29. 夏の檻
準決勝当日。その日は練習にほとんど身が入らなかった。終わってからすぐに、流れる汗もぬぐわず、スパイクの土も落とさず、真っ先に更衣室に駆けこんだ。ロッカーの中のエナメルバッグをあさり、もどかしい手つきで携帯を取り出す。震える手で母からの新着メールを開いた。
胸の鼓動がなかなか収まらなかったのに、その文字の羅列を見た瞬間、心臓に氷でも当てられたのかと思うほど、ひやりとした感覚が全身を駆け抜けた。
“負けました”
一旦、メールを閉じて、もう一度それを開く。当たり前だけれど、それによって内容が変化することはなかった。メールをくまなく見ても、“勝利”の文字は、私の望む言葉は、ひとつも並んでいなかった。
――今年も、届かなかった。
顔を伏せ、額に携帯をあてる。ロッカーを背に思わずへたりこむと、スパイクの中からはただ、じゃりじゃりという土の不快な感触だけが残った。
私が帰宅すると、哲ちゃんは自室に引きこもっていて、顔を見ることはできなかった。私だって、どんな顔をしていいのか、どんな言葉をかけたらいいのかわからない。
とりあえず今日観られなかった試合を確認するため、テレビをつけた。二階にいる哲ちゃんに聞こえないよう、ボリュームを下げて。
息子たちの野球観戦歴が長い母の撮影した映像は、手慣れたものだった。変にボールを追いすぎてなくて、試合の状況がよくわかる。
西東京大会準決勝、対稲城実業高校。東さんを筆頭とする強力青道打線が、完全に抑えこまれていた。稲実の先発投手も優秀だったが、それ以上にリリーフの一年生投手がすごかった。
成宮鳴。そのピッチングはもちろんのこと、前だけを見据える強い目と、負けん気の強そうな口許は、来年には絶対的エースとして稲実に君臨するであろう片鱗を思わせた。
青道は、来年もこの人の擁するチームと当たるかもしれない。そう思うと、握った手のひらは汗をかいているのに、身体は怖いくらい冷たくなっていく。
その時突然、背後でガタッと物音がしたので慌てて振り返った。一瞬、哲ちゃんかと思い素早くリモコンを取ったが、そこには無表情の将司が立っていた。二人はよく似ているので、こういう時とてもひやりとする。
「なんだ、将司か......」
将司は麦茶の入ったコップ片手に、私の隣へ座った。
「すごい投手だな」
「うん」
二年生にして国分シニアの主軸となりつつある将司。弟は成宮さんのピッチングを食い入るように見つめていた。自分ならどう攻略するか、きっと無意識に考えているに違いない。スラッガーとしての血が、そうさせるのだろうか。哲ちゃんに負けないくらい、真っ黒に日焼けした腕のたくましさを眺めながらふと、弟の夏を思った。
「シニアの練習たいへん?」
「勝つためには当然の内容だろ」
「そう......。ねぇ、将司は高校どうするの? 青道、行くの?」
将司は、さぁ、とそっけなく言って麦茶を飲みほした。
弟はある種とても現実的な性格だから、自分の実力が発揮できる場所ならどこでもかまわないと思っているのかもしれない。そんな将司の目に、青道はどう映っているのだろう。
「......青道は来年、甲子園行けると思う?」
将司は少し眉を寄せ、つかの間、思案しているようだった。
「この人みたいなエースがいないと厳しいだろうな」
「だよね......」
勝敗のわかっている負け試合を観るほどつらいものはない。成宮さんに抑えこまれたままの青道になす術はなく、ついに試合終了。そのまま泣き崩れる三年生。こわばった表情のまま必死に堪える二年生と一年生。静まり返るスタンド。蘇るのは、去年球場で体験した悪夢だった。素人が撮影した映像だから、もちろん解説なんてなくて、ただ淡々とそれが映し出されている。
「ねぇ、将司。この人たちは一体なにを持って帰るのかな」
先輩たちは泣いていた。地面に拳を叩きつけて、顔が土で汚れるのも気にせずに泣いていた。これは特別な土じゃない。甲子園の土じゃない。甲子園で負けた選手は甲子園の土を持って帰るけれど、甲子園の途中で道を絶たれた選手は、いったい何を持って帰るのだろう。
翌日。母から哲ちゃんは休みだと聞いていたが、当たり前のように練習の支度をする兄がいた。できるだけ明るく、声をかける。
「おはよう。昨日は、お疲れさま」
「ああ」
あまり寝ていないのか、哲ちゃんの目は少し充血していて、そこに新鮮な悔しさや疲労がにじんでいた。
「今日も練習出るんだ」
「......昨日あんな負け方して、休んでなどいられない」
押し殺すようにつぶやきながら、荷物を淡々とエナメルバッグへ詰めていく。
そう、去年もそうだった。負けた翌日、休暇は言い渡されたものの、哲ちゃんは普通に練習に出ていたのだ。けれど、スタンドで応援するだけだった去年とはもう、何もかもが違っていた。哲ちゃん自身があの試合に関わったのだから。
その日、部活の合間にそっと野球部のグラウンドをのぞいてみると、休みだというのにたくさんの部員が練習に励んでいた。みんな寮に残って自主練しているのだろう。昨日の今日で、まだショックは引きずっているはずなのに。ただ、哲ちゃんや純さんは室内練習場の方にいるのか、見つけることはできなかった。
夕方、学校からの帰宅途中、近所の河川敷で久しぶりにお兄ちゃんを見た。二軒隣の元青道野球部員で、今は大学の夏休み中らしく実家に帰省しているのだろう。
