27. 雨のち
どんよりしたねずみ色の空から、ぽつり、ぽつり。あとはもう、せきをきったように降りだした。
すぐに止むだろうという、楽観視できるような雨ではなく、なんとなしに数日間続きそうな予感のするものだった。叩きつけるような強さはないが、さぁさぁと降るそれは、確実に真っ白な練習着を濡らしていく。
監督から、室内練習に切り替えるという指示が出て、私たちはノック練習を中断して校舎の方へと向かった。
「本格的に降ってきたねー」
私の背後から、チームメイトが駆けよってくる。この子とは中学の頃からの付き合いだ。
「だね。日焼け止め塗り直したとこ、濡れて気持ちわるいなぁ」
「てか、なまえさ。最近こまめに日焼け止め塗るよね。前は日焼けなんて全然気にしてなかったのに」
「え? そうかな」
さては、とニヤニヤ笑いを浮かべながら私の顔を覗き込んだ。
「あのちょびひげ先輩になにか言われたとか?」
「なっ?!」
「ははは。もしや図星?」
「ちっ、違うよ。大人になったらシミの原因になるって言うし......」
「ふーん?」
その時、さっさと戻れ、という監督の怒声が飛び、私たちは会話を中断して足を早めた。
そうだ、そもそも紫外線は人体に毒なのだ。別に純さんに膝の日焼けを指摘されたからじゃない。そう自分に言い聞かせ、何気なく当の本人のいる野球部のグラウンドを振り返った。
ーーけれどそこには、重い、重い雲が垂れこめていた。
そのグラウンドの上にだけ居ついたような、ひときわ巨大で暗い雲。そこから、ひどく陰鬱なものが次々にこぼれ落ちていく。
嫌な雨だった。
まるで誰かが、人知れずひっそりと泣いているみたいに。
その日の夜、哲ちゃんから、クリスさんが右肩を故障したという知らせを聞かされた。
だが厳密に言うと、故障したというより、以前から痛めていたのを隠して試合に出場し続けていたということらしい。
哲ちゃんは何も言わなかったけれど、固く握りしめられた拳が静かに震えていた。私には、兄にとって大切なその手が、無意識に傷つかないように、そっと自分のそれを重ね合わせることしかできなかった。
翌日。昨日の嫌な予感は的中し、今日もうっとうしい雨が降り続いていた。
隣の御幸くんとは、おはようと挨拶を交わしたきり何もしゃべらなかった。
一時間目の数学の教科書を出していると、倉持くんがこちらへそっと近づいてきた。倉持くんはぶすっとした顔で御幸くんを見下ろしている。
「オイ。昼休みのミーティング、どうなんだろうな」
だけど御幸くんはそれには応えず、あいかわらず窓の外を眺めている。朝からずっとこの調子だ。
倉持くんは、チッ、と小さく舌打ちし、その場を離れた。
今回の件は突然のことで、監督たちもかなり動揺しているらしい。あんなに取り乱している監督は初めて見たと、昨日兄が話していた。
それに、と別の心配事が頭をよぎる。クリスさんの怪我の具合も気になるけれど、これからはじまる夏の大会もどうなるんだろう。チームにとって扇の要である正捕手が抜けると、相当な痛手のはずだ。私は青道の捕手陣を三年生から順に思い浮かべてから、そっと隣の席をうかがった。
御幸くんは、昼休みに下されるであろうその決定に、静かな覚悟を固めているのかもしれない。
昼休みも終わり頃になって、ようやく二人がミーティングから戻ってきた。あいかわらずその表情は固い。クラスのみんなも、野球部の突然の緊急事態に、ちらちらと心配そうな視線を送っている。
私は二人の様子をうかがいつつも、我慢できずに切り出した。
「あの、クリスさんの怪我の具合は......?」
倉持くんは無表情にこちらを一瞥したあと、一呼吸置いてから口を開いた。
「......全治、一年だと」
「え......」
予想していたよりずっと重い事態に、しばし言葉を失った。一年、と自分を納得させるよう小さくつぶやいてみる。
もしクリスさんの怪我が予定通りに完治したとすれば、来年の夏大前。ただそれは完治までにかかる時間であって、そこからまた以前のように動くため、相当なリハビリが必要になるだろう。実質二年半しかない高校野球で、一年も部活を退くということは、選手として事実上、引退を意味する。
