01. はじまりの季節

 最近、哲ちゃんの帰りが遅い。
私の兄は結城哲也、通称・哲ちゃん。ちなみに、私しか呼んでいない。

 兄は青道高校に入学して一ヶ月、野球部の練習に明け暮れ、毎日遅い時間に帰宅する。今日も家族が食べ終えてから一人、夕食をとるために食卓テーブルについた。哲ちゃんは箸を右手に持ったまま、器用に熟睡していた。たまに箸で何かをつまむ動作をするので、夢の中で食べているつもりかもしれない。けれど幻でお腹はふくれないのだ。
 私は兄の目の前に、大盛りのごはん茶碗をドンと音をたてて置いた。

「はっ!……うむ、二杯目は漬物といただこう」

 兄の目はしぱしぱしていた。

「哲ちゃん、それ一杯目だよ……」

 哲ちゃんは食卓と私の顔を交互に見つめたあと「すまん」と漏らした。私は哲ちゃんの向かいのイスに腰をかける。

「すごい疲れてるんだね。練習そんなに厳しいの?」
「まぁ、強豪校だからな。厳しいことは厳しいが、全て意味のある練習だ」

 焼魚を箸で器用に解体しながら話す。兄は魚の食べ方がとてもきれいだ。

「そっか。あの監督、鬼軍曹みたいだもんね」
「片岡監督だ」
「うん」

 小学生の頃から野球をしていた兄と私は、近所にある青道によく兄妹一緒に練習を見に行っていた。地元の野球少年の間では、青道野球部はヒーローみたいな存在だったのだ。「己を鍛えるため」に入った青道に、兄は相当思い入れがあるんだろう。
 ただ、青道高校は四年前に監督が代わっていた。私が熱心に青道の練習を見ていたのは小学生の頃、つまり前任の榊監督の時代だ。中学生になり、あまり練習を見に行かなくなったまま三年目を迎えた私は、鬼軍曹のことをよく知らない。小学生の頃見学していた時に、コーチで指導をしていたのはなんとなく覚えている。けれど子供心に、顔の怖い片岡コーチには近づきたくなかったのであまり印象がないのだ。

 食事を終えた哲ちゃんが、食器を持って立ち上がる。私はテレビを見るふりをするため急いでテレビにかじりついた。
 哲ちゃんが居間を出て行き、金属特有の硬質な音と玄関の戸を閉める音が聞こえた。続いてドドドと階段を下りる音。
 まただ。

「なまえー!なまえー!」

 台所の母が私を呼ぶが、たまには自分で行けばいいのにと思う。諦めた私は、重い腰を上げ玄関へ向かった。

 ちょうどスニーカーの紐を結び終えて立ち上がった奴の前に、私は裸足のまま急いで立ちふさがった。
 弟の将司だ。哲ちゃんと同じ顔をした将司が、私に無言の圧力をかける。二人は本当によく似ている。

「…………」
「将司はもう十分練習してるんだから、哲ちゃんの素振りに付き合うことないよ……」

 私は目で必死に訴える。

「…………」
「…………」

 将司が右へ動けば、私もそちらへ動き、左へ動けばまた然り。
 私は現在、赤堂中学のソフトボール部であり、今年中学一年生の弟も野球をしている。なのにこのバスケ部のような動きを、最近ほぼ毎日していた。生真面目な弟は、練習から帰ったあと家で自主練をし、哲ちゃんの素振り練習にも付き合おうとする。中一でいくらなんでもオーバーワーク気味だ。

「姉貴、邪魔」
「ど、どかないから……」

 昔は「お姉ちゃん」と呼んでいた可愛い弟が、とっくに私の身長を追い越し、声変わりした野太い声で「姉貴」と呼ぶのが少しせつない。

「…………」
「…………」

 しばらく睨み合ったあと、玄関から物音がした。休戦の合図にホッと胸をなでおろす。ガラガラと引き戸が開き、汗だくの哲ちゃんが戻って来た。

「なんだお前達、まだ風呂に入ってないのか?先に行くぞ」

 何も知らない兄はずんずん風呂場へ向かっていった。さっき睨み合った顔と同じ顔でこんなことを言われると、私はとてもむなしい気分に駆られる。

「…………」
「…………」

 私たちは今日も無言で別れた。この不毛な戦いは、いつまで続くんだろうか。


 翌日、私が久しぶりに青道へ足を向けたのは、本当にただの気まぐれだった。
 この日の部活は散々だった。四月後半にあった春季大会は一回戦負け、そのあとのゴールデンウィークが終わり、一気に気が緩んだのが原因だ。世間一般でいうところの五月病をわずらった私は、今日の紅白戦でエラーを連発し、監督にこっぴどく怒られた。

「はぁー、どうしたもんか」

 鬱々とした気分で自転車にまたがり、帰途につく私の視界の端に、青道のグラウンドのナイターの明かりがかすめた。

 青道高校は住宅街の中にどっしりと鎮座する、この辺りではかなり広大な敷地を持つ学校だ。部活動も盛んで、様々な部がある。野球部だけでグラウンドを二面持つ贅沢な設備は、私学の強豪校ならではだろう。
 校舎の正面の壁面にはよく「○○部インターハイ出場」とか「○○さん○○大会優勝」などの横断幕が下がっている。その中でも、この街の多くの人々が待ち望むのはやはり「野球部・高校野球大会優勝」の文字だろう。けれど「野球部・甲子園出場」の文字も、ここ近年では見かけなくなっている。

