32. とっておき

 ある一人の人に、特別な感情を抱くということ。それはひどく激しい感情で、囚われて、支配されて、動けない、そういうものだと思っていた。けれども実際は、嵐みたいに感情が波立つことはそれほどなくて、どちらかと言えば、春の海のように暖かくて穏やかなそれに近いものだと思う。
 だけどふとした瞬間。例えば、本屋さんの棚に陳列された少女マンガ。例えば、キンと冷えたファンタグレープのペットボトル。例えば、夜空に浮かんだ半分の月。日常に散らばる、ありとあらゆるそれら小さな欠片に、その時、純さんの影を探す。すると純さんも今頃、それらを見たり触れたりしているのだろうかと想像して、はっとする。やっぱり私も囚われているのだ、と。

 先日、私は自分の中の想いをきちんと自覚することができた。でもだからといって、それを今すぐどうこうするつもりはなかった。私も純さんも、優先すべきは部活や勉強のことであり、恋愛事は二の次だ。純さんは特に、野球をするためにわざわざ家を出て青道に通っているのだから、なおのこと。
 私が勝手にあの人のことを想っているだけで、相手がそうとは限らない。確かめるためには、気持ちを打ち明けなければならない。秤にかける――リスクを。すると、それはいとも簡単に“今までの関係”がずしりと重みを増して、ああやっぱりと納得する。
 ――告白するつもりは、今のところない。



 九月。野球部の秋季大会の予選が始まった。秋の試合は各校のグラウンドにて当番制で行われるため、公式戦という実感は薄い。けれどここで結果を残すことができれば、春の選抜に出場するチャンスが与えられる。つまりは甲子園へと繋がる道。新生青道野球部は、まだチーム全体がちぐはぐながらも、着実に白星を挙げていた。
 そんなある日のお昼休み。私は一人、二年生のフロアに来ていた。教室の入口にいた女子に、純さんを呼んでくれるように頼むと、ややあって本人が廊下へと出てきた。純さんは私の姿を認めたあと、探るような調子で

「どうだった?」
「......おもしろかったです」
「んだよその間は」

 私は曖昧に笑いながら、純さんへ袋を手渡した。それは巾着型のナイロン素材のもので、表側にスポーツメーカーのロゴが入っている。だけどその中身は、スポーツに関するものとは縁遠い、少女マンガが数冊入っていた。
 以前、純さんの好きなものが少女マンガと知ってから、私はひそかにそれを読んでみたいと思っていた。そして先日、偶然にも会話の流れから、念願叶って貸してもらう運びとなった。
 私はただ知りたかったのだ。純さんが何を好み、どんな感想を抱くのか。

「いろいろ邪魔は入ったけど、最後は結ばれてよかったと思います、はい」
「別に無理やり感想捻り出さなくていーぞ」
「そんなつもりは......」

 ぶすっとした面持ちの純さんが、私から袋を受け取る。借りたのはこれで3タイトル目。いずれも恋愛メインの、いわゆる王道の展開の少女マンガだ。

「なんかすいません。せっかく貸してもらったのに、気の利いた感想言えなくて」
「あ? なんじゃそりゃ」

 純さんは眉を寄せた。
 私は自分の中の乏しい感受性に、ほとほとあきれかえっていた。同じものを読むことで、あのシーンはどうだった、この時の主人公の気持ちはとか、いろんな感情を共有できればいいと思っていたのに。純さんが貸してくれたマンガはどれも確かにおもしろかったけれど、いまひとつ感情移入できない部分も多々あり、そのあたりが原因なのかもしれない。私の恋愛経験の少なさが仇となったのか。主人公は私と同年代のものが多く、普通なら共感しやすいはずなのに。

「私、あまり少女マンガ読まないので慣れてないだけかもしれません。次こそは」
「いや、そもそもそんな構えて読むモンでもねーし。単に合わなかったってだけだろ」
「でも」
「......なまえ、今まで貸したやつでどれがよかった?」
「え? えーと」

