22. 青い心事件

 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。教室では、授業の緊張が解け、クラスメイトたちは各々お弁当を広げたり、購買へ移動したりとざわざわした雰囲気が漂っている。
 私はミニバッグを持って立ち上がった。

「今日、哲ちゃんお弁当忘れてさ。ちょっと二年の教室まで届けてくるね」
「わかった。じゃあ先に食べてるね」
「うん」

 私は、鈴木さんこと友ちゃんに声をかけて教室を後にした。



 階段の踊り場で携帯を確認してみる。休み時間に哲ちゃんにメールをしたが返信はなかった。携帯に無頓着なためいつものことではある。私はため息をひとつついてから階段を上がった。

 兄の教室に辿り着き、私は入口付近にいた女子に、結城哲也を呼んでください、とお願いした。
 しばらく待つとその人が

「結城くん、寮の方に行ったみたい」

と親切に教えてくれる。
 わずかなショックを受けながら、私は礼を言って二年の教室を出た。
 おおかた、野球部のみんなと食堂で試合のDVDを観ながら、購買のパンでも齧っているのだろう。けれど、このままお弁当を持ち帰っても腐らせるだけだ。
 私だってお昼まだなのに......、と恨めしげに兄のお弁当を見つめながら、仕方なく寮の方へと急いだ。

 ぐぅぐぅとうるさいお腹を押さえながら、私は寮の入口の「青心寮」という看板を見上げた。建物の前は何度も通ったことがあるけれど、一度もその敷地内に入ったことはない。ここは寮生以外は立ち入り禁止のためだ。
 これは一応緊急事態なのだ、と自分に言い聞かせ、私はおそるおそるその敷地内へと足を踏み入れた。
 右手には普通のアパートの作りのような寮が見える。軒先にはタオルや練習着、下着などの洗濯物が干され、なんというか生活感に満ち溢れていた。

 少し歩くと突然、何やら、ガハハという大きな笑い声が耳に飛び込んでくる。私が建物の陰に隠れてそっとその様子をうかがうと、一人の巨漢とその周りに数名の部員が談笑していた。あれは確か、現チームの攻撃の要、東さんだ。近くで見るとかなり大きい。
 私が野球部を見学していた時、しばしば純さんが東さんを慕っている姿を目にしたことがある。その時の純さんは、普段の狂犬の雰囲気はなりをひそめ、さながら尻尾をはちきれんばかりに振る子犬のようだった。
 けれど、純さんの尊敬する人だからといって、どんな人かはわからない。外見からして、見つかったら首根っこをひっつかまれてつまみ出されそうだ。私はそのまま姿を隠してその場をやり過ごした。

「ほっ、なんとか見つからずに済んだか......」
「おい! ここは寮生以外立ち入り禁止だぜ」

 安心しかけたところで、私の背後からいきなり声がかかった。それに反応して私の肩がびくっと跳ね、こわごわと後ろを振り返る。
 そこには、明るい髪を逆立てた男子が、私をギロリと見据えていた。

「す、すいません! ちょっと急ぎの用で兄を探していて......」
「はぁ? 兄?」
「はい、二年の......」
「おい山崎! どうした?」

 山崎と呼ばれた男子の後ろから、部員が数名ぞろぞろと登場する。寮生に出くわさないように気をつけていたのに、何やら大事になってしまった。うろたえながら部員の顔ぶれを見渡すと、その中の一人に純さんを発見し、私はほっと胸を撫で下ろした。

「純さん。哲ちゃん知りませんか」
「あ? 哲? 哲ならまだ食堂じゃねーか?」
「ありがとうございます」

 安堵したのもつかの間、私は無数の好奇の視線に晒されていることに気がついた。

「え、なに? こいつ哲の妹?」
「あんま似てねーな」
「へー。哲のヤツ、哲ちゃんなんて呼ばれてんだ」
「オラ、テメーら! 見せモンじゃねぇぞコラァ!!」

 そう気を利かせて純さんはフォローしてくれるが、明らかに私は見知らぬ土地に迷い込んだ珍獣状態だった。
 純さんは、散れ散れ、と怒鳴ってしっしと向こうへ行けのポーズを取る。

「えー、なんだよ伊佐敷」
「ケチ」

 文句を言いつつ、部員たちがしぶしぶ歩き出す。

「俺、山崎!」
「オレ、桑田!」
「うるせー! とっととあっち行け!」

 純さんが、口々に飛び交う自己紹介に、ガルルルと犬歯をむき出しにして吠えたところで、部員たちは完全に背を見せて立ち去った。
 それから、フンと鼻をならして私の方に向き直る。

