33. 触れて

 なんとなく、予兆はあった。
 私にマンガの入った巾着袋を差し出す時。廊下の壁にもたれて話していたあと、ゆっくりと壁から背中を離す時。いつもよりほんのわずかだけ、バッティングに勢いがなかった時。けれどいずれも、それほど深刻なものと捉えていなかったし、そもそも私の勘違いかもしれないと思った。声をかけても、いつものように大丈夫だと笑ったから。どこか安心していたのだ。スポーツなら必ず付き物のそれが、自分の親しい人には、けっして降りかからないものだろうと。

 先日のことだ。友達とソフト部のグラウンドへ向かうため校舎を出ると、その途中、高島先生とすれ違った。
 私と友達が軽く会釈をすると、先生は控えめな笑みを浮かべ去っていく。その後ろには、学ランを着たおどおどした様子の男子生徒を連れていた。

「ね、あれって......」
「うん」

 私たちは目配せをして囁きあう。
 この時期になると、野球部副部長である高島先生は、どこからともなく有望な中学生を連れてきては野球部を見学させている。青道という野球強豪校にとって、スカウトマン――女性だからスカウトウーマン?――は欠かせない存在であり、その大事な任を先生が請け負っているのだ。
 先生たちの姿が完全に見えなくなったあと、友達はやれやれといった調子で言った。

「ふぅん。なぁんか挙動不振なコだったけど、一応先生のお眼鏡に叶ったんだもんね」
「そうだね」
「一体、連れてきた何人が青道に入ってくれんだろ」
「まぁ、実力あったら選び放題だもんね。ここらは稲実も市大もあるし」
「知ってる? 御幸って、高島先生に中一の頃からツバつけられてたんだって」
「うそっ?!」

 友達はニーッといたずらっぽく笑って、自身の胸のあたりに両手で弧を描いた。

「案外、あの巨乳にやられたんだったりして。長澤ちゃんもデカイし」
「まさか〜」

 私たちはケラケラ笑い合いながら先を急いだ。
 中一の頃から目をつけるなんて、さすが高島先生。けれど、御幸くんは御幸くんで、義理で学校を選ぶタイプではなさそうだし、彼なりにこの学校に思うところがあったのかもしれない。心の片隅でぼんやりそんなことを思う。
 先ほどの生徒にしろ、やっぱり興味はある。いずれ、青道野球部の大事な戦力になるかもしれないのだから。


 そして今日。野球部のグラウンドでは、何やら一悶着あったらしい。どうもいつもよりざわざわしているように感じたし、ギャラリーも集まっているように思えた。ソフト部のグラウンドは離れているので詳しい状況は把握できなかったものの、まさかスカウトの中学生が何かやらかしたのではないかと、私も気が気ではなかった。野球部は今、大事な大会を控えているのだ。

 その日の夜、いつものように部活を終えて帰宅し、自室のベッドで純さんに借りたマンガを読んでいた。
 しばらくすると玄関の戸が開く音がし、哲ちゃんの帰宅を告げた。その足音は居間へは寄らず、迷いなくとんとん階段を駆け上がり、私の部屋の前でぴたりと止まった。私が起き上がるのと、戸がコンコンとノックされたのはほぼ同時。
 虫の知らせと言うべきか、なぜかひどく嫌な予感がした。
 「なに?」と返事をすると、沈鬱な表情の哲ちゃんが部屋へ入ってきた。