 もうお前には二度と貸さねぇ、と断られるかもしれないと覚悟していた私は、その意外な質問に少し戸惑った。

「しいて言うなら、主人公がバレー部だったやつですね。恋愛ばっかじゃないとこが読みやすかったのかも」
「なるほどな......」

 純さんは何か納得したようにうなずいた。

「あの、貸すのも面倒でしょうしもう」
「三日待て」
「え?」

 遮るように放たれた言葉に一瞬、困惑する。

「とっておきを用意すっから三日待て」
「とっておき、ですか」
「おう」

 純さんが、自信を表すかのように強く言いきったので、私はそれ以上は訊き返さなかった。
 純さんの『とっておき』の少女マンガ。一体どんな話だろう。私は早くもワクワクして、落ち着かなかった。と同時に、それすらも楽しめなかったらどうしようという危惧の念を抱く。
 ちなみに、本人に自覚はないのかもしれないが、『とっておき』という言い回しがなんだか少女マンガじみていて、ちよっとだけ可愛いと思ってしまったのは秘密だ。



 それから三日後、約束通りに純さんの教室に向かうと、はたしてその『とっておき』はちゃんと用意されていた。ずいっと、いつものように巾着袋が差し出される。

「オラ、持ってけ」
「はい。ありがとうございます......って重っ!」

 袋を受け取ると、いつもよりかなり重みがあり、ずしりとした手応えを感じた。いつも三冊くらいをちまちま借りていたけれど、今日はいつもより袋も膨らんでいる。
 純さんはこともなげに

「五冊入ってっからな」
「かなり長い話なんですか?」
「おう。超大作だ」

 超、の強めの発音に、純さんが今日これを持ってきた気概みたいなものが感じられた。

「どんな話なんですか?」
「読むまで秘密だ」
「え〜」
「先に知ったらつまんねぇだろーが! とにかく読め!!」

 なかば強引に押し切られ、私は仕方なくそのまま受け取った。さっそく今日、読んでみよう。
 謎の三日という日にちをかけ、私のために用意してくれたことがうれしくて、持って帰る時もその重さはさして気にならなかった。


 帰宅後、お風呂に入り、ゆったりと余裕ある時間ができた頃。私はベッドにごろりと横になり、さっそく袋の中身を出してみた。
 ――古いマンガだ。手に取った時の第一印象だった。表紙に描かれた女の子の目は、大きくキラキラしていて、マンガをあまり読まない私でも、一目で古い絵柄であることがわかる。表紙のオレンジ色は、白っぽく変色していて、中の紙は日に焼けて黄色くなっていた。一巻は特に傷みが激しい。

「あ、これ知ってる」

 タイトルに覚えがあった。確か長年に渡り愛されてきた少女マンガの名作中の名作であり、未だに完結されていない作品だったと記憶している。

「純さん、こういうのも読むんだなぁ」

 今まで貸してくれたものとは明らかに違う。なんとなくしみじみした気持ちで、パラパラとマンガをめくってみる。すると、これまた古い紙の匂いが鼻をかすめた。
 少女マンガを読み始めたのはお母さんとお姉さんの影響らしいから、とするとこれはお母さんのものか。いずれにしろ、かなり年季が入っている。
 確か演劇の話だっけ、とおぼろげな記憶をたぐり寄せ、私はさっそくページを繰りはじめた。

 ――......

 五巻を読み終えたところで何気なく顔を上げると、壁の時計の指し示す数字に思わず目を見開いた。

「うそっ、もう三時?! はやく寝なきゃ」

 夢中で読みふけっていたせいで、予想外に時間が経っていた。一冊読み終えて早く続きが知りたいと、次々マンガを手に取るうちに、つい時間を忘れてしまったのだ。こんなことは初めての経験だった。
 古い絵柄は、全く気にならなかった。それよりも、惹かれたのは話のおもしろさだ。今私は、この興奮を誰かに伝えたかったが、あいにくもう深夜で皆寝静まっていて、それも叶わない。
 そのマンガは、中のページが所々折れていたり、間にお菓子のカケラのようなものが挟まっていたりと、伊佐敷家の人々がこれを何度も読み返したことが窺えた。きっとお母さん、お姉さんたち、純さんと受け継がれたのだろう。私は、純さんの少女マンガ好きの原点を垣間見た気がした。幼い純少年もこれを読んでいたのかと思うと、自然に頬が緩んでしまう。
 なんだか大そうなものを借りてしまったな。ふとそう思った。用意するのに日にちを要したのは、わざわざ実家から送ってもらったためではないか。
 私はマンガを順番に並べ、丁寧に袋へしまった。それから、がばりと頭から布団を被るも、なかなか読後の興奮が冷めやらない。
 明日、感想とともにちゃんと礼を言おう。一向に重たくならない瞼を無理やり閉じて、浅い眠りについた。