一年。
その言葉が、鉛のように心へ重くのしかかった。
倉持くんの言葉をきっかけに、教室が次第にざわつきはじめる。その時一人の男子が、じゃあさ、と控えめに口火を切った。
「夏大のキャッチャー、どうなんの?」
しんと静まり返る教室。その沈黙を破ったのは、御幸くんだった。
「俺」
みんなの視線がいっせいに御幸くんへとそそがれる。
「え? マジ?!」
「御幸がやんのか?!」
「三年じゃねーの?」
口々に言葉が飛び交うなか、御幸くんはやっと、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。飄々とした調子で、みんなの言葉に応えるように話しはじめる。
「ま、俺、期待のルーキーだし? 入学した時から、正捕手候補とは言われてたんだぜ?」
「マジかよ! お前って実はスゲー奴だったんだ!」
「へぇ、友達少ないメガネじゃなかったんだな」
「オイオイ......」
御幸くんが相当な実力の持ち主だということは有名だったものの、まさか三年生を差し置いて、正捕手を務めるほどではないと思っていたのだろう。野球部を知っている者にとっては、妥当と思うかもしれないが、そうでないものは、突然の一年生の正捕手抜擢に当然驚くはずだ。ましてや野球強豪校で。
「ヒャハッ! お前、友達少ねぇメガネだとよ」
「てめぇに言われたくねぇ」
二人のいつものようなやりとりを見て安心したのか、クラスのみんなもおのおのの会話へと戻っていく。
それから再び、二人の様子をうかがうと、先ほどは明るく振舞っていたものの、その表情には再び影が差していた。
倉持くんは重々しげに口を開いた。
「お前、やれんのか......?」
御幸くんは、愚問だ、とでも言いたげにニッと笑った。
「ピンチはチャンスって言うだろ?」
倉持くんはまだ何か言いたげな顔をしていたが、わかった、とつぶやいたきりもう何も言わなかった。
「倉持くん......?」
てっきり、御幸くんにもっと何か言葉をかけるものと思っていたから、正直意外だった。その言葉の少なさに半ば驚きつつ、私は倉持くんの方を見た。
ーーそれは、こいつに任せると強く信じる目。
それを目の当たりにした瞬間、ああそうかと納得する。御幸くんも倉持くんも、仲間だからこそ何も言わないのだ。ちょっとでも弱さを見せると、そこからぐずぐずと脆く崩れていってしまうことを、二人とも知っているから。
それから私は席に戻り、うすく曇った窓ガラスを眺めながら、今日まだ顔を合わせていないあの人のことを思った。
今頃、どうしているだろう。
放課後、私は純さんに会った。いかにも偶然を装ったけれど、実はずっと一階の掲示板付近でうろうろしていたのだ。ここなら絶対に通るはずだと踏んで。
「あの、純さん。クリスさんのこと......」
「ああ......」
どちらともなく、ひと気のない廊下のつきあたりの方へと移動する。生徒がいないせいか、先ほどよりも湿気を含んだひんやりした空気が漂っていて、思わず自身の肩を抱く。純さんは暗い表情で、窓の外の雨で淀んだ景色を眺めていた。
「去年から痛めてたんだと」
「え......」
そんな前から、誰もがそう思っただろう。クリスさんは誰にも告げず、一人で戦っていたのか。
私はクリスさんとは一度も話したことはない。けれど、はたから見てもわかるその優しい人柄は、誰からも慕われるような雰囲気をまとっていた。そして、普段の柔らかい物腰からは想像できないような、大胆不敵なプレーの数々。自信に満ち溢れたリード。だけどあの聡明で優しい瞳には、そんな悲しみの色を隠していたのか。
「なんで......。なんであいつ、俺らになんも相談してくれなかったんだよ!」
純さんは激しく言葉をぶつけたあと、けれどすぐ、はっとした面持ちになった。違う、そうつぶやき首を振る。
「どうして気づいてやれなかった。助けてくれって、ずっとサイン出してたんじゃねぇのか......」
「純さん......」