「......なにかあったの?」
「ああ」

 その様子からただならぬ気配を感じ取り、私はベッドから立ち上がる。
 そして、しばらく無言だった哲ちゃんは、ややあって、重苦しい口を開いた。

「純が腰をやった」
「......え......」

 言葉を、すぐに理解することができなかった。暗い影の漂う兄の瞳。それは、何よりも動かせない事実であると物語っていた。
 予兆は、確かにあった。ただ、私自身が心のどこかでそれを認めたくなかっただけた。
 哲ちゃんから詳しい事情を聞き、症状は大事に至らなかったこと、一時安静にしていれば、回復する類いのものであることを知らされた。だからお前が心配することではない、と。
 哲ちゃんが部屋を出て行ったあとも、心の中の不安は消えなかった。思考の渦が、突きつけられた残酷な事実の周囲をぐるぐる回り、冷静に物事を考えることができない。――なんで、なんで。
 冷えきっていく身体とは裏腹に、胸の鼓動はやけに大きくドクドクとうるさい。
 お医者さんは大丈夫だと言っているし、きっとそうなんだろう。でも、万に一つ、クリス先輩みたいになったら――。
 負の感情はとめどなく押し寄せて膨らみ、淡い希望を簡単に打ち砕いていく。
 顔が見たい。
 唐突にそう思った。本人の口から、ちゃんと否定してほしい。大丈夫だって、問題なく試合に出られるって、言ってほしい。
 時計を見るとちょうど九時を過ぎていた。
 そうだ、電話だ。
 そう思い至り、携帯を開いてから呆然とする。――私、純さんの番号知らない。
 今まで、特に連絡するほどの用事もなかったし、何より毎日学校で会えるから気にしたことはなかった。兄の友人であるという理由だけで、こちらから連絡先を聞いていいものなのかという思いもあった。けれど今、それを知らないということが心の底から呪わしかった。
 哲ちゃんに聞けば済む話ではある。でも、私のこの過剰な心の乱れように疑問を抱くかもしれない。心配するなと言われたし。
 ――でも。
 気づいた時にはもう、私は携帯電話を掴み家を飛び出していた。背後から「どこ行くの?!」という母の声がしたから、適当に「コンビニ!」と叫んだ。
 私は、夜の静かな住宅街を一気に駆け抜けた。ひんやりとした秋の夜風が、服を通して肌に触れる。そのまま学校近くのコンビニの駐車場まで来たところで、これからどうしようと、現実的な問題に直面した。
 バカみたいだ。一人で飛び出したりして。小さく自嘲して、何気なく携帯を開く。するとその時、電話帳にとある番号を発見し、私はすがる思いで通話ボタンを押した。

『――はい』

 電話に出た年配の女性の落ち着いた声が、私の言葉をゆっくり受け入れ、その後すぐ保留音に切り替わる。
 それから唐突に保留音は止み、

『哲か?』

 という慌てたような声が聞こえた。

「......私、です」
『なまえ?!』

 純さんは心底驚いたようだった。それもそのはず。私は、哲ちゃんの緊急の連絡先にと青心寮の番号を登録していた。先ほど対応したのはきっと寮母さんだろう。困り果てた私は寮へ電話し、結城と名乗って純さんを呼び出してもらったのだ。

「あの、怪我したって聞いて」
『ああ、別に心配するほどのモンじゃねぇ。前から痛めてたし』
「そう、ですか」

 本人の声がそれほど沈んだものではなかったので、私はとりあえずほっと胸を撫で下ろした。
 ちょうどその時、駐車場に入ってきた車がクラクションを鳴らしたので、私は慌てて端に寄った。

『......お前今、外にいんのか?』
「ええと、はい」
『何時だと思ってんだ! 危ねぇだろーが!』
「心配で」
『あ?』
「その、怪我の具合が心配で、思わず学校のそばまで来ちゃいました」
『............』
「もう帰ります」

 電話の向こうの沈黙に耐えかねた私は、急いで通話を切ろうとした。

『おい』
「............」
『今からこっちまで来れっか?』



 グラウンドまで続く一本道を歩いていると、その道の先に人影が見えた。

「こっちだ」

 手招きをする純さんの元へ急いで駆け寄る。

「すいません、わざわざ出てきてもらって」
「いや、俺の方こそ悪かったな」

 まだ腰が痛むのか、純さんは慎重に歩きはじめた。それから、グラウンドに面する土手の上に腰を下ろしたので、私もそれに倣った。腰をさする純さんを見ると、どうしても辛い気持ちになる。

「まだ痛みますか?」
「まぁな。でも、病院行って湿布と薬もらったし大丈夫だろ。付き添ってくれた部長のがオロオロしてたし」
「はは、目に浮かびます」

 心優しい太田先生のことだ。きっとものすごく慌てたに違いない。
 眼前には、夜の闇に沈むグラウンド。それは、昼間の明るく健やか雰囲気とは違い、だだっ広い空虚な場所という感じがした。
 私は純さんの方へ身体を傾け、その瞳をまっすぐ見据えた。

「本当に、大丈夫なんですね?」
「おう!」

 私を安心させるためか、純さんはぐっと握りこぶしを作り、いつもの笑顔ではっきり言いきる。
 その瞬間、今まで心を暗く覆っていた何かが一気に晴れた気がした。

「......よかっ、た......」

 溜まっていた悪いものを吐きだすかのように、ほっと息をつく。
 すると純さんはなぜか、困ったような焦っているような表情を浮かべた。なんでそんな顔するんだろう。

「おい......」
「え?」

 この時、私ははじめて、自分の頬に、何か温かいものが滑り落ちていったことに気がついた。――私、泣いてる?
 そう自覚した時には、すでにそれはとめどなく溢れ出て、自分の意志ではどうすることもできない。自分でもびっくりして、手の甲でごしごし拭ってごまかす。こんな風に泣くなんて、まるで小さな子供みたい。

