38. 優しい沈黙(後編)

「困ったわ。もう飲み物ないのよ」

 食器を下げに台所へ戻ると、母が冷蔵庫を開けて嘆いていた。

「じゃあそこのコンビニまで行ってくるね」
「あ、もう暗いから哲也に頼みなさい」
「大丈夫大丈夫」
「ちょっとなまえ!」

 引き止める母の声を背中に感じたけれど、私は聞こえないふりをして足早に玄関へ向かった。せっかく哲ちゃんたちが楽しそうにしている時に、水を差したくなかったのだ。
 廊下でコートを羽織っていると、ちょうどトイレから出てきた純さんと鉢合わせた。すると、不思議そうな顔で尋ねてくる。

「おい、どこ行くんだ?」
「飲み物なくなりそうだから、ちょっとそこのコンビニまで」
「お前一人でか?」
「はい。すぐそこですよ」

 純さんは一瞬険しい顔をしてから、ぱっと踵を返した。

「……一人じゃ危ねぇだろ」
「……え……」

 私の言葉を待たず大股でずんずん居間へと向かい、ダウンジャケットを手に戻ってくる。

「あの」
「俺も行く」

 かぶせるように言って私のそばを通り過ぎ、玄関へと向かった。私は少し困惑しながらも純さんの前へ回り込む。

「あのっ、純さんはお客さんなんで休んでてください」
「さっさと行くぞ。雪が強くなる」

 そう短く言って譲ろうとしないので、私もそれ以上何も言わなかった。ここは純さんの好意に甘えることにしようと決める。
 けれど、雪が強くなると言っておきながら、当の純さんはダウンジャケットにネックウォーマーと若干心もとない格好だ。

「純さん、手袋は?」
「あ? ねーけど」
「耳当ては?」
「ねーよ。でもこんくらい寒くねぇ」
「ダメです」
「おい!」

 私は急いで仏間へと向かった。確かここの押入れに哲ちゃんの使っていない手袋類があったはずだ。

「手袋と耳当て、すぐ持ってきます」
「おい、もういーって」
「すぐ済みますから」

 そんな押し問答をして歩いていたらすぐに仏間だ。戸を開けて電気をつけると、人の温度のないそこはひやりとして寒かった。
 私が押入れを開けて衣装ケースをあさっていると、背後でみしっと畳を踏む音がした。

「へぇ。こういう和風の部屋って落ち着くな」
「そうですか? 私は洋風の部屋に憧れますけど」
「ま、ないものねだりってやつだな」

 私は小さく笑って、なおもケースの中をごそごそ探った。背後の気配と畳の鳴る音で、純さんが部屋を歩き回っていることがわかった。新鮮なんだろう。純さんの家は洋風だろうかと考えていると、その足音は次の瞬間ぴたりと止んだ。それは、私が手袋と耳当てを見つけたのとほぼ同時だった。でもそれ以降、純さんから物音がしない。――なぜか、全く。
 その時、私の手からするりと手袋が離れた。それは音もなく衣類の上に落ち、あたりに防虫剤の匂いが漂う。
 ざわざわ、と。心の奥深いところが避けようのない仄暗い予感に波立った。

「ありましたよ」

 動揺を気取られないようにするのが精一杯で、振り返るのが怖かった。でも、そうしなければいけなかった。首の筋肉は、自分のものではないみたいにかちかちに硬直している。
 ――どうか、気づいていませんように。
 祈るように振り返ったその先。純さんはちょうど仏壇の前に立っていて、その足は地面に縫い止められたかのように微動だにしない。視線はあるものへ一心に注がれていた。仏壇のそばに無造作に置かれた、古ぼけた写真立て。
 それは、あの日の家族写真。祖父母、両親、哲ちゃんと将司。ーーそして、あの人。母より私にそっくりなあの人が、こちらの焦りなんて知る由もなく屈託ない笑顔を向けていた。
 まるで呼吸の仕方を忘れてしまったように、胸が詰まって苦しい。迂闊だった。なぜこの部屋に純さんを入れてしまったんだろう。みんながうちに来ることで浮かれていて、つい油断してしまった。早く何か言わなければと焦るほどに、思考はむなしく空回りする。早く、早く何か――
 そして、幾度かの逡巡を繰り返した私の視線が、純さんのそれとゆっくり絡み合った。

「その写真、嫌いなんですよ」

 自分でもびっくりするほど、冷たい声が出た。

「……え……」

 戸惑ったように純さんがつぶやいたので、慌てて付け加える。

「私、髪短くて男の子みたいじゃないですか?」

 写真を指して無理に笑ってみせたけれど、うまくいっていないのは明白だった。目の前の純さんの顔は、困惑や焦りといった様々な感情が入り乱れては忙しく変化した。
 まるで意思を持ったかのような冷気が、畳から足へひんやり這い上がる。足元はひどく寒いのに、身体は不思議なほど熱をもってじわりと嫌な汗が流れた。
 私は先ほど、急いで口を開いたことを後悔していた。ただ、笑い飛ばせばよかったのだ。「すごく似てる親戚なんです」と。「深い意味なんてないんです」と。そうしたら別段疑う余地なんてなかっただろう。
 今は、純さんの瞳に浮かぶどの感情の色も知りたくはなかった。私は目を逸らして、そして悟る。あんな態度をとってしまったことで、かえって純さんの疑惑を深めてしまったことに。

「おい、なまえ……」
「早く行きましょう」

 私は純さんが何か言いかける前に、言葉の芽を残酷に摘み取って背を向けた。

 年の瀬も差し迫った静かな住宅街を歩く。家々には小さな幸福の明かりが灯り、どこからか夕餉の匂いが漂う。雪は依然として舞い踊るように降っていた。――静かだ。とても。
 純さんはダウンジャケットを着た背中を縮こまらせて歩く。私はぐるぐる巻きにしたマフラーに顔をうずめる。吐く息は、白い。
 先ほどの動揺から私は傘を忘れ、純さんもまた持っていなかったけれど、降る雪はたいした量ではなかったのでそのまま歩いていた。純さんも何も言わない。今はただ、沈黙が怖かった。
 しかし私は、心のどこかで落ち着いてもいた。私はさっき、不本意な形でだが釘を刺したから、こちらから切り出さない限り、優しい純さんのことだ。きっとあのことには触れてこないだろう。――そこまで考えてはっとする。無意識のうちにそこまで計算していたことに気づき、自分自身に嫌気がさした。
 そういえば、純さんとこうやって家の近所を歩くのは夏以来だった。でも夏の合宿終わりに送り届けてくれた時とは、あきらかに何もかも違っていた。

「……寒ぃな」
「寒いですね」

 水面にそぅっと小石を投げるように、私たちはひたすら寒いを連呼した。何か話題を切り出すこともできず、かといって重苦しい沈黙には耐えられない。でも、意味のない会話で小さな波紋が広がる間だけは、嫌なことを忘れられる。
 私は白い息を吐いて次の言葉を考えた。

「明日、実家に帰るんですか?」
「おう」
「……お姉さんたちとは仲良いんですか?」
「まぁ、普通だろ」

 純さんは一拍おいて、「マンガ貸し借りする程度には」と付け加えた。
 また何かしゃべらなくては。寂しい隙間を埋めるように、たわいもない話題を繰り返す。それにぽつりぽつりと応える純さん。
 しばらく歩くと住宅がまばらになり、大通りに出た。私はとある建物を指さして、

「ここから見えるあれが青道ですよ」
「へぇ、学校の周りってこんな風になってたんだな。俺らあんまり外出ねぇから」
「そう、ですね」

 気の利いた返答が思いつかない。気まずくなって、手袋に包まれた両手に意味もなく息を吐きかけた。

「お前と哲は、生まれてからずっとこの街なんだな」

 純さんはどこか遠くを眺めてつぶやいた。

「……せまい、世界ですね」

 中学も自転車で通える距離で、高校もそうだ。私の世界なんて、たかだか自転車で数分の範囲で完結している。

「けっ、それを言ったら俺達だってそうじゃねぇか。三年間ずっと青道の敷地内だけのせまい世界だぜ。野球って目的がなかったら、ほぼ監禁状態みてぇなもんだ」
「ああ、確かに」

