幅で激しく揺れる。心の中があちこち散らかっていて収集がつかない。
 考えてみれば、私が落ち込む理由なんてどこにもない。佐藤さんは勇気を出して告白した。でも私は尻尾を巻いて逃げ出した。落ち込む方がおこがましくて、臆病な私は佐藤さんと同じスタートラインにすら立っていなかった。
 手に持った紙袋を見つめながら、これからどうしようかと途方に暮れる。呼び出した以上、私はあの場所へ戻らなくてはならない。
 しばらく膝を抱えながら逡巡して、私は空き教室を出た。


「遅れてすいません」
「おー」

 一旦教室に戻ってから、少し遅れて踊り場に行くと、純さんはまだ待っていてくれた。
 ここは常に薄暗い。側にある屋上へ続く扉には曇りガラスしかついておらず、わずかな光だけが踊り場を照らしていた。
 純さんはいじっていた携帯をズボンのポケットに突っ込み、こちらを向く。感情を隠すのがヘタなのか、まだわずかに沈んだ顔をしていた。私はその理由を知っているけれど、知らないフリをしなくてはいけない。
 わざと明るい口調で言った。

「純さん。手、出してください」
「ん? こうか?」

 疑問符を浮かべた純さんが右手を広げる。自分のものよりずっと大きな手のひら。これは、野球をするための手だ。
 私はそこへチョコを乗せた。ばらばらと、数個。小粒のトリュフの包み紙が、薄暗いなかかすかな光を反射する。

「いつもお世話になってるんで、お礼です」
「礼?」
「えーと、マンガ貸してくれたりとか、困った時に助けてくれたりとか……とにかく! お世話になってるんでお礼のチョコです」

 少し苦しいような気もしたけれど、ありえなくはないはずだ。きっと疑問に思ったりなんてしない。
 しかし純さんは、手のひらのチョコをじっと見つめたまま神妙な面持ちで口を開いた。

「……こんだけか?」
「……え……」

 揺り戻しのように、どくりどくりと鼓動が激しく打ちはじめる。もしかしたら、私のさっきまでの行いを見透かされたのかもしれない。ありえないはずなのに、じわりと、そんな妄執に囚われる。
 でも次の瞬間。純さんはニヤリと笑った。

「ちいせぇなぁ。礼ならもっとデカイの持ってこいよ」
「え……あ」
「こんなんじゃ腹の足しにもなんねぇ。――けど、しょうがねぇからもらってやる」

 と、トリュフをぎゅっと握りこんだので、私はようやく胸を撫で下ろした。

「あ、はは……。気がきかなくてすいません。来年はこれの二倍のやつ作りますね」
「単にデカくしただけかよ!」
「じゃあ数も増やして」
「テメェはこれ以外作るって発想はねーのか!」
「えー、そんな難しいの作れません」

 しばらく冗談を交わし合ってから、純さんは私の目を見たあと、静かに言った。

「……ありがとな」
「はい……! 来年ももらってください」
「おう!」

 せめて今だけはと、めいいっぱいの笑顔をつくってその場を後にした。


 ガラリと教室のドアを開けた。もうみんな帰ってしまっていて誰もいない。そろそろ部活に行かなくてはいけないのに、全くそんな気分になれない。心が、重い。
 ふらふらと自分の席へ向かいかけたその時、私はそれを発見した。御幸くんの机の上に乗ったスコアブック。きっと忘れたまま部活に行ったんだろう。御幸くんも今日は終始女子に呼び出されたりで忙しかったから、そのせいかもしれない。まだ職員室に先生が残っているかもしれないから、あとでついでに届けよう。頭ではそう理解しているのに、身体が妙に重い。そのまま堪えきれず御幸くんの席に座りこんだ。
 紙袋を乱暴に机の上に置き、中の箱を取り出した。途中で走ったから、たぶん中はぐちゃぐちゃだ。全部全部、台無し。
 鼻の奥がつんとして、みるみるうちに視界が歪む。
 “お礼”なんてばかみたい。仲の良い後輩を演じて、本心を隠して。
 ぽたりとスコアブックの上に水滴が落ちて、慌ててブレザーの袖でぬぐった。
 ――刹那。
 ガラッと、突然教室のドアが開いた。
 とっさに顔を上げる。すると、そこにはなぜか純さんが立っていた。ここまで走ってきたのか、荒く息をして室内に入ってくる。

「……あ……」

 驚いた私はすぐ乱暴に涙をぬぐった。「どうしてここに?」と問い返す暇もなく、純さんが心配そうにこちらへ向かってくる。

「なまえ、どうした?」
「……なんでも、ないです」

 ぱっと顔を伏せ、今度は両手でごしごしと擦る。

「なんでもねぇってことねーだろ」
「大丈夫です」

 純さんは眉を寄せ、こちらを見下ろしている。
 私は重い空気を吹き飛ばすように、すっと息を吸い込み、大きな声を出した。

「これ!」

 と、立ち上がってスコアブックを差し出す。

「あ?」
「御幸くん机に忘れちゃったみたいで。ついでに渡しといてもらえますか?」
「お、おう」

 戸惑いの色を浮かべる純さんの胸にそれを押し付けて、無理やり笑顔をつくった。

「さ、もう部活行かないと! 遅刻したら怖いですから、うちの監督」
「だな。……俺もそろそろ行くわ」

 はいと元気よくうなずいた、けれど次の瞬間。純さんの視線が、手元のスコアブック、次に私の顔を捉えてからゆっくり彷徨い、それは机の上の箱へと注がれた。わずかな沈黙。
 やばい。そう思った私は反射的にそれを机の端に寄せ、自分の身体で隠した。

「そこ、御幸の席か?」
「? はい」

 質問の意図がわからず、私は机と純さんの顔を交互に見る。

「……そういう……ことかよ」
「え……?」

 その時、純さんの表情がみるみる強張っていくのがわかった。
 そういうことって?
 そう問い返してはいけない空気が一瞬のうちに支配する。

「あの」
「これ。ちゃんと渡しとくから」

 早口の低い声が投げられる。その表情は最後まで固いままで、私が言葉を発する前に純さんはさっさと踵を返した。
 待って。
 声にならない声が内に淀む。
 引き止めようとした手が、むなしく虚空をかいた。ぴしゃりと乱暴に閉められたドアは、まるで一切を拒絶されたかのようで、その音は私の中にいつまでも響いていた。



*prevnext#

index / top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -