31. めざめ

 あっという間の夏休みが明け、新学期を迎えた頃。とあるお昼休み、私は中庭で大変なものを見た。

「御幸くん、倉持くん、大ニュース! かっ、門田先輩に彼女がー!!」

 ダッシュで教室に入るなり私は、友達のいない例の二人の元へ駆け寄った。私の勢いに虚をつかれたのか、御幸くんも倉持くんも一様にきょとんとした顔をしている。

「あ? なんだお前、知らなかったのか?」
「え?」

 倉持くんが何でもないような調子で言ったので、この件はすでに周知の事実らしい。すると、御幸くんも思い出したように口を開いた。

「なんか先輩たちがぼやいてたな。結構かわいいとかって」
「マジか!! 俺も実物は見たことねーけど」
「うん。かわいかったよ、彼女。先輩はゆでダコみたいだった」

 倉持くんがはやし立てるようにヒュウと口笛を吹いたあと、

「なんでお前が慌ててんだよ。門田先輩に気ぃあんのか?」
「じゃなくて! なんか意外でびっくりしたっていうか......。野球部って練習で忙しいから、彼女作るの難しそうな気がして」
「ま、作る奴は作るんじゃね」
「そ、そうだよね。門田先輩イケメンだし」

 ところが、私の何気ない言葉に二人は眉を寄せた。

「あ? 門田先輩イケメンかぁ?」
「いい先輩だと思うけど、顔はまぁ普通だろ」
「え、彫り深いしイケメンだと思うけど......」

 二人に反論されると、途端に自分のセンスに自信がなくなってくる。
 すると、それならばと倉持くん。

「じゃあクリス先輩は?」
「かっこいいと思う」
「楠木先輩は?」
「う〜ん、ハンサムって感じ?」
「純さんは?」
「............」
「なんでそこ無言なんだよ」

 うーん、とつかの間思案してみるも、どうもうまく形容する言葉が見つからない。なんでだろう。

「じゃあ亮さんは?」
「かわいい感じ? あ、これ本人には絶対内緒だよ」
「哲さんは?」
「シブい?」
「じゃあ、純さんは?」
「......えーっと、ヒゲ?」
「それ顔の一部だろ!」

 倉持くんからは容赦のない厳しいツッコミが飛ぶ。純さんはけっしてイケメンではないけれど、良い顔というか良い面構えをしていると思う。でもやっぱり、それをどう例えていいのかはわからない。
 私がしばし頭を抱えていたその時、廊下の方から複数の女子の高い声が聞こえてきた。「ほら、あれ」や「やっぱかっこいい」などのこれら言葉は、今私の隣にいる御幸くんに向けられたものだということは明らかだった。つんつんと本人をつつくと、うんざりとした顔がそこにあった。

「ねぇ、あれ御幸くんのファンだよね?」
「......たぶんな」
「雑誌に載ってから更に勢い増したんじゃね?」

 御幸くんは彼女たちの方は見ずに、ため息をついて手元のスコアブックを広げはじめた。
 以前御幸くんが、野球雑誌「月刊野球王国」に取り上げられてからというものその人気はうなぎ登りで、他校の女子生徒が練習の見学に押しかけるほどだった。
 口に出してこそ言わないけれど、確かに御幸くんはイケメンの部類に入ると思う。

「つーか今月で告白何人目だよ? かなり増えてるよな」
「いちいち覚えてねーよ」
「御幸くんはさ、付き合ったりしないの?」
「今はそんなヒマはねぇよ。野球がコイビト」

 一見冗談めかしているようで、ぴしゃりと閉め出すような言い方だった。
 最初こそ軽薄なイメージの御幸くんだったが、数ヶ月行動を共にすると、意外に硬派だという印象に変わりつつあった。ちなみに、倉持くんは案外いい奴。
 ふぅん、と応える私の視界の隅に、倉持くんの視線を感じたのでそちらを向くと、なぜか怪訝そうな表情を浮かべていた。

「つーかなまえ、最近やつれたよな」
「え」
「おい倉持。そこは『痩せた』だろ。一応女子なんだし」
「ヒャハハ! わりわり」
「ちょっと二人共......」

 前言撤回。やっぱりこの二人は性格が悪い。
 けれど確かに倉持くんの言う通り、最近の私は少し疲れていた。主に原因は部活であり、新チームのことでもめていること、九月になっても続くこの異常な暑さによるものだった。食欲もおちて、近頃軽いめまいを起こすことがたびたびあった。
 倉持くんってよく人のこと見ているなぁと感心していると、その表情がすっと真剣なものに変わる。