「あいつらいると話進まねぇからな」
「すごいにぎやかでしたね」
「ヤローが集まるとあんなもんだろ。で、哲だっけ?」
「はい、哲ちゃんお弁当忘れちゃって」
「あいつさっきパン食ってたぜ」
「やっぱり......。でもいいんです、お弁当も食べさせますので」

 私はお弁当の入ったミニバッグを持ち上げて揺らした。
 すると、純さんが不思議そうに指でミニバッグをつつく。

「つーかよぉ、前から思ってたんだけど、その入れモンのその絵なんだ?」
「ああ、これは国分寺市のキャラクターです。蛍をモチーフにしてるんですよ」
「ふ〜ん......虫か」
「む、虫......。まぁ、確かにそうですね」

 女の子なら「可愛い!」と言って褒めてくれるけれど、男の人ならこれが普通の反応かもしれない。

「哲にしては、えらい可愛いの使ってんなぁと思ってよ」
「これは私が前にあげたものなので」
「お前の仕業かよ」

 純さんは真顔で言葉を返した。
 哲ちゃんは持ち物に無頓着なので、わりあい喜んで受け取ってくれた。ちなみに、将司にはいらないと突き返されたシロモノだ。思春期の弟との一件に、私は地味に傷ついたのだった。

「ここは国分寺ですから、地元愛ですよ」
「へぇ......」

 あまり興味がないのか、お気に召さないのか、純さんの表情は若干当惑ぎみだった。私は、それならと思い、携帯を開き画像を呼び出して純さんに渡す。

「こっちは西の非公式ゆるキャラです」
「ぷっ、なんじゃこりゃ?! すげーシュールだな! しかも非公式かよ」

 円形鐙瓦の頭から二本の脚のみが出ているこのゆるキャラは、かなり独特のデザインをしている。
 純さんは笑いを噛み殺しながら、携帯のディスプレイを見つめていた。どうやらこちらはお気に召したらしい。

「俺もここ住んでるってだけで、この辺のことなんも知らねぇからな」
「野球やるために来たんですから、しょうがないですよ」
「ま、お前らの地元だし覚えとくぜ」

 ほらよ、と言って純さんは私へ携帯を返す。それから私は、純さんにお弁当を差し出した。

「じゃあ、すいませんが哲ちゃんにお弁当渡しといてもらえますか?」
「おう」

 お弁当を渡したあと、何気なく上の方へ視線をやると、寮の二階の通路で一人の部員が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。

「寮生活だと洗濯も自分たちでするんですね」
「おう。最初は大変だったけどな。自分でやると親のありがたみわかるぜ?」
「あー、練習着の泥落とすの大変なんですよね。お母さんがいつも言ってます」

すると、その部員は下にいた純さんに気づき、うれしそうに手を振った。

「純さーん!」
「おー!」
「俺、純さんの洗濯物も一緒に取り込んでおきますんで!」

 善意の塊であろうデキる後輩のその手には、黒のボクサーパンツがしっかりと握られていた。もちろん、私たちは手元のそれに釘付けになる。

「うおっ?!」
「あっ!」

 しばらくニコニコしていた部員だったが、ふと私の存在を認め、しまったという顔でドアの奥へと引っ込んだ。

「............」
「............」

 二人でしばらく無言のまま立ちつくしていた。突然の非常事態に、私も少し混乱している。
 と、するとえっとさっきのは純さんの下着、ということになる。故意ではなく、明らかに不幸な事故だったが、私は純さんの下着を見てしまったのだ。多少気まずいと思ったものの、男の人だからそれほど気にしないだろうと思い直し、私は意を決して純さんの方を向いた。そう、できるだけ自然に振る舞うのだ。自然に。

「いやぁ、びっくりしましたね〜ってえぇえ?!」

 そこには、シューッと蒸気の音がしそうなほど真っ赤な顔をした男子が立ちすくんでいた。他ならぬ純さんだ。

「じゅ、純さん......?」

 私はむしろこのことに驚いていた。純さんは、人に下着を見られるくらいどうってことないというスタンスだと思っていたからだ。顔に似合わず、意外と繊細な心の持ち主らしい。

