28. さんかくの想い

 二度目の夏が巡る。
 長かった梅雨が明け、ここ東京にも、ようやく本格的な夏がやってきた。ばかみたいに青く高く晴れ上がった空からは、突き刺さるような白い日射しが照りつける。
 夏の大会。青道高校野球部は、順調に白星を挙げていった。初回の方の試合は余裕のコールド勝ちが続いた。
 正捕手のクリスさんを欠き、一時はチームの状況が危ぶまれていたものの、御幸くんが加わったことにより、逆にチームの士気が高まったと言えるのかもしれない。一年生といえど御幸くんの実力は確かで、試合を重ねるごとに成長しているのではないかと思えるほどだ。
 自分の部活があるため、すべての試合を観に行くことは叶わなかったけれど、時間がある時は必ず球場に足を運んだ。観に行けなかった日は、母の撮影してくれたビデオで試合を振り返った。
 ーーそして明日はいよいよ、積年のライバル、稲城実業との準決勝を迎える。




「観に来ねぇのか?」
「はい。練習があるので」

 試合の二日前。部活の昼休憩を利用して野球部の練習を見学していた私は、偶然そこで純さんに会った。
 夏の大会で予選敗退した我がソフトボール部は、すでに夏休みを迎えていた。ただ、夏休みといえど敗戦の悔しさに浸る余裕はなく、すぐに新チームが始動していた。私も今は熾烈なレギュラー争いに必死なのだ。
 クリスさんの一件で一時は気落ちしていた純さんだったが、持ち前の前向きさを取り戻し、今は以前と変わらぬ豪快なプレーでチームに貢献しているようだった。
 あたりには蒸すような暑さが漂うものの、時折、爽やかな風が吹き抜ける。グラウンド付近に植えられた樹木の葉は、夏の光を浴び、いきいきとした生命の輝きを放っている。止むことのない蝉の鳴き声。今年もついに“夏”が来たんだと、実感せずにはいられない。
 そっか、と短く返事をした純さんは、けれどもそれを残念がっているようには見えなかった。
 私だって本当は球場で決勝が観たい。学校に残って部活に出たところで、前よりピリッとした雰囲気の中で、怖い監督にあいかわらず怒鳴られながら炎天下のもと練習するだけだ。
 神宮の球場で、生の空気で、その一瞬一瞬に立ち合いたい。でもだからと言って、今自分ががんばっていることを放り出して観に行くのは、少し違う気がした。
 目の前の純さんは、フンと鼻をならしてから口を開いた。

「お前が練習ほっぽり出して観に来るっつったら、ヘッドロックかましてるとこだったぜ」
「はは、笑えませんよそれ......」
「ちゃんと監督にアピールしろよ!」
「はい!」

 にかっと気持ちよく笑うその顔が眩しかった。これを球場で見ることができたら、ふいにそう思う。

「でも、ここからちゃんと応援してますから」
「おう!」

 笑顔の純さんと視線を交わし合ってから、私はグラウンドの方へ目をやった。今はちょうどグラウンド整備中で、部員たちのトンボのかけ方も余念がない。野球部は、こういったレギュラー以外の部員一人一人にも支えられているんだと改めて実感する。

「そういえば、御幸くんすごいですね。いきなりの抜擢だったのに」
「あいついい度胸してるぜ。野球のこととなると俺ら先輩にだって容赦ねーし」
「野球に関しては遠慮ないですもんね」
「ま、あいつのやる気に感化されてるとこはあるかもしれねぇな、みんな」

 どこか遠くを眺めてしみじみ言う純さん。
 午後の強い日差しが、容赦なく全身に照りつけるものだから、私は少々辟易して地面へ視線を落とした。灼けつくアスファルトには、夏特有の濃い影が、純さんの輪郭をはっきり形作る。
 観に行かない。
 そう格好つけて宣言したものの、早くもその決意は揺らいでいた。本当に私は意思が弱い。もう決めたことじゃないかと、純さんに気づかれないように下を向きぎゅっと目をつむった。だけどせめて何か。何か力になれるようなことがしたかった。純さんのために。
 けれどその時ふと、自分の中の考えに待ったをかけた。
 純さんのため? チームのためではなく?
 そういえば以前もそんなことを思った気がする。あれは、いつのことだっただろう。
 流れる汗が目にしみるのもかまわず、残像にして焼きつけるように、私はその影をただじっと見つめていた。




 翌日。明日の試合の激励のために、私は早起きしてその準備に取りかかっていた。こんなに早く起きたのは久しぶりだ。
 あくびを噛み殺しながら、ぴんと背筋を伸ばして姿勢良く立つ。平常心。白飯を軽く手に取り、静かな気持ちで心を込めて握る。でも、握るんじゃなくて整えるだけ。これが意外に難しい。

「十個目かぁ」

 ため息をつきながら手の中のおにぎりを置いた。おにぎりたちは、白いお皿の上でちょこんと行儀よく整列している。
 運動をする人に、何かいい差し入れはないかと友達の友ちゃんに相談したのが昨日のこと。純さんの名前は伏せたのに、なぜか友ちゃんにはバレバレだった。
 そのありがたい提案の内容は、お菓子やお弁当、レモンの蜂蜜漬けなどなど。ただ、本人が甘いものが好きなのかどうかわからないし、お弁当はちょっと特別な間柄のもののような気がする。蜂蜜漬けは即席でもできるけれど、漬けこんだ方が断然おいしいし、そうするともう時間がない。そこで、気軽に食べられて万人受けもするおにぎりに決まった。それに、お弁当と違い、味付けに気を使うこともなく気楽に作ることができる。具を数種類用意し、もちろんチーズも忘れない。
 合宿でマネージャーさんたちの仕事を手伝った時、個人的にひそかに作りたいと思っていたのも、理由の一つだ。
 合宿の時はただ必死で、なかば作業のように握っていたけれど、今は心の余裕がある。
 手のひらのご飯の熱を感じながら、私は奇妙に静かな気持ちで、自分の中に眠るある感情に向き合っていた。他の誰でもない、純さんのためだけに、何かをしたいという気持ち。心の中でむずむずするような、気恥ずかしい何かがうずくのを感じる。けれども今はだめだと、冷静にその想いをきれいな三角形にした。三角形に、正した。
 今は野球部にとっても純さんにとっても大切な時期だから、こんな想い今は表に出してはいけない。純粋な気持ちで、応援するのだから。
 あくまで冷静に、私はひたすら握っていった。すると、安定したバランスの三角形は、私の心の均衡を保ってくれているようだった。
 それからはただ無心で、うまくできたものを渡そうと握り続けた。純さんに食べてもらう分は、ラップではなく、おにぎり専用シートにくるむこだわりようだ。

「おはよう」

 突然かけられた声に、私ははっと我に返った。まだ完全に目覚めきっていない様子の哲ちゃんが、居間へと顔を出す。

「あ、おはよ」
「今日は早いな、なまえ」
「うん、ちょっとね」

 不思議そうな面持ちの哲ちゃんに、私は目の前のおにぎりを示した。

「たくさんあるから食べてね」
「............」
「どうしたの?」
「......177番だったか」

 さっと表情をこわばらせた哲ちゃんが、電話の方へと向かって行った。いくら私が料理するのが珍しいからと言って、ずいぶんと失礼な話だ。

「ちょっと、明日は降水確率0だから! 心配しなくても試合で雨なんて降らないよ!」
「念のためだ」

 私の文句を手で制しながら、受話器を耳に当て、177に熱心に耳を傾ける哲ちゃん。自分の耳でしっかり天気予報を聞き届けたあと、安心したように受話器を置いた。

「明日、いよいよだね」
「ああ」
「緊張してる?」

 哲ちゃんは、まぁな、と小さく笑った。稲実はここ数年ずっと苦しめられてきた相手だ。明日の試合も今までで最大の山場だろう。

「だが、俺たちの持てる力をすべて発揮するだけだ」

 力強く言い放った哲ちゃんは、去年よりずっとたくましい。私は笑顔でそれに応えてから、兄の好みそうな梅おにぎりをすすめた。
 ほどなくして、階段を下りる足音が聞こえて、今度は将司が居間へと入ってきた。

「......朝から何してるんだ?」
「あ、将司、おはよ。おにぎりあるから食べていいよ」
「............」

 すると、将司は急に険しい表情を浮かべながら、手元の携帯で何やら検索しはじめた。きっとネットの天気予報だろう。揃いも揃って失礼な兄弟たちに、私は深いため息をついた。
 それから私は、おにぎりの乗ったお皿を持って、仏壇のある和室へ向かった。おにぎりをお供えし、畳の上に正座して、静かに手を合わせる。
 ーー哲ちゃんたちをどうか見守っていてください。
 そして、仏壇のすぐ横の方に視線をやった。ここには無造作に写真立てが置かれていて、もうずいぶん色あせた、古い写真が飾ってある。
 それは、遠い日の家族の肖像。祖父母、両親、哲ちゃん、将司。そして、不機嫌な顔をした幼い私の肩に、手を置いて笑うあの人だ。