「......心配してたぜ」
「え? 誰が」

 だけどその時、タイミング悪くチャイムが鳴った。

「ね、それって......」
「ヤベ! 次数学だっけ? 課題忘れちまった! 御幸写させろ」
「ヤダ」
「てめコノヤロ」

 先ほどの会話は一旦途切れてしまい、謎は宙ぶらりんのままになった。私を心配してくれる「誰か」とは、一体誰のことだったんだろう。



 今日は部活が休みだったため、帰り道少しだけ野球部のグラウンドに寄ってみた。夏よりも日の入りが早く、空はすでにうっすらオレンジ色に染まり始めている。その色に確かな秋の気配を感じて、すうっと胸いっぱい空気を吸い込んだ。
 ――夏の大会で青道が敗れて以来、私は純さんとまともに顔を合わせていなかった。話しかけにくかったというのもあるし、向こうは向こうで副キャプテンになりチームのことで忙しかったというのもある。ただ、一度タイミングを逃してしまうと、案外次の機会を掴むのが難しい。
 私はのろのろとグラウンド付近のベンチに座り、今の憂うつな気持ちを吐き出すようにため息をついた。今日は珍しいことに見学のギャラリーは少なく、離れたベンチにおじいちゃんが一人、ぽつんと腰を下ろしているだけだった。
 今日は調整のため、主力はオフだと哲ちゃんから聞いていたが、やはりと言うべきか部員たちは自主練に励んでいた。グラウンドではちょうど、軽くアップをしている純さんたちが見える。
 純さん。少し見ない間に、顔付きが逞しくなったように見えたのは、副キャプテンになったせいだろうか。哲ちゃんはけっして口数の多い方ではないから、キャプテンの気持ちを代弁してくれるような純さんみたいな人がいるだけで、兄も心強いと思うのだ。
 私にとっての純さん。イケメンって言ってあげられなくてごめん、と心の中で手を合わせた。他の人は簡単に形容できるのに、あの人だけそれが叶わない。純さんだけ、純さんだけは、他の人と何かが違うのだ。それは――

「あー、もうっ。今日は帰ろっ!」

 とことんまで悩み抜かずに放り出してしまうのは、私の悪い癖だ。
 悶々とした気分を振り払うように、勢いよく立ち上がった。けれど突然、激しいめまいに襲われて思わず額を押さえる。気分が悪い。崩れ落ちるように再びベンチに座りこみ、こんなところでいけないと思いつつ、最初は控えめに横になる。そうすると思いのほかその姿勢がラクで、結局、本格的に横たわってしまった。次第に、全身へ溜まっていた疲れが一気にのしかかってきて、たまらず重い瞼を閉じる。
 遠くで、純さんの怒鳴り声が聞こえた気がした。
 ――今日も元気に吠えてるなぁ。


 強い光が見えた。全身を貫くような、容赦ない真夏の日差し。ジワジワうるさい蝉の鳴き声。どこかで嗅いだことがあるような、独特の土の匂い。
 私の右手は誰かと繋がれていた。その存在を確認するために見上げると、ずっと高い位置に、見慣れた父の顔があった。私は、自分の背が一気に縮んでしまったことに当然の疑問を覚える。
 さらに父の身体の向こう側を見ると、金網に顔をこすりつけるようにして、必死に何かを見つめる哲ちゃんがいた。その姿がまだ小学校低学年くらいだったので、私は不思議と合点がいった。なるほど、これは夢なのだ、と。
 あたりをよくよく見回せば、この見慣れた景色は間違いなく青道のグラウンドだった。
 幼い哲ちゃんは、何をそんな夢中になって見ているんだろう。私が視線の先を辿ろうとしたその時。
 カキィンと、てらいのない快音が響いた。無意識にそちらを向くと、そこには、雲一つない真っ青に晴れ上がった空に、何か白いものが吸い込まれていくのが見えた。どっと押し寄せるような周りの人々の歓声。
 金網一枚隔てたグラウンドの向こうでは、目が痛いほど真っ白なユニフォームを着た選手が、右腕を高く突き上げ走っていた。掲げられたその腕は、青空に溶け込むようなブルーのアンダーシャツに包まれている。
 哲ちゃんは、塁を回り終えホームを踏んだあの選手の広い背中を、穴が開くほどただ、じっと見つめていた。
 それはヒーローだった。正確に言えば、ヒーローたち。
 どんな戦隊モノのレンジャーより、どんなすごいプロ野球選手より、カッコよくて憧れた私たちの手に届く存在。
 私たちは、その頃確かに夢中だった。