「いや、あの私、全然気にしてませんから」
「おう......」
「ほんと誰にも言ったりしませんから」
「おう......」

 私のフォローもむなしく、純さんは完全にフリーズしていた。ただ、体がフリーズしているだけで、むしろ本人はきわめて熱そうに見える。

「えっ、えっと、大丈夫です。なんなら男の人の下着なんて見慣れてますから!」
「あ?」

 さすがに私の言葉を受けて、硬直していた体が元に戻ったらしい。けれど、その瞳には少しの怯えのような色が浮かんでいた。

「違います! そうじゃなくて!」
「お、おう」
「お父さんのパンツと! 哲ちゃんのパンツと! 将司のパンツです!」

 私は高らかに固有名詞を宣言し、純さんの顔を見据えた。
 純さんはまだ少し動揺している様子だったが、すぐに小さくうなずいてくれる。

「お、おう。わかった。......なんか取り乱しちまって悪かったな」
「いえ......」

 当初、私はそれほど恥ずかしくはなかったけれど、純さんの顔の熱が伝染してしまったのか、だんだんと頬に熱を帯びていくのを感じていた。
 かなり気まずい沈黙になってしまった。控えめに純さんの様子をうかがうと、何やら口をもごもごさせているのが見える。

「......あのよぉ、つーか」
「はっはっはっ!!」
「ヒャハハハ!!」

 その時、純さんの声をかき消すように、あの聞き慣れた独特の笑い声が耳に飛び込んできた。それを受けた私の背筋はひやりとし、身体がだんだんと硬直していく。

「男子寮でパンツパンツ叫んでる痴女がいるぞー」
「ヒャハッ! お前かよ!」
「御幸くん、倉持くん......」

 例の二人がお腹を抱えながら私たちの前までやって来た。運の悪いことに、この二人に私の失態を目撃されてしまったのだ。なんとなく弱みを握られたくないタイプだと思った。

「ふ、二人とも......このことはどうか内密に」
「どうする倉持?」
「やー、どうすっかな」

 あとから思えば、クラスに友達がいない二人には、そもそも言いふらす友達すらいないのに、パニックになった私はそんなことにも気がつかなかった。

「あーなんだっけなぁ、お父さんのパンツと」
「哲さんのパンツと」
「な、なによぅ......」

 二人がニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて私に近づいてくる。やっぱりかなり性格が悪い。

「もう!!」

 恥ずかしさがピークに達した私は、思わず青心寮を飛び出していた。これからあの三人にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

 けれどすぐに、校舎に向かって全速力で駆ける私の後ろを、誰かが追ってくる気配がした。
 純さんだ。

「おい待て!」
「大丈夫です! 」
「そうじゃねぇよ!」
「気にしてません!」
「なまえ!」

 急に名前を呼ばれてひるんだ隙に、すぐに純さんは私に追いついた。そのまま手首をがしっと掴まれる。

「おいっ!」
「もういいんです。どうせ私はブラコンでストーカーの痴女なんです......」
「落ち着けって」

 言い聞かせるような物言いで、純さんは掴んでいる手に少し力をこめたので、私は次第に冷静さを取り戻していった。つながれた手はそのままに、私たちはゆっくりと向かい合う。
 すると純さんは、はっと弾かれたように手を離した。それから、困ったようにガシガシと頭を掻く。

「あー......。元はと言えば俺が悪かったんだし、あいつらにはあとでキツく灸据えとくからよ」
「は、はい」

 それから、目の前のどこか真剣だった純さんの表情が、みるみるやわらかく崩れていくのがわかった。

「ぷっ、はは。なんかバカみてぇだな」
「ぷっ......そうですね」

 徐々に冷静さを取り戻した私たちは、何かが吹っ切れたように笑い出した。もう、何がおかしかったのかさえわからないくらいに。
 ひとしきり笑ったところで、純さんはふと真面目な表情になった。なんとなく空気が変化したことを感じて、急にどうしたんだろうと、その顔をちらりと見上げてみる。

「あのよぉ、答えにくいことだったらいいんだけど......」

純さんは私から視線をそらし、珍しく言い淀んでいる。

「なんですか?」
「......“将司”って誰だ?」
「え......?」

 私は一瞬何のことかわからず、純さんの顔を眺めた。この人はいたって真剣な表情をしている。

「えっと、“将司”は弟ですけど」
「弟?」
「はい。哲ちゃんそっくりの」

 それを聞いた純さんは、つかの間ぽかんとしたあと、先ほどの勢いがぶり返したのか、声をあげて再び笑い出した。

「だ、だよな。俺はてっきり......くっ、ははは」
「......てっきり?」
「色気ねぇなぁ、お前。そこは彼氏のパンツとか言ってみろよ」
「なっ、彼氏なんていませんよ!」
「だろーな。パンツパンツ叫ぶくれぇだしな」
「ちょっと! 純さんまで!」




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