「すいません......なんか」

 安心して気が緩んだせいだ。「目にゴミが」とか適当に何か言えばいいのに、それすらもうまく思いつかない。
 するとその瞬間、目の前の腕がすっと伸びてきて、私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でた。否応なしに地面を向かされて、純さんの表情もわからない。

「ちょっ! 何するんですか?!」

 その行動に驚く気持ちと、むず痒いような恥ずかしさで心がないまぜになる。
 それからすぐに、その手は引っ込んだ。
 私が顔を上げると、ニヤっといじわるな笑みをたたえる純さん。

「もー、髪がぐしゃぐしゃじゃないですか」
「いつもそんなもんだろ?」
「ちょっとそれどういう意味ですか!」
「そのまんまの意味じゃねーか」

 もー、と文句を言いながらも、だけど先ほどの涙は不思議と引っ込んでいた。
 いつもそうしてろ。
 まるでそう言われているようで、思わず胸がつまる。この人は、いつだって優しい。
 私が乱れた髪を指ですいていると、

「つか、明日っから一年のパシリ増やすか」

 純さんは意地悪く呟き、突然、草むらにゆっくり身体を預けるように寝転がった。

「はは、背中が草だらけになりますよ」
「今から風呂入って寝るだけだからいーんだよ」
「ふーん。じゃあ私もっ、と」
「おい!」

 静止する純さんを無視して、同じように草むらへ寝転ぶ。青くさい匂いと、顔に触れる草がちょっとだけくすぐったかったけれど、小さな頃に戻ったようでなんだか楽しい気分になった。

「へへ」
「お前なぁ......」

 純さんも、あきれながらもどこか楽しそうだ。
 視線の先には、グラウンドではなく夜空が広がっていた。まるでプラネタリウムだ。星は、確認できる明るいものが三つくらい。
 なんとなしに首を捻って隣を向くと、予想外に近い距離に純さんの顔があって、慌てて戻した。純さんは純さんで私と同じことをしているのが、なんだかおかしい。
 静かな秋の夜風が、隣からのわずかな汗の匂いを運ぶ。
 並んで寝る。その行為は、家族や親しい友達としか経験したことはなく、それはとても親密なことであると思う。
 お互いの身体は、ちょうどボール一個分くらいの距離。そこから純さんの体温が伝わってくるようで、隣で少しでも身じろぎされると、私の鼓動はまるでそこだけ別の生き物のように、バクバクバクとうるさい音を立てた。

「そういや初めてだな、寮母さんに呼び出されたの。『結城』って言われたから、一瞬哲になんかあったのかと思ったぜ」
「すいません、番号知らなかったので」
「哲に聞きゃあよかったんじゃねーの?」
「それは......そうですね」

 哲ちゃんに気取られたくなくて聞けなかったなんて、言えるはずない。
 でも純さんはそれ以上言及することなく、そーいや、と話題を変えた。

「今日、すげー生意気な中学生が見学に来たらしいぜ。俺は見てねぇけど」
「ああ、なんか騒がしかったですよね」
「そいつ、東さんにケンカ売ったらしい」
「そんな命知らずな......」

 その中学生は、来年うちに入学したらすぐに吊し上げられるんじゃないかと思う。でもあの東さんにケンカを売るなんて、考えようによっては根性があるかもしれない。
 それからしばらく、お互い無言で夜空を見上げていたけれど、純さんが唐突に、なまえ、と切り出した。

「......携帯持ってっか?」
「あ、はい」
「貸せ」

 疑問に思いながらも、私はそのままの体勢で純さんへ携帯を手渡す。
 純さんは私の携帯を開き、カチカチと何やら入力しているようだったので、私は黙ってそれを見ていた。そしてすぐに作業を終え、私の元へ寄越した。

「オラ」
「え? えっと」
「入れといた。俺の番号とアドレス」
「あ......」
「なんかあったらそれにかけろ」
「......ありがとうございます」

 私の声はひどく弱々しかったけれど、この静寂の中でならきちんと伝わっただろう。さっき泣いてしまったことが恥ずかしくて、私は精いっぱいの虚勢を張った。

「あんまり心配かけさせないでくださいよ」
「......おう」

 私が勝手に心配しているだけなのに、そのあと純さんは「ありがとな」と静かに付け足した。
 涙腺が緩んでいたせいか、私の声はかすかに震えていたけれど、さっきみたいにもう、隣からその手が伸びてくることはなかった。
 わかっていた。あれは親が子供にするような、兄が妹にするような、恋愛感情とは遠くかけ離れたそんな手だった。うれしいはずなのに、悲しい。
 わかっていたのに、複雑に絡み合う心の中で唯一、願った。もう一度その優しい手が、私の髪に触れてくれることを。



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