純さんは、私に向かってしゃべっているというより、自身の内側へ問いかけるような様子だった。その顔は、悲しそうにゆがんでいた。
絞り出すように悲痛な言葉を吐きだすこの人に、私はどんな言葉もかけられない。純さんには、哲ちゃんのように手を握ることもかなわない。
お願い、純さんの代わりに泣いて。
窓の外を眺めながら、冷たい雨にそっと祈った。
翌日も雨が続いた。晴れ間がなく傘を干すことができないので、前日の濡れた傘をさすはめになる。それがまた、憂うつな気持ちに拍車をかける。
けれど朝、登校前に見た翌日の天気予報。それだけが、唯一、嫌な方向へとずるずる引きずりこまれそうな心をつなぎとめてくれた。
その日の放課後、雨は更に激しさを増し、豪雨になった。空気を震わせる滝のようなごーーぅという雨が、窓ガラスを強く叩いている。
まだ夕方なのに、学校の中は夜みたいにどんより暗く、雨で閉め切った室内はひどく蒸し暑かった。
グラウンドの使えないソフト部は、室内で基礎トレをしていた。私は教室にタオルを忘れたため、取りに戻るところだった。
ひっそりと沈黙が支配する教室。なんとなく音を立ててはいけない気がして、こっそり中を覗きこむと、そこにはなぜか練習着姿の御幸くんがいた。暗い中、電気もつけず席につき、スコアブックをぼんやり眺めている。部活の途中で抜けてきたんだろうか。あんなに暗かったら、文字なんてほとんど読めないのに。なんだか入るのがためらわれて、つかの間様子をうかがっていると、急に御幸くんが顔を上げどこか遠くを見た。
その時、ふと。
私は御幸くんの中の純粋な核のようなものが、不安の色に揺れるのを見た気がした。
当然、あのことだろう。いつも強気で、否定的な言葉も柳のように返す御幸くんの、別の一面を垣間見た気がした。いくら周囲から天才と言われようが、まだ高校一年生なのだ。
ただの友達である私には何もできない。けれど、何もしないよりはマシだ。
私はひとつ息を吸い込んでから、勢いよく教室へ足を踏み入れた。
「お、どうした?」
「ちょっとタオル忘れちゃって。御幸くんこそ練習はいいの?」
「俺もスコア忘れて。もう戻るわ」
そう言って静かにスコアブックを閉じた。
私はカバンから慌ただしくタオルを取り出し、御幸くんの方を向く。
「......私、去年の春からずっと、哲ちゃんたちの練習見てたんだ」
「へぇ、ついにストーカー認めたか?」
「違うってば!」
冗談めかして笑う御幸くんをじとっとにらんでから、言葉を続ける。
「だからそれでさ、入学してからのクリス先輩のプレーも見てたんだけど」
「クリス先輩」という言葉に反応したのか、レンズの奥の瞳が、急に真剣なものに変わる。
私はできるだけその心に届くよう、強く、きっぱり言い切った。
「御幸くん負けてないよ。クリス先輩に、全然負けてない」
「なんだよ急に」
「そのクレバーな性格生かしてさ、強気でやらしいリードすればいいと思うよ」
「......は」
ゆっくり、その顔が伏せられた。
あいかわらずごぅごぅとうるさい雨音。
けれどしばらくして、それさえ跳ね飛ばすような大きな笑い声が教室を支配した。御幸くんはお腹をかかえ、心底おかしそうな様子でただ笑い続けている。
「お前さぁ、褒めてんのかけなしてんのかどっちかにしろよ!」
「じゃあ、けなしてる方で」
「おいおい」
私はあきれ顔の御幸くんを残し、すぐにドアの方へと向かった。早く戻らなくては監督にどやされてしまう。
「なまえ!」
「ん?」
振り向いた先の、揺るがぬ瞳。
「......ありがとな」
静かに首を振って応える。こんなものはただの気休めだ。でも。
御幸くん、がんばれ。みんな、がんばれ。
その時ふいに、あのことを思い出した。
「あ、そうだ。明日、降水確率0パーだって!」
「へぇ。じゃあ、『雨降って地固まる』だな」
私は力強く、前方に向かって拳を突き出した。ニシシと笑って御幸くんもそれに倣う。
触れ合わない拳は、けれど確かにつながった。
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