 周りの大人たちが熱っぽく語る『甲子園』という響きには、夢とか憧れとかそういったワクワクするような何もかもが詰まっていて、私たちも当然それに倣った。「甲子園に行きたい」。甲子園なんて、本当はどんな場所かもわからなかったのに。

 ――遠くで女の子の泣き声が聞こえる。けれどその子はどこにもいない。
 舞台が暗転するように、私の周囲が暗くなった。
 泣き声は徐々に大きくなり、耳元にまで響く大きさになった頃、ようやくそれが自分から発せられたものであると気がついた。窒息しそうなほど強く、顔を押し付けていた白い座布団は、涙で無数のシミを作っている。泣きすぎたせいで、何度もしゃっくりが出た。
 それからゆっくり顔を上げると、そこはなぜかとても懐かしい場所だった。見慣れた古い戸棚の中の日本人形、どっしりした机の上には木彫りの置物。畳のにおい。知っている景色なのに、置いている物が少しずつ違う。
 じっくり見ていると、自分の中にすっと馴染んでくる感じがあった。私はようやく納得する。ああ、ここは昔のうちの居間だ。
 それを自覚した途端、フラッシュバックのように、私の脳裏に先ほどの出来事が再生された。

『わたし青道に入って“こうしえん”に行く!』
『なに言ってんのなまえ。女は“こうしえん”行けないんですー』
『でもわたし野球できるよ』
『でも女だから行けないんです〜』

 あの幼い夏の日。それは、近所に住む男の子との他愛もないケンカだった。
 今思えば、あの子にだって別に悪気はなかった。私がムキになったから、思わず乗ってしまっただけだろう。
 だけど、小さかった私とって、甲子園に行けないということは、天地を揺るがすほどの衝撃と悲しみで、そのあと取っ組み合いのケンカにまで発展した。
 家に帰って、散々泣いて、それから、それから――
 しばらくすると、遊びに出ていた哲ちゃんが帰ってきた。哲ちゃんは私の様子を見て何かを察したのか、『どうした?』と静かに訊いた。

『てっちゃん! 女は“こうしえん”に行けないんだって!』
『......そうか』

 その時の兄のなんとも言えない表情を、私は今でもよく覚えている。あらかじめ知っていたかのような、そんな複雑な顔だった。不器用な人だから、取り繕うなんてことができなかったんだろう。けれど兄は、慰めるための嘘もまた、つかなかった。

『じゃあ、おれが“こうしえん”に行くのはどうだ?』
『えー。てっちゃんだけずるい』
『でもなまえは家族だから、応援で一緒に行けるぞ』
『ほんと?!』

 今思えば、一緒に応援に行けるというだけで、グラウンドに立てるという意味ではなかったのに、単純な私は都合のいいように解釈して途端に元気になった。
 けれどあの時、哲ちゃんは確かに、人知れず小さく砕け散った私の夢を、すくい上げてくれたのだ。

 ――また、遠くで音がする。今度は何だろう。
 ビュン、ビュンと。規則正しく、懸命に何かを振る音だ。

 まどろみの底から、ゆっくり浮上する感覚。うっすら靄がかかったような目の前の景色が、徐々に鮮やかさを取り戻していく。
 まず視界に飛びこんでできたのは、夢の中で遭遇した白と、青。続いて、規則正しいあの音が耳をかすめる。
 目の前には、夢の中のあのヒーローの背中があった。一心不乱にただ、バットを振っている。
 これはもしかして、夢のまた夢というやつかもしれない。はっきりしない頭で、そんなことを考える。
 眼前の背中は、夢で見たホームランを放ったあの選手より、少し小さかった。けれどなぜか、引力のように強烈に引き寄せられて目が離せない。
 すると、ふいに。そのまま背中が、くるりとこちらを振り返った。
 その顔を見た瞬間。あまりの懐かしさに、息が止まりそうになった。

「ん? やっと起きたのかよ」

 あの人だった。イケメンでもハンサムでもない、だけど良い面構えをした、あの人。
 懐かしい、というのもおかしな話で、夢で見た光景の方が懐かしいのに、その過去から戻ってきてみると、今の方が懐かしく感じる。遠いところから帰ってきたような、不思議な感覚。純さんとこうやってまともに話すこと自体が、久しぶりだったからかもしれない。
 数度、まばたきを繰り返して、今の状況をゆっくり整理する。

「......純さん?」
「おう」
「あれ? もうアップ終わったんですか?」

 私の質問に、純さんは困ったように頭をかいた。何かおかしなことを言っただろうか。
 するとその時、私の肩から何かがずり落ちた。独特の肌触りと、嗅ぎ慣れない洗剤の香りが広がって、それが見知らぬバスタオルであることにその時初めて気がついた。
 空はすでに夕闇が迫っている。
 そうだ、あの時急に気分が悪くなったから横になって、それから――