 大人達に守られた、私たちの小さな小さな世界。

「でも、守られた小さい世界だから、今は一つのことに打ち込めるんですよね」
「まぁな」

 純さんは重苦しい夜空を仰いだ。
 確かそんな内容のことを、入学式の時に校長先生が言ってたなぁとぼんやり思い出す。入学式なんて、もう遥か昔のことみたいだ。
 今は小さな世界でも、いつかは自分で道を選択して飛び立たなければならないことはわかっている。けれども、この人が一年とちょっとの先には、もうここにいないということにあまり実感がわかない。
 そういえば、純さんは卒業後の進路はどうするんだろう。今の目標は、甲子園に出場して全国制覇することだけど、その先は――
 話の流れで聞いてみようかと思ったけれど、やっぱりやめた。
 「今の目標だけで精一杯だろうし、まだ二年生だから決まっていないのかもしれない」というのは私の気持ちの表層部分であり、本当は自分にとって都合の悪い答えを聞きたくないだけだという思いが、心の奥底に澱んでいることを私は自覚していた。
 そして、もう一つの自覚。純さんと両想いになりたいこと。ただそのためには、この気持ちを打ち明けなければならない。そしてそれに失敗した時、今の心地よい関係が終わってしまうのだ。――きっと砂の城を崩すよりも、簡単に。だから言わない。今は、言わない。臆病と言われようと、私のためにも純さんのためにもそれが一番いい。
 寒さのせいか、今の私の頭は冴えていて、ひどく冷静に自分の感情を分析することができた。
 この人が選んだ小さな世界で、必死に情熱を傾けているところに、余計な感情を持ちこみたくない。だから、あの秋の日に自覚した想いを塗りつぶそう。――静かな心で決意する。

 コンビニのばかみたいに明るい照明が見えた。扉を開けると、暖かい空気が身体を包む。

「はぁ、天国〜。生き返りますね」
「オラ、さっさと選んで帰んぞ!」
「はい!」

 純さんがカゴを持ち、私は適当に飲み物を入れていく。ついでにお菓子も少し。増子さんにプリンも買おうと、冷蔵コーナーの前で吟味する。種類が多いので、選ぶのに少し時間がかかったけれど、ほどなくして会計を終えた。ついさっき冷蔵コーナーに立っていたせいだろう。身体が冷えてしまったようだ。

「あの、ちょっとお手洗い行ってきます」
「おう」

 お手洗いから戻ると、純さんはコンビニの外の入り口で待っていた。扉を開けると、また肌を切り裂くような寒さが全身を襲う。

「今日寒すぎですよ〜」

 文句をこぼす私を純さんは軽く笑って、こちらへ何かを差し出した。

「なまえ」
「……え?……」

 震える手で受け取ると、それは温かいココアの缶だった。

「ココア大丈夫だったか?」
「はい、好きです!」

 思わずうわずってしまった声に、純さんはフンと鼻をならした。
 その横顔を盗み見て、今度は小声で「好きです」とつぶやいてみる。

「あ? 何か言ったか?」
「なんでもないです……。あ! お金、お金返します!」
「いらねぇよ」
「でも」
「いらねぇ」
「……はい」

 純さんはそれきり黙りこんでしまった。
 私も途端に何を話していいのかわからなくなり、それ以上口を開かなかった。けれど、帰りの沈黙はなぜか心地よかった。
 真冬のしんとした静謐な空気が私たち二人を包む。世界は、どこまでも透徹してそこへ横たわっていた。一言でも言葉を発すると、その神聖な空気が消えてなくなってしまいそうで、おとなしく口をつぐむほかなかった。
 手に持ったココアの缶だけが、唯一現実を繋ぎとめるアイテムのような気がして、私は両手で缶をぎゅっと包みこんだ。そのまま頬っぺたに缶を押しあてる。染み入るような温かさが頬から顔、身体全体へとじんわり伝わり、満たされたような幸せな気持ちに包まれた。
 缶越しにちらりと隣を盗み見みると、純さんは旨そうにブラックコーヒーをすすっていた。ブラックなんて苦すぎて私には飲めなくて、そんなものを好むこの人はやっぱり男の人なんだなぁと思った。ファンタグレープを好きなことは知っているけれど、同じ缶の飲み物なのに、ファンタを持つ純さんとブラックコーヒーを持つ純さんは全く別の人みたいだ。
 缶の向きを変えて再び頬にあてると、さっきよりもぬるくなっていた。私が熱を奪ったせいだ。けれど私は、この熱がぜんぶぜんぶ欲しかった。
 体温で徐々に冷えていくココアとは裏腹に、私の心はだんだん熱を帯びていく。純さんのくれた温かさに、さっきの固い決意なんてあっさり溶けてなくなる。こんなに簡単に揺らいでしまうものなんだと、自分でもあきれてしまうほどに。
 温かいものを飲んだせいか、さっきよりも吐く息が白い。白い息で、私はもうその顔をまっすぐ見ることができない。
 打ち明けたかった。
 あの秋の日についた感情の名を、この人に打ち明けたかった。



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