 その日、昼休憩の時間に野球部のグラウンドへと向かった。試合当日に渡したって迷惑になるから、前日に軽くつまんでもらえればと持ってきたのだ。
 ちょうど寮の方へ戻りかけていた純さんに声をかけると、不思議そうな顔をしてこちらを振り返った。

「なまえ? どうした、珍しいじゃねぇか」

 私は突然の訪問を謝ってから、さっそく本題を切り出した。

「純さん、あの、これ......」

 私が保冷バッグを差し出すと、純さんは一瞬目を丸くしたあと、すぐに納得したような顔になった。

「わかった。哲に渡しとく」

 そう言ってバッグの取っ手を掴む。
 違う、そうじゃないと、そのまま渡しかけた私の手が止まった。自然、二人で取っ手を持つ形になる。私は必死で言葉を探しながら、あのとかそのとか、意味をなさないセリフをもごもご繰り返していた。

「じゃなくて......」
「んだよ」
「えっと、哲ちゃんじゃなくて」
「じゃあ誰だよ」
「あの......」
「......もしかして、ゾノか?」

 予想外の人物の名が飛びだしたことに驚いて、純さんの顔を見つめた。でも、そこにからかいの色は含まれていない。するとその行動で、互いにまっすぐ視線がぶつかってしまい、慌てて目をそらした。

「違います。なんで前園くんなんですか」
「や、なんとなく」

 純さんの顔を見ることはできなかったけれど、その声はどこか平坦な気がした。
 正直に話そうとすればするほど、徐々に自分の顔の火照りがひどくなっていく。今私たちは、保冷バッグでお互いが繋がっている状態。私の熱がバッグを通して純さんへ伝わってしまわないだろうかと、バカな危機感が頭をもたげていた。
 大丈夫だ。なんたって“保冷”バッグなんだから。そう自分に言い聞かせ、私はひとつ息を吸い込んだ。

「......これは、純さんに」

 決意を込めて短く言うと、思いきってバッグの取っ手を離した。
 そしたらふっと。急に手の中の重みがなくなった。
 ドサッというマヌケな音ともにバッグが床へ落ちるのを、お互いどこか他人事のように眺めていた。それからようやくはっと我に返った純さんが、急いでバッグを拾い埃を払う。

「悪りぃ!」
「すいません、急に離したりして」
「いや、俺こそ」

 どこかばつが悪そうな様子の純さんに、私はぐっと心を決め、わざとらしく明るい声をかけた。

「明日の激励の意味を込めて作ってみました! 変なものは入ってません!」
「......ぷっ、なんだよそれ」
「ちなみに雨も降りませんから」

 「雨?」と不思議そうに訊き返した純さんだったが、すぐにああという顔をした。

「お前、普段料理しねぇのか?」
「いえ、お手伝いくらいは」

 つい、どうでもいい見栄をはってしまった。いや、今後お手伝いをがんばれば嘘にはならない、はずだ。
 純さんは、ふーん、とどこか楽しそうにバッグを眺めていたが、

「食っていいか?」

 おもむろにそれを開けはじめた。

「えっ!」
「なんだよ」

 ぶすっと不満げにする純さんに、かける言葉が見つからない。目の前で食べてもらって微妙な反応をされたら悲しいなぁ、という自分勝手な思いで、素直にうなずくことができなかった。

「......ただのおにぎりです。具詰めて握っただけです」

 途端に自分の声がしぼんでいくのがわかる。
 けれど純さんは、無言のまま保冷バッグを開け、その中の一つを取り出した。

「んな言い方すんな。がんばって作ったモンだろーが」
「............」

 そのまま慎重に包みをはがし、豪快にそれへかぶりつく。もぐもぐもぐと咀嚼したあと、目の前の喉仏がごっくんと動いた。

「うん、うめぇ!」
「ほんとですか?」
「おう。しかも俺の好きなチーズ入ってんじゃねぇか」
「はい。まえぞ......」

 のくん、と続けそうになり慌てて思いとどまった。協定のことは純さんには内緒なのだ。

「みんなから、純さんがチーズおにぎり好きって聞いて」
「へぇ」

 野球部の“みんな”だと適当にはぐらかすと、純さんはさして気にしていないようだった。

「明日の試合、後悔のないよう、がんばってください!」
「おう!」

 純さんがにっと笑って拳を突き出したので、反射的に自分のそれを当てた。こつりと、骨のぶつかる確かな感覚がした。




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