「私、もしかしてここで寝てました?」
「おー。ぐっすりな」

 ニヤっとからかうような笑みを浮かべて、純さんは私を見た。
 全身の血という血が沸騰して、一気に顔中に集まっていく感覚がする。顔から火が出るとは、まさにこのことだ。

「ごめんなさい! これ、純さんがかけてくれたんですか?」
「乾いてたやつ適当に持ってきただけだ」
「すいません、でした......」

 自分の声は次第に消え入りそうに弱まり、あまりの恥ずかしさに、もうその顔を見ることができない。ギャラリー用のベンチで眠りこけるなんて相当マヌケだ。

「ったく、こんなとこで寝やがって。風邪ひくだろーが!」
「す、すいません......」
「んな短けぇスカート履いてたら腹冷やすぞ」

 そう言った純さんの顔が少しだけ赤い。
 バスタオルをめくると、なるほど、ベンチで無理な体勢で寝ていたせいか、スカートがめくれて腿が若干露出していた。タオルを被せてくれたのは、これを隠す意味もあったのかもしれない。
 安心したのもつかの間、けれど純さんには見られたかもしれないと、さっきの恥ずかしさが一気にぶり返す。

「あの、これはえっと」
「おい、落ち着けっつーの」
「す、すいません......」

 羞恥心から何気なく視線を移すと、純さんの持つバットが視界に入った。妙なところで素振りしてるな、とっさにそう思う。普段はこんなグラウンドの入口付近などではなく、室内練習場や寮の裏の空き地なんかを使っているのに。
 ――妙なところ。その瞬間、ふいにはっきり悟った。
 ここに私がいたからだ。
 放っておいてくれても、起こしてくれてもよかったのに、何も言わずにそばにいてくれた。私がここにいたことで、純さんが満足に練習できなかったんじゃないか思うとぎゅっと胸が痛む。

「あの、私、自主練の邪魔しちゃいましたよね。本当にごめんなさい......」
「別に。どこでやろうと素振りは素振りだろ」

 フンと鼻をならしながら、純さんは再びバットを一振り。それからわずかに眉を寄せ、私と目を合わせた。

「つーかいい加減謝んのやめろ」
「あ、はい」

 そういえば、目覚めてから今まで私はすいませんを連発していた。
 ゆるゆると首を振ってから顔を上げ、純さんの顔をまっすぐ見る。

「ありがとう、ございました」
「おう」

 薄暗い中であっても、この人の笑顔の眩しさは変わらない。
 日はもうほとんど落ちかけていて、空は夜の色濃いグラデーションを作りだしている。夕方、あんなに大勢いた部員も今はまばらだ。
 純さんは、この人にしては控えめに、そういや、と切り出した。

「身体、大丈夫か?」
「え?」
「なまえ最近、元気なさそうだったからよ」
「ああ、はい。でもたぶん、もう大丈夫です」

 私の根拠のないような返事に、純さんは不思議そうな顔をしたが、それ以上追及してくることはなかった。自分の身を案じてくれる人がいるだけで、それだけでもう、大丈夫だと思えたのだ。

「さてと、そろそろ戻るか」

 そう言って首にかけたタオルで汗を拭く。最初は気がつかなかったが、純さんはかなりの汗をかいていた。
 そうだ、この人は私が目覚めるまで、何回バットを振ったのだろう。
 夢の中の幼い私が泣いてたせいか、それに同調するように、私まで鼻の奥がツンとして、泣き出してしまいたいようなどうしようもない衝動に襲われる。
 この気持ちは――。
 この気持ちは確かに、以前から私の胸の内に存在していた。その何かがわかりそうな気がして、胸のあたりをそっと優しく押さえてみる。
 すると、心の奥底に眠っていた感情が、生まれたての水源のようにじわじわと溢れだしては流れていく。それは、とても素直に私の心に染み込んで広がっていった。
 私の気持ちの、正体。
 この感覚は、秋という季節のせいだけじゃないと、もうすでに気づきはじめていた。
 その時、私は胸の内で小さな決心をした。これからはこの気持ちにきちんと向き合って、育てていこう。
 うん、と私が一人で勝手にうなずいていたものだから、純さんは首を傾げながら

「なんだよ」

 私は少しうつむいてから、口を開いた。

「夢を見ていたんです。小さい時の夢」
「あ?」

 聞いてほしかった。幼い頃に憧れた、私のヒーローに。




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