日没直後の群青に染まる空の下、一人ぽつんと土手に腰かけていた。前会った時より髪がずいぶん伸びていたけれど、その背中は、間違いなくお兄ちゃんだった。
この河川敷は昔よく、私たち兄弟とお兄ちゃんが一緒に練習した場所だ。
声をかけようと一歩踏み出したのに、自分の足はそれ以上動かなかった。不思議だ、なぜだろうと、その背中を眺めながらぼんやり考えていた時、はたと思い至った。
それはたぶん、数年前のあの“夏”のせいだろう。スタンドで応援していたお兄ちゃんも、きっとあの悔しい思いをしたはずだ。その寂しげな背中は、数年経った今も、あの“夏”に囚われたままだった。
家に帰ったあとも、胸に何かがつかえたみたいに、気持ちが晴れなかった。
それに、私のあとに帰ってきた哲ちゃんの様子も気になる。まだ気落ちしているんだろうと思えばそれまでだが、どこか別のことを思い悩んでいるように見えた。
自室のベッドの上で大の字になって天井を見上げる。扇風機の風が、生温い風を運ぶ。時折、開け放した窓からかすかな夜風が吹いて、控えめに風鈴を鳴らす。
“夏”は今年も、あと少しのところですり抜けて行ってしまった。
閉じた瞼の裏には、今も鮮やかに、昨日の映像が焼きついていた。試合終了後、泣き崩れる先輩の横で、呆然と立ち尽くしていたあの人。はっきりと表情は見えなかったけれど、必死でくやしさに堪えているように見えた。
必死で努力したぶん、叶わなかった時の反動は大きい。ふと、今日河川敷で見た背中を思い出した。お兄ちゃんは、卒業してからもしばらくは高校野球中継は見られないと言っていた。
来年、もし青道が負けた時、哲ちゃんやあの人も――
そこまで考えて首を振った。不吉なことを考えたらだめだ。ひとまずこのもやもやの原因を片付けようと、枕元の携帯を引き寄せた。そこから電話帳を呼び出す。カテゴリー【野球部】には、御幸くん、倉持くん、前園くんの名前が並ぶ。御幸くんは違うな、と思い選択肢から外した。あとは倉持くんか前園くんか。つかの間迷ってから、通話ボタンを押す。それから五度目のコール音のあと、繋がった。
『もしもし前園くん? 今、電話大丈夫?』
『なまえ? なんや、どないした?』
前園くんの後ろでざわざわとテレビの音が聞こえた。続いて「健太ー!」と呼ぶ女の人の声。寮とは異質の生活音に、はっとした。
『あれ、もしかして実家? ごめん、切るね』
『いや、かまへんで。なんの用や?』
そうだ。哲ちゃんが休み中に練習に出たからといって、みんながみんなそうとは限らない。特に前園くんのように遠くから上京してきた部員は当然、帰省しているのが普通だ。自分の問題で精一杯で、周りがまったく見えていなかったことをひどく恥じた。今日、純さんを見かけなかったのだって、実家に帰っていたせいかもしれない。
『ありがとう。えっと、昨日はお疲れさま』
『おう』
『久しぶりの実家、ゆっくりできた?』
『あぁ、まぁな』
前園くんは少し言葉を濁した。
『家族の人喜んでるんじゃない? 夜ごはんはたこ焼き? お好み焼き?』
『おい、関西人が粉もんばっか食ってるみたいに言うな!』
『はは、じゃあなに?』
『......まぁ、お好み焼きやけど』
『やっぱり!』
しばらく他愛のない話をしたあと、前園くんがいきなり切り出した。
『んで、そんな話するためにわざわざ電話したんか?』
『......違い、ます』
『まどろっこしいこと抜きでさっさと本題言えや。純さんのことやろ』
ぐっと言葉につまった。さすが前園くん、人の気持ちを察することに長けている。
『......うん。どうしてるのかなぁって。今日、グラウンド行ったけど会えなかったし』
『お前なぁ、大阪にいる俺に聞くより、会いに行ったらええだけの話やないか。確か帰省はせん言うてたで』
『でも、今会って練習の邪魔したくないから』
『かーっ、辛気くさっ!」
『......ごめん』
それから前園くんは、先ほどより低いトーンでぽつぽつと話しはじめた。
『純さん、かなり落ち込んどったな。わかりやすい人やし』
『うん』
『自分が打てへんかったことと、東さんが抑えられてたこともショックやったみたいや』
『うん』
『でも東さんたちには悪いけど、俺らには次があるからな。あの人のことやから今頃、素振りでもしてるんとちゃうか』
『そう、そうだよね......』
そうだ。純さんは外野手にコンバートされても、努力して、努力してやっと今のポジションを勝ち取ったのだ。去年ずっと、その姿を応援していた自分が信じなくてどうする。
それから少し言葉を交わしたあと、電話を切った。迷惑な電話をしてしまったな、と反省する。前園くんは頼りがいのある性格だから、つい甘えてしまうのかもしれない。中学の時、もしかしてキャプテンでもしていたんじゃないだろうか。
――キャプテン。
その時ふと、新チームのキャプテンは誰になるんだろうという疑問がよぎった。
けれど、玄関からいつもの金属音がしたので、意識はそちらへと移った。今から素振りをしに行くのは、哲ちゃんか、将司か。
そろそろと立ち上がって窓の外を見ると、そこには、悔しさを振りきるような、まっすぐで揺るぎない背中があった。うん、やっぱり。
目を閉じて、がんばれとエールを送る。
今頃、同じ夜空の下、バットを振っているであろうあの人の強さを思いながら。
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