 翌日のお昼休み。教室から顔を出した純さんに、私は開口一番伝えた。

「おもしろかったです!!」

 純さんは、私の一言に苦笑しながら袋を受け取った。
 あれ? と不思議に思いしばし考えると、私は以前も同じように言ってたことを思い出し、自分のボキャブラリーの少なさに恥ずかしくなってしまう。
 けれど純さんは、同じ言葉ながら、それの持つ興奮や熱を感じ取ってくれたのか、すぐにニヤリと笑った。

「全部読んだか?」
「はい! 止まりませんでした。どんどん世界に引き込まれていって」
「だろーな。お前それ、好きそうだと思ってよ。スポ根なとこ」
「そうそう、演劇なのにスポ根な特訓なんですよね。あと、主人公が必死に役作りしてるとこも、こう、心が熱くなったというか」

 感想をうまく伝えられないことがもどかしい。だけど純さんは、それに黙って耳を傾けてくれた。
 これまでのやりとりが嘘だったかのように、私は自然に感想を交わし合うことができた。そう、何も無理することなどなかったのだ。
 純さんはニッと笑って、顎で巾着袋を指した。

「それな、俺が一番尊敬する先生だ」
「一番......」

 『先生』という真面目くさった呼び方が少しおかしくて、ついからかいたくなるような衝動に駆られた。

「野茂よりもですか?」
「あ?」
「野茂よりも尊敬してますか?」

 純さんは一旦眉を寄せ、私の何気ない質問に、本気であーとか、うーとか唸っている。

「ま、それはまた別の次元の話だろ」
「そうですね」

 結局そういう結論で落ち着いたらしい。まさかそこまで悩むと思っていなかったから、純さんの中では両方、比べられないくらい尊敬しているに違いない。

「あと、あのパントマイム? ってやつをついやっちゃいました」
「あー......」

 純さんも身に覚えがあるのか、若干恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。最初の方に、主人公がパントマイムを行うシーンが登場するのだ。

「野球に置き換えると素振りに似てますね。イメージするって意味で、ちょっとだけ」

 私は、目の前に実際の打席を思い描く。それから大げさに頭を下げ、空想の打席に勢いよく立った。バットを構える。

「......誰だそれ......」
「あれ、わかりませんか?」

 純さんは疑問符を浮かべ私を見ていた。

「こう、スイングは豪快に」
「なまえちゃん、パンツ見えるよ」

 突然背後からした声に、驚いて振り返る。

「小湊さん!」
「亮介! いつからいやがった!」
「スカートなんだから気をつけようね」
「す、すいません。ついクセで」
「純も早く止めてやりなよ。それとも、見たかった?」
「んなわけあるかバカヤロー!」

 ギャンギャン吠える純さんに、小湊さんはいつものごとく不敵な笑みを浮かべている。そして私の顔を見た。

「そのフォーム、そっくりだね」

 その言葉にうれしくなった私は、小湊さんと目線だけでうなずき合い、純さんの方へと視線をやる。
 案外、当の本人は気づかないものらしい。最後まで答えがわからない純さんは、終始むすりと口を歪めていた。
 小湊さんが去ったあとも、純さんは先ほどの答えを気にしていたが、その様子がなんだかおかしくて答えを教えなかった。
 それからふと、私は昨日のことを思い出した。

「あの......これって実家から送ってもらったんですよね?」
「あ? おう」
「わざわざありがとうございました。寮の部屋じゃ場所も取るのに」
「それなら心配すんな」

 私が「え?」と訊き返すと、純さんはニヤっと意味深に口の端を上げた。

「こわ〜い三年も引退したしなぁ?」
「あ」

 そう、同室の三年生が出て行った今なら、部屋は前より広く使え、二年生の天下だろう。

「むさ苦しさがマシになったしよ」

 そう言いながらも、純さんは少しだけ淋しそうだった。

「大丈夫ですよ。来年には新入生が入ってきますし淋しくないです」
「つーか別に淋しくねぇ!」
「またまた」

 そうからかったところで、ちょうど予鈴が鳴った。純さんは、そーだ、と思い出したように口を開く。

「明日、この続き十冊くれぇ持ってくるか?」
「あっ、と、五冊でお願いします。......重いので」
「わかった。んじゃ、十巻までな」

 はい、と返事をする一方で、私はとっさの自分の計算高さにびっくりしていた。だって五冊ずつなら、それだけ多く会えるから。




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