26. 鬼と地獄とウォーターメロン(3)

 小学生の頃、チームメイトとの間でこんな遊びが流行った。

「おにー! 鬼コーチ! おにー! 鬼軍曹ー!」

 年齢不詳、寡黙でおっかない顔をした青道の片岡コーチに向かって、こう怒鳴って一目散に逃げるのだ。いわば度胸試しみたいなもの。私の学年内で流行った遊びだから、哲ちゃんは知らない。榊監督にはなついていた私たちだったが、無愛想でどこか得体の知れない片岡コーチは、みんな少し倦厭しているところがあった。
 最初こそおっかなびっくりで犯行におよぶ私たち。けれども片岡コーチは、なぜか振り返って控えめにこちらを見るだけにとどまった。いつもそうだった。けっして声を荒げたり、私たちを無理やり捕まえようとはしなかった。

『あの人も昔はヤンチャだったらしいわよ』

 以前、母がおかしそうにそう言っていた。でも幼かった私は、その『ヤンチャ』の意味をよくわかっていなかったのだ。
 一度だけこんなことがあった。
 あの日。いつものように仲間の一人が、あの決まり文句を片岡コーチの大きな背中に浴びせた。どうせ何もしてこないだろうと踏んで。あの頃はサングラスがなくて、その鋭い瞳はダイレクトに私たちを捉えた。その昔の『ヤンチャ』時代が呼び起こされたのか、いつもは無反応だった片岡コーチがその瞬間、鬼の形相で追っかけて来たのだ。もちろん私たちは蜘蛛の子を散らすように駆け出した。みんな仲間のことなんかおかまいなしに必死で逃げた。
 あれ以来、その遊びはピタリと止んだ。だけどあの時の恐怖は、今も私の記憶へ鮮明に焼きついている。



「こ、こんばんは。お疲れ様です......」
「ああ」

 片岡先生はそう低く返事をし、私と同じくグラウンドの方へ視線をやった。
 しばらく沈黙が続く。
 何か、しゃべらなくては。
 今は部員たちが休憩中のため、グラウンドの方からはさして話題が見つからない。バッティングでもしていたら、よく打ちますねぇ、なんて当たり障りのないことが言えるのに。
 なんか気まずいなぁと心の中で呟きながら、その横顔をちらりと盗み見た。いつもはきっちりと撫でつけられている髪が、練習後のため少し崩れている。
 不思議だ。隣を見ながらそう思う。
 見た目はとても堅気に見えないのに、実際は手堅い職業の教師をしている。実年齢を聞いても、そうかな?と首をかしげたくなるような年齢不詳の雰囲気がある。この印象は、数年経った今でも変わらない。
 片岡先生は学校で現国を教えているが、私のクラスの受け持ちではない。そのため私は、実のところ先生のことをあまりよく知らなかった。昔から見ているにもかかわらず、こうして二人きりで話をするのは初めてのことだった。

「......あの時の悪ガキが、今は立派におにぎりを握れるようになったか」
「あ、はい、おにぎり作りました......ってえええ?! 先生?!」

 先生がふいに突拍子もないことを言うものだから、情けないほど声が裏返ってしまった。隣を見ると、サングラスの奥の瞳にはくっきりと、いたずらな色が浮かんでいるのがわかる。

「片岡先生......、知ってたんですか?」
「ああ。昔からよく親御さんと一緒に、差し入れを持ってきてくれただろう?」
「はい」
「今日もすまなかったな。重かったんじゃないか」
「いえ......」

 これがきっかけで、それまで固かった雰囲気が、徐々に気安いものへ変わりはじめた。
 そうだ、顔こそいかついものの、根はとても真面目でいい先生なのだ。それはこの一年、野球部への指導を見て感じていたこと。
 その時唐突に、幼かったあの日のことが心に浮かんだ。今なら聞いてもいいだろう。



 その後、残った仕事を手伝い、気づいた頃には練習はすでに終わっていた。日はとっぷり暮れていて、見上げた夜空の闇の色が濃い。どおりで空腹のはずだ。見かねた片岡先生が、食堂で夕飯をとるようにと提案してくれた。帰りは太田先生が車で送ってくれるらしい。



「はいどうぞ!」
「あの......ごはんちょっと多いんですが」
「なーに言ってんの。アンタもおばちゃんみたいに肉つけな!」

 食堂のおばちゃんがとてもいい笑顔で、ごはん山盛りのどんぶりを差し出している。ごはんのこんもり具合に戸惑ったが、おばちゃんという最強人種にかなうはずもなく、私はおとなしくそれを受け取った。
 トレーを持って、できるだけ目立たない端の方を歩くが、先ほどから部員たちの「こいつ誰だ」というひそかな視線が突き刺さる。マネージャーさんたちはすでに帰ってしまった。この部員だけの男所帯の中で、制服の女生徒はかなり目立つ存在だろう。私は背中を縮こめながら、キョロキョロと周囲の様子をうかがった。
 すると奥の方のテーブルに、ひときわ小さく、特徴的な桜色の後ろ頭を発見し、急いでそちらに駆け寄った。

「小湊さんっ」
「あれ、なまえちゃん?」

 不思議そうにこちらを見る小湊さんの周囲には、案の定、哲ちゃん、純さん、増子さんがもれなく座っていた。

「なまえ? どうしたんだこんなところで」

 哲ちゃんも驚きで目をみはっている。

「あ? なまえ?」

 純さんと増子さんもこちらに気づいて視線を向ける。私は哲ちゃんの隣へ腰を下ろし、本日の出来事を報告した。

「へぇ、手伝ってくれたんだ。ありがと」
「なまえ、疲れただろう」
「うが。たくさん食べるといい」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
「つかお前、結構大食いだな。どんだけ腹減ってんだよ」

 純さんがあきれたように、私のトレーのどんぶりを眺めている。

「これはおばちゃんに盛られたんですよ!」
「はっ、お前まんまとやられたな!」
「たかが一杯じゃん。なに毒盛られたみたいな顔してんの」

 向かいに座る小湊さんが、毒でも盛りかねないいじわるな笑みを浮かべる。
 でも、と私が反論しかけたところで、隣の哲ちゃんが

「残したら米の神様が泣くぞ」

 純さんは、なんでもなさそうにお味噌汁をずずっとすすりながら

「ま、一杯くらい食えるだろ」

 そういえばここでのルールは一人どんぶり三杯なのだ。しかし、私の胃を育ちざかりの男子高校生と同じだと思わないでほしい。

「別に自分でついだってよかったんだぜ」
「え?」

 背後からした声に振り向くと、ちょうど私の後ろの席にいた御幸くんのものだと気がついた。更に視線を動かすと、その向かいに倉持くんもいる。

「ヒャハハ! つーかそれ、セルフサービスだからな」
「ええっ?! そうなの?!」
「......残さないよね?」

 前方からは小湊さんのただならぬオーラ。哲ちゃんは私の方をじっと見つめ、純さんはどこかおもしろそうにニヤニヤ笑っている。
 ああ、こんなところにも鬼が潜んでいたのか......。
 絶望的な気持ちで箸を取ると、唯一、増子さんだけが、山盛りのごはんをかき込みながら私に同情的な視線をなげかけてくれた。

 鬼たちに見張られながら、その後、私は何とか夕食を完食した。デザートのスイカはみんなに好評で、持ってきた甲斐があったというものだ。
 食事を終え、トレーを運び終えたところで背後から声がかかった。

「お前、哲の妹か?」

 独特のイントネーション。振り返ると、三年生の東さんがこちらを見下ろしていた。あいかわらず大きい。

「はじめまして。えっと、兄がいつもお世話になっています」
「おお。なんやお前、えらいちんちくりんやのぉ〜!」

 大柄な東さんがガハハと豪快に笑うと、それだけで迫力があった。この人から見たら、女子は誰でもちんちくりんだろう。

「今日はスイカおおきにな。みんなからの差し入れはホンマありがたいねん。今日らの日は暑いから食欲も落ちるし、サッパリしたもんがええやろ。特に一年はな」

 そう言って東さんは、一年生が座っているあたりに視線をやった。その目はとても優しい。
 それを見ながら、この人は一見怖い感じだけど実はいい人なんだな、と東さんへの印象を改める。

「ホンマよう持ってきたな!」
「いえ」

 またガハハと笑って、背中をばしばしどつかれたので、思いきりむせてしまった。見た目どおり、やっぱり力もものすごい。

 それから帰り仕度をし、私は近くにいた純さんに声をかけた。

「今日はお疲れ様でした。明日もがんばってください。じゃあ私はこれで」
「おう、お疲れ」

 ニカっと笑う純さんに会釈をし、私は出口へと歩き出した。

「ちょ、おい待て! まさかお前一人で帰んのか?!」
「あ、ええと......」
「哲はどーしたんだよ」
「哲ちゃんなら、さっき東さんに引きずられていきました」
「あー、自主練付き合わされてんのか......」

 純さんはしばし眉を寄せ、何事か考えこんでいるようだった。

「あの」
「だ〜〜、しょうがねぇな......」

 ガシガシと頭をかいたかと思えば、行くぞ、と小さくつぶやいてさっさと歩きだした。私がぽかんとしてる間に、そのままどんどん先へ進んでしまう。
 どうしよう、太田先生に車で送ってもらうと早く言わなくては。
 するとその時、背後から小湊さんのからかうような声が飛んできた。

「なまえちゃん、気をつけなよ。可愛いスピッツが突然、送りオオカミに豹変しちゃうかもしれないしさ」
「オオカミ?」
「亮介テメ、ふざけたことぬかしてんじゃねー! なまえもさっさと行くぞ!」
「は、はい!」

 純さんは吠えながらずんずんと先に食堂を出てしまったので、私は慌ててそのあとを追った。



 外はもうすっかり暗く、夜空にはお餅みたいなまるまるとした月が浮かんでいた。湿気をまとった粘りつくような風が身体を包む。そこへわずかに含まれる匂いに、目には見えない夏の気配を感じた。
 結局、太田先生に送ってもらうと言いだせなかった。純さんだって練習で疲れているのに悪いことをしてしまった。
 そんな後悔の念にかられて、私は純さんの三歩後ろあたりを静かに歩いていた。前方から細く伸びる影に、ごめんなさいと謝りながら。

「おい!」

 突然、純さんがくるりとこちらを振り返った。

「亮介の言ったこと気にすんなよ。ちゃんと家まで送り届けるに決まってんだろ」
「いえ、別にそんな心配してません......」

 フンと鼻をならしながら純さんが歩幅を緩めたので、私は自然と追いつき並んだ。どうやら純さんは、小湊さんの発言を気にしていたらしい。
 けれどすぐ、気まずい雰囲気を吹き飛ばすみたいに口を開いた。

「そういやお前、かなり食ったな」
「あんなに囲まれたら残せませんよ......。おかげでスカートがキツキツです」
「女子であの量はたいしたもんだぜ」
「東さんに背中叩かれた時は戻ってくるかと思いました......」
「そーいや、スゲェむせてたけど大丈夫か?」
「はいなんとか。あの、東さんいい先輩ですね」

 私がそう言うと、純さんの表情がパッと明るくなった。

「おう! ちょっと口悪ぃけど、根は面倒見のいい人だぜ。俺の尊敬する先輩だしな!」

 そうキラキラと目を輝せながら夜空を見上げた。その顔を眺めていると、なんだか私まで幸せな気持ちになる。
 それから、またしばらく沈黙が続いた。自分たちの発する足音だけが、夜道に小さく響く。
 ジャージ姿の純さんと制服の私。あたりまえのように伸びる二つの影。
 まるで普通の高校生みたいだ。
 ふいにそう思った。帰路を共にして、「また明日」と笑顔で別れてそれぞれの家に帰る。けれど実際は、今ここでさよならをしても、純さんの家はとうてい徒歩で辿り着ける距離にない。もちろん、このまま引き返していつもの青心寮に戻るだけだ。
 そこまで考えて、いやまてよ、と首をひねる。純さんだって哲ちゃんだって野球に熱心に打ち込む普通の高校生だ。けれど純さんたちは、三年間自由時間の少ないあの寮の中で過ごす。放課後、ファミレスに寄り道しておしゃべりするわけでもなく、アルバイトに明け暮れるでもなく、休日に一日中遊びほうけるでもなく。ただそういった、普通の高校生の楽しいことをすべて犠牲にして、一心不乱に全国制覇という目的地を目指す。その第一歩が甲子園。そう考えると、甲子園がいつにも増してひどく尊いものに感じた。
 一人で勝手にしんみりしていると、その時、通い慣れたパン屋が視界に飛びこんだので、私はとっさに口を開いた。

「あ、あのパン屋さん! あそこのタマゴサンドが美味しいんです」

 純さんは、へぇ、と興味深々な顔をそちら向けた。店はもうとっくにシャッターを下ろしている。

「それと......」
「おう」
「そっちの並びの肉屋さんのコロッケも絶品です」
「ふーん、ずいぶんさびれた店だな」
「でも味は確かです」
「じゃあ今度行ってみっかな」
「はい、ぜひ!」

 あとのおすすめはと、くるくる頭を巡らせる。私はガイドになったみたいに、学校周辺のお店のことを純さんに紹介した。

「お、次は右だろ」
「え? はい」

 なんで純さんが道を知っているのだろう。ふと疑問に思ったが、すぐに去年の暮れにうちへ来たことを思い出した。

「哲ちゃんはこのあたりのこと、何か言ってましたか?」
「あ? いや特になにも......」

 そう否定しかけたところで、純さんはいきなり、あ、ともらした。

「さっき角にちっさいタバコ屋あっただろ」
「はい」
「あそこの店番に、置きもんみてぇなばあちゃんがいるんだと」
「ああ、昔からいますね」
「そのばあちゃんが最近、スピッツ飼いはじめたらしい」
「え、スピッツですか?」
「おう」

 得意げに純さんへその話を披露する哲ちゃんを思い浮かべると、自然と笑いがこみあげてきた。

「ス、スピッツって......ははっ」
「な。それがどーしたって話だろ!」
「なんか哲ちゃんらしいなぁ。それ」
「あいつ、いつもどっかずれてんだよ」
「まぁ、昔からです」

 私たちがこんな話をしているから、哲ちゃんは今頃くしゃみをしているかもしれない。
 ほどなくして、すっかり見慣れたバス停を横切る。もうすぐ私の家だ。スイカを運ぶ時はとてつもない距離に感じたのに、帰り道はひどく短い。

「あ、そうだ」
「なんだよ」

 ふいに今日の片岡先生との出来事を思い出した。なんとなく純さんに聞いてもらいたくて、先生とのことをかいつまんで説明する。

「じゃあ監督が追っかけてきたのって......」
「子供たちと仲良くなりたかったって」
「つーか、監督も不器用だよなー」
「はい、とてもそんな顔には見えなかったです」

 うなずきながら、今日の少し恥ずかしそうだった片岡先生の横顔を思い返した。鬼の形相だったのは、緊張からくるものだったらしい。今日は、先生といい東さんといい、いろんな人の意外な一面を知ることができた。
 それから、徐々に我が家の古びた塀が見えてきたところで、楽しいひとときは終わりを告げた。

「送ってもらってありがとうございました。合宿、残りもがんばってください」
「おう。お前もお疲れ」

 純さんが右手を上げて去っていく。けれど急に、そうだ、とつぶやいてこちらを振り返った。

「おにぎりうまかったぜ!」

 その不意打ちとも言える眩しい笑顔に、一瞬、息をするのも忘れ、胸のあたりにきゅんと何かが跳ね上がった。少し混乱しながらもごもごと、はいともいえともつかぬ返事をする。私が握ったとは言っていないけれど、いつもと違ういびつな形で気づいたのだろう。
 去っていくその背中をぼぅっと眺めていると、急に視界に白いものがちらついたような気がした。
 ああ、きっとこれは、あの暮れの日の雪だ。
 なつかしい雪を幻視しながら、けれどもその背中は、あの日よりもずっと広く逞しくなっていた。




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