 青道は中学校よりも家に近く、遠目からグラウンドの全景は見える。けれど角を一つ曲がり、もっと近づかないと、練習風景までは見えなかった。
 昨日哲ちゃんとあんな話をしたせいかもしれない。私は光に集まる羽虫のように、ふらふらとナイターの明かりに吸い寄せられていった。

「さこー!」
「こーい!」

 敷地外の目立たないところに自転車をとめていると、練習中の部員の精悍な掛け声が耳に入ってきた。グラウンド看板の字体や、プレハブのこじんまりした感じに、一気に懐かしさがこみあげてくる。その時私は、グラウンドの側にギャラリー用のベンチを発見した。

「――あ、これ」

 小学生の頃これに座って練習を眺めていた時、前任の榊監督に頭を撫でてもらったことがあった。恰幅の良い体に真っ白な髪、目尻の皺が深く刻まれた優しい顔。「坊主、お前も野球するのか」と大きな手で豪快に撫でられるのがとてもうれしかった。明らかに私を男の子と間違えていたが、そんなことは気にならないほど、当時の私は有頂天だったのだ。

 思い出に浸りながら、徐々にグラウンドへ近づいてゆく。昔よりグラウンドが小さく感じたのは、きっと私が成長したからだろう。遅い時間のためか、いつもは数人いる近所のギャラリーのおじさんたちも今は見当たらない。ホーム付近は選手の出入りが激しく、見学している姿も目立つため、私は外野側へ回った。用具倉庫の陰からひっそり見ることにする。
 Aグラウンドの内側では守備練習、外側ではランニングをしていた。Bグラウンドも使用されている。青道の一年目は徹底的に体力づくりを行うと聞いていたので、ランニングの集団から哲ちゃんの顔を探した。

「あ、いたいた」

 すぐに集団の二番目を走る兄の姿を発見する。いつから走っているのか、みんな死にそうな顔をして必死に食らいついているという感じだった。

「がんばってるなぁ……」

 昔はすごくお兄さんに見えた部員たちが、今では自分とあまり年が変わらないのが不思議だ。当時はただすごいと思って練習を見ていた。けれど自分も中学で部活を始め、一つ一つの練習の意味を知るようになった今、青道の練習を見ると、その怪物級の練習量に舌を巻く。

「ボールから目を離すな!体で止めろ!」

 内側では、いつの間にか監督のノックに切り替わっていた。あいかわらず怖い顔だ。ノックは、宣言した方向へ絶妙なスピードの球が飛ぶ。どうしてもレギュラーメンバーへの指導が多くなるが、監督はそれでも三軍と思しきメンバーにも等しく熱心に声をかけていた。
 母校へ恩返しがしたいと、プロの誘いを断って指導者になった片岡監督。選手一人一人を大切に思い指導している。きちんと榊監督の魂が受け継がれていることがうれしかった。鬼軍曹なんて言ってごめん、と心の中で謝る。
 また外側のランニング列へ視線を戻すと、哲ちゃんがちょうど先頭をキープしていた人を追い抜くところだった。

「おお、いけいけ」

 心の中で兄に旗を振る。

「テメェ……待てってんだ!俺の前に出んじゃねぇ!!」

 哲ちゃんに抜かれたその人が必死に追いすがる。片岡監督も怖い顔だが、その人はまた違うタイプの怖い顔だった。大声で怒鳴りながら追いかけるその人は、哲ちゃんと同じくらいの背丈の鋭い三白眼の持ち主で、睨むとかなり迫力があった。
 “狂犬”という表現がぴったりくる強面だ。
 後ろの様子に気付いた哲ちゃんが加速する。その人もギアを上げた。顔には出ないが人一倍負けず嫌いな兄は、そのままのスピードで駆ける。自然、ランニングの集団より遥か前で競り合う形となり、二人のスピードは今やポール間ダッシュ並みだった。
 そしてそんな無茶なペースがいつまでも続くはずはなく、疲れた二人は徐々にランニング集団に戻ってゆき、さらにその集団にも追い越され、もはや集団の遥か後ろのドンジリだった。兄は何をやってるんだろうか。
 するとコーチが見かねて一喝した。

「何やってんだお前らは!ちゃんとペース考えて走れ!!」
「すみません……」
「さーせん!」

 神妙な顔で謝りながらも、水面下では二人の間に火花が散っているように見えた。ただ火花の量は、あの怖い顔の人の方が多い気がする。二人はライバル関係なんだろうか。
 最近日が長くなってきたとはいえ、夜も更けてきたので、私はそろそろ帰ることにした。最後にもう一度、グラウンドを振り返る。今日は片岡監督の熱心な指導を知り、兄のがんばりを知り、兄のライバル(?)も知ることができた。いつの間にか、エラーで沈んでいた気持ちは吹き飛んでいた。自転車にまたがり、勢いよく自転車のペダルを踏み込んで家路を急ぐ。
 今日は無性にバットが振りたい気分だった。



*prevnext#

index / top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -