23. いつもと違う月

「どうしたの?」

 休み時間、廊下の窓辺にたたずむ痩身があまりに心細く不安げだったので、私は無意識に声をかけていた。

「え? あ、結城さん」

 渡辺くんは私に気づいて振り返り、いつもと変わらないやさしい瞳で微笑んだ。

「珍しいね。そんなにぼーっとして」
「ああ、うん」

 渡辺くんは私から目をそむけ、窓の外へ視線をやった。私もそこへ並んで立ち、同じ方へと目を向ける。
 季節はもう六月。まだ梅雨入りはしていないものの、湿気を含んだむし暑い日があるかと思えば、ブレザーが恋しくなるような肌寒い日もある。今日は前者の方で、日差しはさんさんと降り注ぎ、アスファルトを強く照らしていた。

「......部活のこと?」

 その言葉を受けて、渡辺くんは曖昧に笑った。
 渡辺くんとは今まで他愛のない話しかしたことはなく、とりたてて深い間柄でもない。けれど私は、あの試験の日の恩をどこかで返したかったのかもしれない。
 別に渡辺くんに無理に話してもらおうとも思っていないし、このまま二人でひなたぼっこをして休み時間を終えてもいいと思った。眩しい光を浴びながら、私は渡辺くんの次の言葉を待つともなく待つ。
 今日は天気がいいから、お昼休みは倉持くんと外でサッカーをしよう。私が倉持くんを外へ連れ出すと、御幸くんは一緒について行こうとはせず、いつもひらひら手を振って見送るだけだ。けれど本当は混ざりたいのかもしれない。そんなことをぼんやり心に思い浮かべた時だった。

「......辞めようか、迷ってる」

 静かに言葉を落とした渡辺くんは、あいかわらず窓の外を見ていた。

「......そっか」
「別に生半可な気持ちで入部したわけじゃないんだ。それなりの覚悟はしてたよ」
「うん」
「でもやっぱり、辞めてくのは一般入部の奴らが多いよね」
「......そうだね」

 私はあの試験の日に、会場で渡辺くんに会った意味を考えていた。それは、渡辺くんと御幸くんとの差であり、一年前の哲ちゃんとクリスさんの差だ。
 圧倒的なスタートラインの違い。
 ここ青道で、それを見せつけられて耐えられずに辞めていった部員たちは多いと聞く。スカウトされて入部した生徒は実力を見込まれている者たちだ。けれど、一般で入部した生徒は、それなりの決意があったのだろうが、やはり理想と現実のそのギャップは大きいのだろう。
 誰かに話すことで渡辺くんの心が少しでも軽くなれば。それくらいの気持ちだった。けれどいざ打ち明けてもらうと、何か励ます言葉を、とか、引き止めた方がいいのでは、とか様々な感情が渦巻いて次の言葉が出てこない。
私は、考えなしに聞き出してしまった自分の軽率さを後悔していた。自分からかけられる言葉なんて何もないというのに。



 その日の夜。醤油をきらしたから買ってきてほしいと母におつかいを頼まれ、私は家の近所のコンビニへと向かった。ここは青道生がよく利用するコンビニであり、夜遅い時間帯は特に野球部の寮生が多い。そのため、顔見知りと鉢合わせると具合が悪く、普段はあまりここを利用しなかった。

 暗闇の中にひっそりたたずむコンビニは、どこか気の抜けたような平和な明かりが煌々と灯っていた。外から見ている限り、青道生らしき人物はみとめられなかったので、私はそのまま扉を押し開け中に入った。
 棚に陳列された醤油を掴み、急いでレジへと向かう。その途中、入口で入店の音楽が鳴った。近所のコンビニへ出かけるだけなので、今の私は、Tシャツにショートパンツ、家のサンダルをつっかけただけというかなりの軽装だ。こんな姿のまま知り合いに会いたくなかったので、目的は早々に終わらせるに限る。
 レジで小銭入れをごそごそあさっていると、金額をきっちり出そうとして予想外に手間取ってしまった。後ろに人が並ぶ気配がしたので、焦った私の手から一枚の硬貨が滑り落ちる。チャリーン、と音がした方へ思わず手を伸ばしたその時、私の手の甲に、ごつごつした何かが触れた。
 人の手だ。
 そう瞬時に判断したのと、無意識に顔を上げたのはほぼ同時だった。

「......なまえ?!」
「純さん?!」

 その手の持ち主は、まさに今、もっとも鉢合わせたくない人物その人だった。
 Tシャツにジャージ姿の純さんは、こちらを見てわずかに動揺しているようだ。
 私は、その左腕に抱えられているものに何気なく目をやった。そこには、ファンタグレープのペットボトルとポテチの袋。そして右手には、一冊の本。
 そこには、やわらかい色調で彩られた可愛いらしい女の子が描かれていた。それは、胸躍る冒険も心熱き闘いともまったく無縁な、いわゆる少女マンガというやつだった。
 落ちたものを拾おうとした男女が、思わず手を重ねる。そういえばこれも立派な少女マンガの展開だ。慌てて照れくさそうに手を引っ込める純さんを見ながら、ぼんやりそんなことを思った。



 会計を済ませた私たちは、互いにそのまま別れるのも不自然と感じ、なんとなしに連れ立って外へ出た。コンビニの正面のガラスにもたれかかりながら、手持ちぶさたに片足をぷらぷらさせてみる。変な格好の時に会ってしまったな、そう思いながらアスファルトを見つめた。純さんは外へ出てからずっと無言だった。
 けれども今の私は、自分の格好なんかよりずっと、例のものへの好奇心の方が勝っていた。

「珍しいですね、こんなとこで会うなんて」
「おう」
「あのそれ......例の」
「おお。つーか知ってたのか?」
「はい。前園くんから聞きました」
「......母親と姉貴の影響だ」
「へぇ! お母さんとお姉さんの」

 若干ぶすっとした面持ちの純さんは、ペットボトルのキャップに手をかけた。手元で、ぷしゅっ、と小気味の良い音が鳴る。
 私は、ペットボトルを傾けてファンタを飲む純さんの、上下する喉仏をちらりと盗み見る。
 一気に四分の一ほど飲み終えた純さんは、静かに口を開いた。

「二人だ」
「え?」
「だから、姉貴が二人いるんだよ」
「二人も!」

 確かに、お姉さんが二人もいたら影響を受けるのは無理もないな、と納得する。

「お前は少女マンガ読まねぇのか?」
「友達に借りるくらいですね。そもそもうちは、マンガをほとんど読まないです」
「あ〜、哲もそんなこと言ってたな」
「哲ちゃんも将司もあんまり興味ないんですよ」
「お、そーいや、お前んとこは男二人か。んじゃあ俺と逆だな」
「......あ。そうですね」

 意外な共通点を発見し、私たちは思わず顔を見合わせた。隣の純さんの目がすっと細められ、私の心に温かい何かが灯る。
 その時、コンビニの駐車場に大型トラックが入ってきた。やかましいエンジン音に、私たちの会話は一旦途切れる。しばらくするとその音は止み、純さんがわずかに視線を落として私の足元を指差した。

「つーか、さっきから気になってたんだけどよぉ」
「なんですか?」
「お前、膝真っ黒だな!」

 おかしそうに笑う純さんに指摘され、思わず自分の膝を見ると、確かにショートパンツからのぞく膝の部分だけが見事に黒く日焼けしていた。ソフトのユニフォームの特性上、どうしてもこの日焼けからは逃れられないのだ。

「しょうがないじゃないですか! そりゃ野球はいいですよ、長ズボンですし。一回ハイソックスはいてみてくださいよ」
「そりゃ気持ち悪りぃだろ!」
「でも、小湊さんなんかは結構似合うんじゃないですか?」
「......お前、それ亮介に言えるか?」
「もちろん言えませんよ......」

 でもまぁ似合うだろうな、と純さんが小さく笑った。
 けれど私は、先ほどから少しだけ居心地の悪さを感じていた。特になんとも思っていなかった自分の露出した脚が、純さんに指摘されたことで、なんとなく心許ない気持ちになる。思わず内腿を擦り合わせてみるも、特にこれといった効果はない。なんでよりにもよって、こんな時にショートパンツなんかはいてきてしまったんだろう。でも、このまま見えないところへ引っ込んでしまいたい、と思う反面、もっとここで話していたいという矛盾した欲求がわき上がる。
 その時ふいに、今日の渡辺くんとの会話が思い出された。

「あの、ちょっと真剣な話いいですか?」
「なんだよ?」
「......純さんは、野球部辞めたいって思ったことありますか?」
「あ?」
「えっと、ちょっと悩んでて」
「......お前、ソフト辞めたいのか?」

 純さんは急にふっと真面目な表情になり、確かめるようなゆっくりした調子で訊き返した。

「いえ、友達の話です」
「ふーん......」

 自分の悩みを「友達の話なんだけど」と持ちかける常套句だと思ったのかもしれない。けれども、純さんは特に追及することもなく、つかの間、思案しているようだった。

「最初の頃は毎日思ってたな。練習キツすぎて」
「......はい」

 哲ちゃんも「辞めたい」と口にしたことはなかったが、入部当初はそんなことを思っていたのかもしれない。

「でも、あいつらがいたから。辛いのは自分だけじゃねぇって思えたからじゃねーか。今まで続けてこられたのは」
「......はい」
「......んで、あいつらと一緒に強くなりたいって思ったからだ」
「......そう、ですか」

 断定するようなその強い口調に、しばし圧倒されてしまった。
 “チームのため”
 そこには、いろんな想いが詰まっているのだ。一人一人、形は違えど、向かう先は同じ。片岡監督の指導と、純さんの言葉の意味が、素直に溶け合ってすとんと心に落ちていくのがわかった。

「ありがとうございます。友達にそう言ってみます」
「おう。後悔だけはすんなって言っとけ」

 はい、と呟いて私は地面に視線を落とした。そこから目線だけを隣に向けて、再びその表情を盗み見る。
 なんだろう、夜に会うのがはじめてのせいなのか、純さんがいつもとは違う人に見えた。この人ははたしてこんな顔をしていただろうか。中身は何ら変わらないはずなのに。
 コンビニには、先ほどまで一定の間隔で客の出入りがあったのに、それが急に途切れてしまい、気まずい沈黙が舞い降りた。何か話さなくては、と正体不明の焦りに駆られる。純さんと一緒にいて、今まで沈黙が怖いと感じたことなんてなかったのに。
 ふと、何気なく夜空を見上げると、そこには、ちょうど真ん中ですっぱりと割られたような綺麗な半月が浮かんでいた。欠けた部分には、同じ面積の空白を作っている。

「今日は半月ですね」
「おう」

 会話に困った時は天気の話を、そんな以前聞いた会話術を思い出した。

「半月ってなんか中途半端じゃないですか?」
「あ? なんだ急に」

 目の前の口がへの字に曲がっている。それを横目に、私は言葉を続けた。

「あれ、丸いのかシャープなのかはっきりしない形だから。それに、あの欠けた半分がすごく寂しい感じ」
「ああ」

 純さんは一つうなずいたあと、あれか、と呟いて夜空に浮かぶ半月を見上げた。そのまま数秒間、純さんはそれを眺めている。
 この人はあの月を見て一体何を思うのだろう。
 そんな疑問がふと浮かんだ。
 しばらく黙りこんでいた純さんだったが、少し経ってから、視線を半月へと向けたままそっと沈黙を破った。

「でもよぉ、あの形ってちょうど半分だろ」
「はい」
「じゃあ、片割れがいるってことだよな」
「まぁそうですね」

 私にはまだ、その言葉の真意がわからない。だが何気なくはじめた話題にも、その口調から、真剣に返答しようとしている意思が感じられた。そして、声を低く落とし言葉を続ける。

「......それなら、あれがその片割れを待ってるって思ったら、少しはマシじゃねぇか?」
「え? う〜ん......」

 その言葉の意味を理解しようと半月を見上げると、それはあるものに似ていると気がついた。

「ああ、ハートの割れたキーホルダーみたいなものですか?」
「おう」
「............」

 ずいぶんロマンチックな発想だな、と思った。
 ちょうど純さんが私の方を向いたので、その視線が静かにぶつかりあう。安っぽいコンビニの明かりに照らされたその瞳は、けれどもひどく一途な色をたたえていた。

「......おい、なんか言えよ」
「えーと」
「恥ずいだろが......」

 目の前のその顔が、ゆっくりと、でも確実に赤く染まっていくのがわかる。

「......ぷっ、くっ」

私は無意識に口に手を当て、こみ上げる笑いを抑えこもうと試みるが無駄なようだった。

「おい! 笑ってんじゃねぇ!」
「すいません......。なんか今、ほんとに少女マンガ好きなんだなぁと思って」
「悪かったな!」
「いえ、いいと思います。その発想」

 口許を歪めた純さんは、バカにしやがって、と吐き捨ててそっぽを向いた。違いますって、とフォローするけれど、なかなか機嫌を直してくれないようだ。
 困り果てた私は、その元凶である半分の月を仰いだ。あいかわらず、ぽっかりとその半分が欠けている。

「そうか、待ってるのかぁ......」

 これまであまり好きになれなかった半月も、純さんにそう言われると、なんとなく好きなれる気がするから不思議だ。

 今日はいつもと違う月を見た。





「渡辺くん、ちょっといいかな?」

 別の教室へと移動中の渡辺くんに声をかけ、窓ぎわへと誘う。面と向かって話すのはなんとなく恥ずかしいので、昨日のように並んで話す距離感がちょうどよかった。
 今日は、昨日の晴天からは想像できないようなどしゃ降りが、朝からずっと続いている。私たちはしばらくの間、窓を叩く強い雨をただ眺めていた。
 自身の言葉ではないから、「ある人が」と前置きをしてから、私は昨日のことを話しはじめた。ただ自分は、純さんの言葉を借りて伝えるだけなのだ。
 私が話し終えてから少しの間をおいて、渡辺くんは静かに口を開いた。

「昨日さ、他の奴らとも話したんだよね」
「うん」
「もう少ししたら恒例の“地獄の夏直前合宿”ってのがあってさ」
「ああ、もうそんな時期か」
「......辞めるのは、本当の地獄見てからでいいよねって」

 そう言った渡辺くんの表情は、先ほどより幾分かやわらいでいるように見えた。

「そっか、うん」

 私もつられて笑い返す。先ほどまで張りつめていた空気が、一気にゆるんだような気がした。

「あーあ。せっかくやる気出したのに今日はこの天気か。監督の地獄のノックも受けられないや」

 どこかふっきれた風の渡辺くんが、彼にしては珍しくどこか棒読みの口調で言った。

「そうだね、こんな天気だもんね」
「......残念だなぁ」

 私はそのかすかにゆるんだ口許に視線をやる。

「渡辺くん。『やったー』って喜んでいいんだよ?」

 その表情は、今度ははっきりと笑顔を作っていた。

「うん、内心『やったー』だよ」
「やっぱり」
「ただ、室内練習も大変だけどね」
「まぁね」
「でも、またがんばってみるよ」
「うん......!」

『晴れろ!』

 そう強く念じながら、私たちはどんより曇った灰色の空を見上げた。




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